∑考=人

そして今日も考える。

生成AIが仕事のヒエラルキーにもたらす影響

ChatGPTなどの生成AIがすごく流行っている。私も公私問わずによく使っている。たぶん使ったことがない人はもはやいないのでは。というぐらいに便利。

 

例えば仕事上での使い方としては、お客さんの課題に対して技術を使ってどういう実現方法が考えられるか?という大枠のアイデアは結構考えてもらっている。じゃあ実際にプロトタイプを作ってみようとというフェーズになった場合も例えば、どんなパラメータの設定を行うのか、どのようにコーディングするのか、なども聞く。以前も書いた気がするが、最近は結構使えるようになってきているのだ。

 

その他にも、ざっくりプロジェクト推進上の現在の課題と対策案を教えてもらうこともある。どちらかというと対策を打っていくために教えてもらう、というよりはお客さんに対策案を伝えるために形式的な文書をまとめてもらう、というのが主な目的になる。

 

というのも、これは個人的な見解だが、プロジェクト推進上の問題に対する対策案というのはほとんど定石的な考え方があるけれど、現実的にはその通りに対策を実行するのが難しい、ということがほとんどなので、ChatGPTに聞いたところでプロジェクトの問題が解決するわけではない。

 

もっとどうでも良いことにも使う。例えば最近私はプロジェクトを離任したので離任の挨拶とかを考えてもらった。別に事前に準備するほどのことでもないが、上手く話せないのは困るし、かといって準備に時間や思考を使いたくないので、意外とそういう作業に使うのもアリだと思う。

 

「離任の挨拶を考えてください。考える上で必要な情報は私に質問してください」みたいなお願いをすれば、質問という形で挨拶に必要なフレームワークがはっきりする。あまりやったことはないけれど、どんな人に何を伝えたいかをインプットすれば、資料構成のアイデアとかもそこそこ筋の良いものを出してくれる気はする。

 

プライベートでいうと、資格試験の解答に関する解説などを聞いて、内容を深ぼっていくことができる。例えば理系の学問や計算問題など誰が見ても明らかに正解が一つと考えられる問題ではなく、国語の読解問題のようなどうやって解釈すればその解答にたどり着くのかがわからないような問題はとことん聞いてみると良い。

 

もちろん、ChatGPTが全面的に正解、とはならない点には注意が必要であるが、どのように解釈をしているのかやその解釈が本当にあっているのか、などは理解を深めるのに役に立つと思う。

 

他には、ある特定の条件に一致する子どもの名前(二文字の、◯という文字を含む名前、など)の候補を大量に挙げてもらったりした。もちろん、どう考えても名前とはなりえないような文字列や条件を満たしていないものが含まれたりもするが、たくさんのアイデアを短時間で生成するユースケースも適していると思う。

 

これらのことから何が言えるかというと、「考える仕事」のファーストステップはChatGPTにお願いすればやってもらえる、ということなのだ。逆に言うと、生成AIという名で呼ばれてはいるものの、最終的にた使えるアウトプットを出力することはできない。あくまでプロトタイプである。人間による検証が必要なのだ。

 

私は生成AIの登場は自分を脅かす反面、とても望ましいことだと思っている。それはこれまで漠然としたアイデアを考えているだけなのにすごく大きな得をしている人の価値が下がり、最終的な形に仕上げることの価値が上がっていく気がするからだ。

 

どんな仕事もいくつかのフェーズに分かれる。例えば私の感覚では、0→1(何をやるかを考える)、1→10(考えたことを詳細化する)、10→80(具現化する)、80→100(最終化する)などのフェーズに分かれていて、それぞれ役割が異なる。

 

実際にはすべてのフェーズに価値があるが、なぜか上流(0→1や1→10)の方が下流(0→80, 80→100)よりも価値があると考えられているのが現実ではないだろうか。上流の方が難易度が高く、人材も少ないと考えられているからだ。

 

でも、本当は上流をやる人は少なくて済むだけであり、下流と上流では要求されるスキルが異なるだけではと思うこともある。事実、今コンサルタントとして働いているが、それほど大それた仕事をしているという感覚はない。やっていること、役割が違うだけだ。

 

そういうバケの皮が生成AIによって剥がれるのが少し楽しみではある。そうなったときにアイデアしか出せない人間、コンサルしかできない人間は弱い。ただし、上流も下流もできる人間に、上手く生成AIを使って価値を最大化していくことができる。

 

これまでアイデアがないばかりに口だけの人間にこき使われていた人こそ上手く活用できると良いなぁと思う。

仕事は人生最大の暇つぶし

プロジェクトを離任して、資格を取ったり過去プロジェクトのノウハウをまとめたりと、ゆるーく働く期間を2週間ほど経て、育児休暇に突入した。

 

仕事をしているときは仕事なんてしたくないと常々思っていたけれと、いざ働かなくなってみると意外とすぐに退屈を感じてしまう。仕事は人生最大の暇つぶしであることに改めて気づく。だからといって仕事したいなぁとは全然思わないけど。

 

以前転職する前に1ヶ月ほど休暇をとった時は退屈を感じることはあまりなく、むしろもっと休みたいと思っていたような気もする。まぁ冷静に考えてみれば、その時とは些か状況が違っているせいではある。

 

まず、妻が臨月で出産を控えているので、妻を置いて一人であんまり遊びに行ったりできない。一方で、妻と一緒に出かけることはできるけれど、臨月の妊婦にできることは結構限られている。

 

結果、大半の時間を家の中で過ごすしかない。基本的にインドアな私でも、ずっとTverやABEMA、Netflixを見ていてもコンテンツも尽きるし、さすがに飽きてくる。いくら好きだと言っても、こういうパッシブ系の活動(リラックス系?鑑賞系?)みたいなことにずっと没頭するのは難しい。

 

もう一つ異なっているのは、未来に繋がる努力ができていない点。例えば、以前の転職では全く使ったことのない製品知識が必要になるため、それが入社前に学習するモチベーションになっていた。そして、モチベーションがある状況下において何かを学習することは人生に充実感を与えてくれる。

 

もちろん、今も復帰する時を見越して仕事や英語関連の学習は始めているが、結局1年も先に向けた学習であること(緊急ではない)、別にそれらの能力がなくても仕事に大きな支障は出ない、もしくはそれらの能力があっても仕事をめちゃくちゃ円滑に進められるわけでない(重要ではない)、とか考えてしまっているために、あんまり充実感はない。いわゆる我慢としての勉強止まりで、未来に繋がる努力になっていない。

 

必死に自分の中で意味付けはしようとしているところはある。例えば、製品知識を学習することによって、めちゃくちゃ円滑ではないにせよ、円滑に進められる場面は増えるだろう、英語ができるようになれば、社内の膨大な英語系ドキュメントに臆することなく学習することができるようになるだろう、とか。

 

でも、そうやって色んなスキルを身に着けて仕事の幅が広がったとして、別に仕事って楽にならないんだよなー、って思ってしまっている自分がいるのだ笑。そして、今の仕事の中に、もっと言えば世の中の仕事の中に本当の意味でやりたいと思える仕事なんてものはたぶんないんだよなー、と思っている自分がいて。

 

もっと言えば、仕事に限らず今の自分がやりたいと思うことももう残っていないのかもしれないなー、とかが頭をよぎることさえある。

 

少し脱線した。だから、決して何もしていなくて退屈、というわけではないのだが、意義のあることをできてないような気分で退屈、という感じである。前職で企画っぽい仕事をしてたときもこんな感じだったような。今ふと思い出したけど。

 

ここに子育てが入ってくると当然時間的余裕は一気になくなるだろうけど、充実感や意義を果たして感じられるのかは非常に不安なポイントではある。結局人生から仕事を追放したとしても、そこに入ってくる時間が幸せとは限らない、という当たり前のことを知った。

 

なので、少しずつ何の価値を生むかもわからないけれど、こうやって自分と向き合う時間を増やしていければと思う。

プロジェクト離任後の朝

朝、ドトール窓際席より。

 

昨日をもって1年間ほど参画、支援していたプロジェクトを離任しました。全領域の開発を含めると後1年以上続くそこそこ規模の大きいプロジェクトなので、最後までやりきれなかったことが残念な気持ちが1割、あと1年も同じプロジェクトで仕事を続けなくて良かったと思う気持ちが1割、仕事から開放されて嬉しい気持ちが8割といったところでしょうか。笑

 

一応あと2週間ほど勤務(といっても実質仕事はないので、自己研鑽という名目の自由を満喫)してから育休に突入します。子どもが生まれてからは結構大変らしいので、あとで振り返ってみると今日から2〜3週間が実は一番自由な時間だった、という可能性があり、少し頭の整理というか振り返りを今のうちにしておこうかと思います。

 

今回のプロジェクトは、参画していきなりタイトスケジュールの中RFPの作成支援をしたり、開発ベンダを選定支援をするといった、やや高難度かつ未経験の仕事を私がほぼ一人でやり切る必要があったため、最初は精神的にも体力的にもキツイ時期がありました。ただ、無事乗り越えた時はかなり自分の中でも達成感がありました。結果的にプロジェクトはそれなりに軌道に乗っているので、初めてにしてはよくやれたかなと思います。

 

最初の負荷がピークだったため、後半は割と無理のない範囲で仕事ができた点は、QoL的には良かったです。また消費財系ということもあり、業務的にはコンシューマーに近い領域で少しイメージしやすいものだったため、比較的関心の持てるものだったので、プロジェクト特性という意味では結構良かったかなと。

 

私の役割としては技術的支援が中心になるのですが、一番最初のプロジェクトに比べるとかなり技術的も素養もついていたようで、技術面でのサポートやソリューショニング、みたいなところで手も足も出ないシーンはかなり少なかったんじゃないかと思います。自身の学習というよりはちゃんとお客さんに対しても満足してもらえるような価値提供はできていたといってもいいかなと。

 

一方で、お客さんは結構曲者かつ切れ者だったため、こちらの意図していないような方向に議論が進めてしまったり、全体として余計な仕事を増やしてしまったりするシーンも多々あり、致し方ない部分もあり、反省点もあり、といった感じでした。つくづくクライアント商売はこのようなアンコントローラブルな状況が発生するなぁ、不自由だなぁ、と毎週気分が萎えていたところはあります。

 

もちろん、自分自身がめちゃくちゃ成長して非のうちどころがない状況を作れれば自由になれるのかもしれないですが、10年もこういう仕事をやっていると、既に自分の成長の限界、ひいては一人の人間の能力の限界は知れているし、自由になるためには努力の方向を考えないといけないなぁなんてことを考えます。

 

結構仕事というのはどこまでいってもQCDのバランスなわけですよね。品質の高いものを作るためにはコストや時間をかけないといけないわけで、もちろんある程度スキル研鑽によって生産性を上げていくことはできますけど、限界はあります。この資料だとわかりにくい、と言われたとてそこにかけられる時間を考えれば目標値となるクオリティは当然変動するわけです。

 

なので、クライアント商売はこの変の期待値調整が結構重要となるのですが、この期待値調整にもやっぱり限界がある。Qが重要だからCやDは優先度を下げて良い、などと言っても、これ以上のコストはかけられない、これ以上納期を遅らせるわけにはいかない、というものなんですよ。みんな他人に仕事を要求する場合はそうするでしょ。

 

また、技術的支援が中心、という話をしたものの、実際には技術以外の支援能力が要求されることが多かったりするのも事実。結局、色々プロジェクトをしてきて思うのは技術力がプロジェクトの成否を分けることはほとんどない、ってことなんですよね。その後の保守とかに長期的に響いてくるとは思いますけど、長い目で見るとやっぱりどんどん技術力というのは陳腐化しているように思います。

 

例えば、大きな声では言えない話として、Chatgptに技術的な質問をしてみるとかなり筋の良い回答が得られたりします。これは1年ほど前はほぼ動作しないようなプログラムが回答されることも結構あったのですが、最近では普通に動きますし、あまり公式には公開されていないような実装方法について教えてくれる場合もあります。

 

こんな状況下において技術力やソリューショニングを生業にしている今の仕事もどこまで将来性があるのか?とは思わずにはいられないですよね。世の中のクライアント達がちゃんと技術を勉強して、「これChatgptで解決できるのでは?」ということに気づき出すとどうなるかはわからないです。もしかしたら既に今も我々の価値は「技術的に問題があったときに責任を取れること」ぐらいなのかもしれません。

 

今の会社は正直すごく良い会社で、普通に企業で働いてこんなに自由に仕事をしていて高い報酬をもらえる環境は他には早々ないことは理解しているんですが、今の会社でもある程度働けることがわかった今、次の目標地点が今の会社の中に果たしてあるのだろうか?なんてことをぼんやりと考えずにはいられないです。

 

育休が明けても今の会社で働くつもりではありますが、色んな選択肢を含めて考えられると良いなと。

育児休暇とキャリアブレイク

どうもです。とりあえず生きてます。

 

近況としては、あと2ヶ月ほどで子どもが生まれる。正直「子ども」というカテゴリーを特別好いているわけではないので、すごく楽しみか?と問われるとそんなことはない。もちろん、これからの生活や育児という経験それ自体がこれまでにないことなのでそういうことを含めて楽しみではあるけど、一般的な人ほど楽しみな感情を持ち合わせているとは思えない。そもそも不安要素の方が多い。

 

あとは育児休暇も取る。育児休暇を取りますという話をすると、1ヶ月ですか?3ヶ月ですか?とかよく聞かれるが、制度上のギリギリ、1年もらうことにした。すでに男性で1年取得している先輩もいるし、一般的な会社に比べればそれほど冷ややかな目で見られることは少ない。とは言え、1年も取得して何すんの?笑、みたいな対応をしてくる人も事実だ。

 

まず、権利として取得できるのだから使わない手はない。働かずにお金を貰えるのだからなぜ働く必要があるのか?と逆に思う。君たちはそんなに仕事が好きかね?と。前の会社を辞めるときに会社の都合を聞いていたら有給を2週間分くらい捨てることになって使える権利は使わないとなぁと再認識したのもある。

 

あと、育児休暇を取っていない夫側からすれば問題なかったのかもしれないが、妻には相当の負担を強いていることをもっと自覚するべきなのではと思う。だから結婚生活は地獄だの、夫婦の仲が悪くなるなど、そういった別の問題が起きるのでは。私は地獄の結婚生活や仲良くできない嫁と生活をする気はないのでそれを避けるためには最大限の手を尽くす。

 

もちろん、切実な問題として金銭面の問題はあるかもしれない。正直私は制度的に恵まれており、貯金もある程度はあるため、全く問題がないのでそういう選択をしたところはあるものの、多少お金が減ってしまうとしてももっと世の中の人は時間を作ったほうがいいんじゃないかなと思う。

 

なお、先のキャリアについては何も心配していない。そもそも転職した時点で出世スピードなんてものは諦めているし、この先30年以上も働くと仮定したときに1年休むことなんて全く問題ないからだ。留年したり大学院に通ったりするのと同じ。早く社会に出たやつの方が優秀、なんて言われる年次はとっくに終わっている。

 

ただ、「1年間も仕事をしない」という状況が正直社会に出てから、否、アルバイトを始めてから初めての経験にはなるため自分にどのような変化や感情をもたらすのかわかっていない。その点も子育て同様、楽しみでもあり不安でもある。

 

もしかすると、すごく仕事をしたくなる可能性もあるし、案の定仕事をしたくないと思っているかもしれない。全然別のことをやりたくなっている可能性もゼロではないし、専業主夫になるかもしれない。そういう不安定な期間を過ごせることはとても幸せなことだと思う。もちろん前提に育児があるのだけれど。

 

こういう仕事を一時離れることを「キャリアブレイク」と呼ぶそうだ。仕事を離れるのには色んな理由があるが、海外ではそれほど珍しいことではないらしい。少し自分を見つめ直す時間がとれればなぁと思う。

 

 

 

ミスった?

ワケあって、一人で過ごす日々が続いており、久しぶりに文章を書いてみようと思う。

 

ここ最近はというと、少し忙しい。いや、実際には昔ほど忙しいわけではないんだけど、もう昔ほどに働く体力がないので8時ぐらいまで働いているともう何もしたくなくなる。気力もない。

 

思えば社会人になりたての頃は、たくさん働けば成長できる、とか、いっぱい残業代が稼げる、みたいなモチベーションが少なからずあったけれど、最近は成長したから何やねん?と思う。所詮、成長したところ仕事は楽にはならない、ということに気づいてしまったから。

 

そもそも僕は本質的には楽をして生きていたい人間なので、楽になるための努力以外は基本的に苦痛を感じるタイプなのである。じゃあ何で転職なんかしたんや?と問われれば返す言葉もない。でもそうゆう矛盾を抱えてこそ人間、というものだろう。楽をしたい気持ちと退屈はしたくない気持ちの間でずーっと揺れている。

 

今は楽をしたい気持ちの方が強い。たぶん大変だから。ポジティブに言えば充実している、とも言える。きっと本当に楽になってみると、退屈だから新しいことをやりたいと思うのだと思う。これまでもそうだったから。もう一回言うけど今は楽をしたい。

 

そしてお金もそんなに要らない。お金はもちろんあればあるだけいいんだけども、お金以上に時間の方がほしい。給料を4/5にしてでも週休3日にしたいくらい。週休3日にしてひたすら休みたい。ほんで「暇すぎて人生つまらん」とか言いたい。しかしながら、少し前にありがたくもプロモーションしたので(管理職になったわけdじゃないけど)、給料は増えて時間は減る傾向になるだろう。

 

とは言え、仕事ができるというのはありがたいことではある。私は仕事が大嫌いだけど、仕事がないと何もない人生になるんだろうな、という感覚はある。休日は相変わらず動画ばかり見ている。暇すぎると仕事のための勉強とかしている。なんで休日にまで仕事の勉強、という気持ちもあるけど、それ以上に暇なのだ。

 

世の中の人は何が楽しくて生きているのだろうか、と思う瞬間がある。正直、東京に来てからなのか社会に出てからなのか、心から人とわかりあえたことがない。今の会社もそう。みんないい人ではあるけど、趣味嗜好が合わない。

 

というか、私は強い趣味や嗜好をもっていないので、人と繋がれない。社会に出るとバックグランドがみんな違い過ぎて、趣味や嗜好がないと繋がれないスキームになっているのだ。でも、趣味が一緒というだけで仲良くなれる、というのが私からするとずっと不思議。例えば温泉とかサウナとか好きだけど、温泉が趣味の人と仲良くできるかというとまずできない。

 

どちらかというと世の中をニヒルな目で見たり、趣味嗜好がない、という繋がりの方が仲良くできそうな気がする。けど、そういう人ってびっくりするぐらい少ないのよね。サイレントマジョリティな気もするけれど。

 

どこかで何かをミスったのだろうか。

さて、何をしようか

書きたいことがたくさんある気がして、なんとなくブロクを久しぶりに開いてみたのだが、いざ開いてみると何を書けばいいのやらわからない。日常的にブログを書いていた頃はあまりそんなことはなかったのだけれど、習慣がなくなってしまうと大抵のことはできなくなってしまうものだと改めて思う。

 

なんとなく最近はもやもやした日々を過ごしていて、ずっと生きていても無気力感が拭えないのである。平日の仕事はある程度慣れてきたことで少し飽きを感じ始めているところもある。結局どんな仕事をしていても、調整?みたいな仕事は結構重要でこれまでの自分のスキルで対応できる仕事はやっていてもあんまり楽しくないな、と感じている節もある。

 

いつか役に立つ可能性がある、と思って学習できるタイプの人間が世の中にはいるが、私は業務の中で発揮できるスキルがないと、休日に自己研鑽をしようとも思えないタイプだ。例えば、今英語を使う予定がないのであれば、別に今英語の勉強をしようとは思えない。しようと思っていはいても身が入らない。

 

なので、休日はずっとダラダラしている。朝から晩までTVerNetflix、Abema、YouTubeのどれかを見ている。正直、最近は何のために生きているかわからなくなることがよくある笑。でも、これまで色んなことを頑張ってきて、自分がほしいと思う物とか能力とかは色々すでに手に入れていて、もうこれ以上あんまり欲がない。

 

次の目標があんまりない。とりあえず今の会社に少なくとも3年ぐらいはいようと思っているし。でももっと自由になりたいなぁというのはずっとある。できれば週3ぐらいで今の8割ぐらいの給料が稼げる状態になればいいのに、というのはある。でも週に4日も休みがあっても何すんの?と言われたら、困るかも。結局暇な時間が増えるだけ虚無感が増えてしまうのでは。とも思う。

 

いやいや。それだけ暇な時間があれば、もっと色んなチャレンジができるはず。副業とかも本当はやってみたい。ただ、今自分の労働リソースが埋まっていて土日使ってまでやる元気がないだけ。

 

もう一生動き続けられるほど元気ではないし、一生動き続けられるほど情熱的に思える物事がない。これまでに色んなことにハマって飽きてきたから一度飽きたことに激ハマりはできない。年を重ねるというのは色んな未知をなくしていくことであり、悲しい。

 

転職をしてしまったことで、ある種未知の楽しみをまた一つ消費してしまった。あとは本当に副業、起業、子供、ぐらいしか未知性のある要素がない。もちろん、小さい未知の要素はいくらでもある。知らない人、知らない飯、知らない土地、それらは淡々と日々のささやかな楽しみや消費としてやっていけば良い。そういうことを金銭面を気にせず楽しむことはすでにできていて、正直これだけで十分幸せだと思う。一般的に見れば。

 

でも、それだけだと生きている実感がしないというか、なぜそういう思考に囚われてしまうのかわからないけれど、何かこう生きている限り、進んでいたいという謎の感覚がある。有意義に生きなければいけない、みたいな。別に十分進んでいるはずなのだが。

 

今は別に仕事をして、仕事の中で経験を積めば及第点ではあるけれど、プラスアルファで何かしたい、という気持ちはある。そんな大変じゃない程度で、自分もちゃんと興味を持てる何かを。でもそれがなくて、何をしようかな、って思いながらもう半年ぐらい経つという。

苦労話

私の持論として、自分の苦労話や経験マウントをする人間ほど、実は全体で見ればありふれた経験しかなかったり、単純に話し相手よりも少しだけ人生を進むのが早いだけだったりすることが多い。

 

例えば、進学校の生徒がよく言う「受験勉強が一番大変だった」とか、大学院のときに死ぬほど言われた「まだ学生で羨ましい、社会人は大変やで」、とか、「転職すると評価がゼロになるから大変だよ」とか、「結婚したら地獄だからやめといた方がいいよ」とか、年頃の女性の会話にある「子育ては本当に大変だわ。夜泣きが酷くて。」とか。

 

うん、もうその話どっかで聞いたことあるから笑。

 

そんな冷めた目線で見ているので、私はたまに自慢話をすることはあっても、苦労話をすることはない。はず。そもそも本当にあんまり苦労したことがない。むしろ生きるだけでずっと苦労しているつもりなので、特定部分を切り取って苦労話にすることができない。あるいは、他人と比べて自分の方が明らかに苦労してきたと胸を張って言えるような苦労話がない。

 

中学の時に親父が亡くなっていることは相対的に見れば珍しい経験には該当するけど、別に親父がいないから苦労したと思ったこともない。冷静に考えればもっと楽に生きれた可能性はあったかもしれないが、親父がいた人生と比較できないからわからない。母親に死ぬほど苦労をかけたのは間違いないけど。

 

「受験勉強で苦労した」と思ったこともない。僕は「腰を据えて取り組めることができてよかった」と思っている。逆に高校生で受験勉強をせずにそのまま給料の安い仕事に付くしかないことに気づきながら毎日を過ごす方が一苦労だったかもしれない、とさえ思う。

 

逆に大学院生活は確かに楽だけど、人から思われているほど楽ではないとも思う。研究室によっても全然違う。先に社会人になっただけで見下してくる人はいたけれど、そういう社会人のほとんどは大学院なんて行った経験がないのに、なぜ社会人の方が大変、と当たり前のように言えたのだろうか。

 

「苦労は買ってでもしろ」みたいなことわざがあるけど苦労なんてしない方がいいに決まっている。どちらかというと一般的に苦労と呼ばれる経験の中で「いかに苦労をしないか」を考えたり学ぶことに真の価値があるんでは。

 

例えば、ずっと残業時間が長い職場環境で働き続けるのは確かに苦労だ。でもただただ長時間残業に耐え続けた経験ははっきり言って別に優れた経験でもなければ人生を豊かにする経験でもない。何の役にも立たない「おれは長時間残業に耐えられる人間だ」という自身が手に入るぐらいだ。

 

それよりは長時間残業という苦労から抜け出すためにどうすればいいのかを必死で考えて試行錯誤をする。自分のスキルを向上させるための自己啓発をする、そもそも不要な作業がないかのタスクの見直し、無駄な会議や無駄な報告が含まれていないかチェックし、そういった改善案を上司に提示する、それでもだめなら異動や転職をする、など。

 

常に苦労をしないように考え続けていると、結果的に苦労の度合いは減ってくることが多い。(もちろん、自分の努力だけでは避けられないケースもある。)だからそういう生き方をしている人はあまり苦労話を多く語らないイメージがある。苦労の中で苦労しない方法を学んでいるからだと思う。

 

これに対して苦労話をしょっちゅうする人間が、現状の苦労から抜け出すための試行錯誤を何もしていない。ただひたすら我慢することが美徳だと思っている。でもずっと苦労はしているから精神的に辛く、誰かに共感してほしいあまり苦労話をしてしまう。よりによって、そういう苦労をまだ経験していない人に対して。

 

でもな、もうその話どっかで聞いたことあるから笑。

自由になりたい

年明けから業務にアサインされて、まぁ初めの大変さはありつつもそれなりに順調にスタートは切れているかな、という感じ。落ち着く間もなく、2案件掛け持ち状態にされてしまった。

 

本音を言えばもっとゆるく始めたかったが、どうも年明け頃から色んな外資系IT企業で従業員の大規模リストラのニュースが報道されており、私の会社もご多分に漏れず、10%ぐらい削減されるため、そうなると逆に案件に入っていない=稼いでいない人=クビ候補になるリスクが上がるので、まぁ前向きに捉えてる。

 

普通に業務を自分が回すようになって早くも2〜3ヶ月程度経つが、前職と違うのは、基本的には一人で資料作成とかお客さんと対峙していかないといけない点。一応上司もいるにはいるけれど、ガッツリ資料レビューとかしてくれるわけではないので、個の能力がないと結構つらいだろうなぁと思う。

 

私も直近1年ぐらいはITディレクターというコンサルチックな立場で仕事をした経験があったから何とか対応できているものの、毎週毎週仕事のネタを探してパワポを仕上げる、というのはSIで開発しかやってこなかった人にとってはしんどいだろうなと思う。実際私と同じように転職してきた人の中でも全然できない人がいる、と上司がぼやいていた。ってか私も普通にしんどい。

 

単金も前職とぜんぜん違う。私は前職ではリーダーポジションの単金だったが、それでも1.x倍どころの差ではない。だからこそ顧客からの期待値も高くプレッシャーもある、らしい。あんまり考えないようにしているけれど。

 

仕事自体に面白い要素はある。前職では、ここで頑張って覚えたことがどこに活かせるのだろうか?と日々の業務にいろんな疑問を持ちながら仕事をしていたけれど、今は特定の製品なので、学習したことが今後活きるだろうな、という見通しがある点は良い。まぁ間接的に役に立つか直接的に役に立つかという違いでしかないかもしれないが。

 

面白い要素はあるけれど、すごく楽しいわけではない。所詮仕事なんてのはほとんどの人にとってつまらないものだとは理解しているし、私にとっても同じだ。転職したのに楽しくならなかったのか、と思われるかもしれない。でも、良い仕事を選ぶというのは、いかにマイナスを小さくするか、だと思う。

 

もともとの仕事が-100の辛さだったとしたら、今の仕事は-50。そんな風に色々自分のスキルを身に着けたり、自分に向いている仕事を試行錯誤して、辛さが0に限りなく近い仕事で稼げるようになるのが現実的な理想だと思う。そういう意味では転職してよかったと言える。もちろん、今はまだどんな仕事にも対応できるほどの能力はないからどちらかという結構大変ではある。

 

にしても、このおれがなぜコンサルになんてなってしまったのかとふと思う瞬間もある。そもそも客先になんて出たくなかったし、プレゼンも大嫌いだったし、ひたすらプログラミングだけをして、自由に生きていたかったというのが社会に出る前の私だった。

 

今になってもお客さんにとやかく言われたりする状態からどうやったら抜け出せるかを想像して、BtoC企業とかに行きたいと思ったりするけれど、そういう会社は給料が安いという現実がある。

 

そもそもBtoC企業でも上司はいるわけで、必ず誰かにとやかく言われるという。前職にいた時もいわゆる研究開発組織にはお客さんはいないわけだけど、上司があれやこれや要望を出してくる、というのはあるあるだ。エンジニアだってイメージほどの自由はなく、何にもできないのにただ商流が上なだけの会社の人間に偉そうにされる。

 

こうなるといよいよ社長になるしかないのか、とも思う。でも銀行や株主には頭が上がらないとかもありそう。結局みんな誰かに偉そうにする代わりに誰かに頭を下げて働いているのか。

 

と考えていくと、医者とかは案外良かったのかも。学生の時は全く興味もなかったし、人の命を扱う仕事なんて絶対嫌だが、よく考えれば人の命を扱わない医者もある。開業すれば自由だし、比較的開業しやすそうなイメージはある、知らんけど。お客さんもいっぱいいるからヘコヘコする必要ないし、そもそも偉そうな医者はごまんといる。

 

まぁ医学部を卒業するほどのお金は我が家にはなかったので、そういう意味では目指すとしても無理ゲーではあったけど、多額の奨学金を借りる価値はあったかもしれない。とか言いつつ、献身的でない私にはどう考えても向いていないとも思う。

 

とりあえず、もっと自由になりたい。

総括

どーもです。少し早いですが、先週末で仕事を納めてきました。1年間お疲れさまです。今年はまぁ比較的平穏な私の人生の中では、色々あった方ですかね。一文字漢字はもちろん「転」。

 

 

 

まず年明けて早々に出世したんでした。入社した時って「課長代理」って何やねん、どういう意味やねんとか思ってましたけど、そんな謎のポストに付くことなって、ずいぶん自分も長いこと会社におるんやなぁと思いましたね。

 

 

 

そして、ようやく時が来たな、とも思いましたね。少し前に転職活動をした時に、自分が行きたい会社・ポストとその会社が求める人材や経験にギャップがあることが何となくはわかっており、出世したらまた転職活動しよう、と決めていたので。

 

 

 

とは言え、会社の中でいい方向に物事が動く可能性もあります。。結局、転職って良いことばかりではないですからね。デメリットだけで考えば、社内でやることを変えられる方がこれまで手に入れた色んなもの(実績、評判、社内知識)を引き継げるので良いんちゃうかと思ってます。ただそれって「楽」なだけでつまんないなぁと思っていたので私自身は転職の方に気が向いていました。でも、まぁ私にも迷いはありました。

 

 

 

まず一つ目は、転職活動、それ自体が非常に面倒でエネルギーが必要だということ。

 

 

 

たまに、就職活動楽しいとかほざいてるタイプの人が学生の時にいましたけど、私はその対局にいるような人間なので、転職活動自体が嫌いなんですね。大したことない自分の能力や経験を誇張して文書化したり、会社のことを調べたり、面接対策をしたり。さらにそれらを色んな会社に対して準備をする、なんてしんどすぎません?しかも通常運転で働きながら。

 

 

二つ目は、新しい役職や異動によって面白い仕事ができる可能性もあるということ。

 

 

 

なんやかんやちゃんと出世させてくれたこと自体もありがたかったですし、データ分析という仕事は結構楽しめるポテンシャルがあるとも思っていたんですよね。特に出世した直後は異動になるケースが多いので、場合によっては転職するよりもいい条件で働ける可能性もあるな、と。

 

 

 

特に一つ目の理由のせいで、転職する、と思っていたものの、ダルすぎる。。。と尻込みしていました。ましてや以前、準備不足で一次面接で落とされたことがあるせいで、「もっと準備に時間をかけないといけない」「時間をかけても落とされる可能性がある」という二つのリスクがずっと脳裏には焼き付いているので、なかなか行動に移す気になれなかったですね。

 

 

 

幸か不幸か、ちょうど3月ぐらいにコロナに感染してしまい、否応なく10日間働くことができない時期があり、前半は39度ぐらいの熱で完全にダウンしてたんですけど、後半はむしろ暇で、「とりあえず職務経歴書ぐらいは最新化しよう」と行動したのがすべての始まりでした。

 

 

 

これを機に、以前少し相談していたエージェントが私の転職意欲の変化をキャッチし、また求人紹介をしてくれるような感じにはなりました。でも、ほとんどの求人を見ていると、必ずこんな考えが頭をよぎるんですよね。

 

 

 

「これ、結局転職しても今とあんまり変わらないんじゃね?」

 

 

 

特にデータ分析領域の求人を見ていると、そう思えてならなかったですね。なぜなら、私の社内公募向けに自分の業務が魅力的に見えるような文章を書いたりしており、字面に書かれた抽象的でかっこよさそうな仕事内容と現場の業務のギャップはある程度想像できたからです。

 

 

 

そんなこんなで、転職はしたいが、やっぱり行きたいと思う会社がない、という迷子状態に陥っていた頃、ちょうど当時の課長から異動の打診があったんですね。考えてみれば、これまでも「転職しよう!」と思っていた時にちょうどやることが変わって、「とりあえずやってみるか!」としばらく続けて「やっぱ転職だ!」みたいなことが続いていので、今回もそのパターンになりそうだなー笑と直感的に思いました。

 

 

 

が、今回の異動は驚くほど名ばかりの異動だったんですね。要するに、所属組織は変わるがお客さんも業務内容も役割も何も変わらない。つまり所属組織ごと別の事業部に異動する、というだけで、まあ言ってみれば組織名が変わっただけなのに、「異動」という名目にされただけだったんですね。

 

 

 

もし会社に残るつもりだったら、私は結構腹を立てて反論してたと思います。本来、会社の暗黙のルールとしてが、出世直後は別の業務経験を積ませるために異動を推奨しているにも関わらず、全く同じ業界、業務にアサインさせる、というのはそもそも本末転倒なので。形式上異動にしたのは、(どんな事情があるにせよ)ただの帳尻合わせで私のキャリアを考えてなかったということ。

 

 

 

私の覚悟が決まった瞬間でしたね。結局会社は、会社の都合が最優先で個人のキャリアは二の次でしかしないんだなぁと。当たり前なんですけど。いつも何かと理由をつけられて、少し先に希望という餌をぶら下げられて説得されるけど、その希望にありつけた日はなかったし、これからもないだろうな、ということを悟った瞬間。新卒入社が当たり前だとこれが社会の普通、みたいに麻痺してるんだろうなぁ、と今なら思います。

 

 

 

ってわけで覚悟を決めたからかわからないけれど、以前希望職種の求人がなくて面接を見送っていたけど本当は結構行きたかった会社からちょうどダイレクトスカウトが来ていて。話を聞いてなんやかんやちゃんと対策をしつつも、まぁ適当にやればいいかという適度な緩さで挑んだ面接がなんと合格、それが今の会社になったというわけです。

 

 

 

年明けからは本格的に案件にアサインされるので、クビにならんように頑張らねば。。。

転職その後

どーもです。早いもので、新しい会社に入ってもうすぐ2ヶ月ぐらいが過ぎようとしています。1ヶ月もあった転職前の大型連休も、今となっては遠い過去の記憶のようです。

 

社会人になってから1ヶ月も休めることはないので、本当におすすめですね。相当リフレッシュできますし、思っている以上に長いです。終わってみるとあっという間に感じましたが。

 

入社数日前に新品のMacBookProとかキーボードとかマウスなどの周辺機器類が一式送られてきた時はテンションが上がりました。前の会社で最初に支給されたPCとか、そももそも新品ですらなかったなぁと思い。

 

PCがWindowsからMacに変わったのもそうですが、これまで使っていたツール類もガラっと変わりました。前の会社はいわゆるOffice系(エクセル、パワポ、アウトルック)とTeamsを使っていましたが、基本Google系(スプレッドシートGoogleスライド、Gmail)に加え、Slackを使っており、いい意味でIT企業っぽいなと。まぁこれまで大量に覚えたショートカットが使えなかったりするのが玉に瑕ではあるけれど。

 

基本的にクラウドベースのツールを使っているからか、「ファイルサーバ」という概念が存在しないのも特徴ですかね。前の会社とか部署ごとにサーバ立ててたり、バッチ反映だから権限付与に1日リードタイムがかかったりとか、そういうことにめちゃくちゃリソース取られてたんだろうなぁと思うと悲しくなりますわ。

 

新しい会社はいわゆる「外資系」ではあるんですが、割と日本企業っぽい丁寧な研修とかがちゃんとあって、事前に思っていたほどドライではないというか、「できないやつは知らん」みたいな空気感ではなさそうでしたね。

 

テレワーク主体のご時世対策なのか、PCセットアップのための説明会なんてものもあり、個人的にはやや過剰に感じるほど。まぁ業務が始まってからどうなるかは知りませんけど。前の会社も最初の集合研修以外はほぼ教育という概念がなかったですし。

 

とは言え、「現場に入ってその中で頑張れ」的なスタンスではなく、「ちゃんと必要な知識やスキルを身に着けてから現場へ」という考え方が強いらしく、私も最初の3ヶ月勉強期間ということで業務にはまだ入れていません。

 

少し具体的に言うと、最初の2ヶ月間で指定の製品資格を6つ取得する必要があったり、その後もロールプレイ的に模擬提案を行うことでソリューショニングスキルを身につけないとダメという話らしいです。

 

2ヶ月以内に資格取るのが結構大変という話は面接官や人事の方に聞いてたので覚悟はしてましたが、1.5ヶ月で無事取り終わりました。今のマネージャーが知る限りは一番早いらしいので、まだまだ私の脳みそも衰えていないと思いたいでですね。

 

とは言え、久々にガッツリ勉強はゆうても疲れたのと、その後の模擬提案とかも結構難しそうなので、今週は少し長めの連休をもらって来週からまた頑張ろうと思います。

みんなすごい、でええやん

突然だが、野球の上手い人をすごいと思うだろうか。イチロー、最近だと大谷翔平、佐々木郎希とか。一般的にはすごいと言われている方がいる。普段野球を全く見ない私でももちろん、すごいと思っているけど、正直いくらでも捻くれた見方をすることはできると思っていて。

 

例えば、スポーツなんて所詮遊び、と言われてしまえば遊びである。別に野球がいかに上手かろうがそれは世の中の役に立っているか?社会を推し進めているか?と問われればそんなことはない。

 

それに対する反論も様々あるだろう。スポーツを通して夢や希望、明日への活力を沢山の人に与えているだから、世の中の役に立っているはずだと。プロ野球ファンの人たちのためになっているから役に立っていると。

 

ただ、それを言ってしまうと、プロ以外は無価値、ということになってしまう。少し野球が上手いだけではだめなのだろうか。どうせ何も役に立たないからすごくないのだろうか。

 

あるいはスポーツ以外のジャンルはどうだろう。例えば絵の上手い人、歌の上手い人も同様に凄いと感じるだろうか。これもやはりプロであれば凄いが、プロでなければ無価値なのだろうか。

 

勉強ができる人、賢い人というのもある。残念ながら勉強にプロというポジションはないが、勉強や学歴は他のスキルとは違って役に立つものではある。それでも、勉強だけできても仕方がない、というのは多くの人が言う反論であるし、勉強ができてもそれを自分の仕事に役立てれないタイプがいるのも事実ではある。だから無価値、なのだろうか。

 

例えば、バンクシーという画家の作品はとんでもない金額で落札されるから、凄い画家だと思っている人もいるかもしれない。プロとアマの境目は業種によっても様々あるが、最終的にはたくさん稼いでいる人が凄い、という見方が一般的な凄さの尺度であるような気がする。

 

稼いでいないけど一般的に凄いと認識される人、というのは確かにあまりいないような気もする。ではたくさん稼いでいれば凄い人なのだろうか。

 

真っ先に思い浮かぶ高収入な職業といえばお医者さんである。お医者さんは凄い人なのだろうか。確かに凄い人という見方の方が一般的かもしれない。たくさん勉強する必要があるし、頭の良さもいる。

 

ただ、穿った見方をすれば、実家が金持ちだっただけでは?とも見れる。逆に言えば、お金をかけてすごくなってもそれって本当にその人の凄さなのか?という反論だ。

 

スポーツの話に戻るが、プロゴルファーの中にはそもそも一般の家庭ではかけられないようなゴルフ教育を受けて育った人も多いという噂も聞くので、同じような反論があるかもしれない。

 

あるいは生まれながらの資産家であれば、保有しているだけでもかなりの収益を叩き出すことができるが、これは凄い人と言えるのか?と問わればツイてただけやん、とつっこまれてしまうかもしれない。

 

ということは、子供の頃に対した費用はかけてもらえなかったにも関わらず、莫大な収益を叩き出している人、すなわち費用対収益力の高い人が凄い人の定義にかなり近い気もする。

 

では、YouTuberはどうだろうか。大人から見るとしょーもない動画で再生回数を稼いでたくさん稼いでいるYouTuberは一定数存在すると思うがそれらは凄いのだろうか。

 

大手の外資系銀行で、年収1億円稼いでいれば凄いのだろうか。でも大企業に入る事自体を揶揄する人もいる。鶏口となるも牛後となるなかれ。小さい会社でも自分がトップであることが凄いという見方。となると、ただ稼いでいるだけではダメなのか。

 

もっというと、仕事しかしていない人自体を揶揄する見方もある。女性に多いが、家庭を持って子供を育ててこそ一人前みたいな発言、考え方はこの歳になるとよく耳に入る。先程の例にも近いが、いくら稼げても、子供もいないようじゃダメ、とか。

 

まぁ要するに、全員が満場一致で凄いと思える人物像なんて存在しないということ。

 

大人になると、他人を凄いと言えない人の多さに驚かされる。自分と違う行動をする人に対して凄いと言ってしまうと、負けた気になってしまうのかわからないけれど、上に挙げたような様々な見方を使い分けて、別に人間としてあなたはそんなにすごくないですよ、的感じを出す。

 

最悪の場合は、あなたに凄い点があったとしても、私はこんなことをしている(だから私の方が偉い)というマウントに発展する。専業主婦の方が大変だから凄い、とか労働と子育てを両立するほうが大変だから凄い、とか。

 

たいていそういうマウントに引っ張ってくる凄さの要因って全然大したことがないことが多い。「◯◯も知らないの?」「海外行ったこと無いの?」「アルバイトしたことないの?」とか。9割以上の人が持っている知識・経験でマウントするのが一番ダサい。

 

あほらしい。みんなすごい、でええやん、と思う。

退職

昨日、無事現職の最終勤務日を迎えました。

 

私が退職することを上司に告げてから2週間ぐらいは後任のリーダーがいない、外部から引っ張ってこれない、なら事業として撤退するか、いや撤退するにしてもそんなすぐは無理でしょ、みたいにダラダラと偉い人が話しあっても体制が決まらない状況が続いており、この会社大丈夫なのか?と思いましたけど、まぁ何とかなりました。

 

まぁ別に一人の人間が抜けたぐらいで組織が壊れるはずもないとは思っていましたが、あまりに上の人達の案が出なかったり決断が遅いので、少しヒヤヒヤはしました。最終的には私が悪い、みたいに言われたくなかったので体制案を提言してしまい、チキンレースに負けた感じなのが少し癪ですが、まぁ円満退社できたので良しとしましょう。

 

気づけばもう丸8年間も働いており、これまでの人生で最も所属期間の長い場所になっていたことを改めて痛感します。最後の挨拶メールを送る人を考えている時に走馬灯のように色んなプロジェクトの記憶が蘇ってきました。

 

今になって振り返ってみると、膨大な雑務や育成系イベントの多かった1年目やリリース直前の炎上プロジェクトを除けば、何かしら仕事の中に楽しい要素はあったかなぁと感じられます。不思議なもんで記憶が美化されるってやつです。

 

ただ実際には、人間関係が良くて働きやすい環境だと業務内容がつまらない、仕事がクリエイティブだと評価されないし進みも悪い、新しい技術を使った開発だと管理面でしか携われない。と、あちらが立てばこちらが立たずの状況だったんで、渦中にいた私はずっと不満だったんですね。過去のブログを読み返してみてもそう思います。

 

そんな中でもより良い環境を探して彷徨い続けて数年、所詮100%満足のいく仕事なんてものはないことを今は悟りました。でもそれと同時に、自分で決断、行動した方がやっぱり面白い方向には行けるな、ということも感覚的にわかったし。

 

決断をすると、必ず選ばなかった選択肢が残るし、本当はその道もよかったんじゃないか?という思考が頭をよぎる瞬間は確かにあるんですけど、やっぱり過去のターニングポイント(大学院進学?パートナー選択?就職先?とか)を思い返しても総合的にはこっちで良かったと思えてるのは、決断そのものが思考に影響を与えるからなんでしょうね。

 

そういう意味で「ずっと今の会社にいる人生」もあったのかもしれないし、その方がもっと将来的な生活も踏まえると安定して働けてその方が幸せという可能性はあるけれど、まぁ少なくとも今は全く後悔はしていないし、今後もたぶん後悔はしないんじゃないかなぁと思う。そもそも発生しなかった未来とは比較できないし。

 

何より全てから解放される1ヶ月間の休暇を手に入れられたことだけでも素晴らしい価値がある、と今は思う。

次の場所へ

えーと。転職することになりました。



これまで散々周囲の人にウダウダ言いながら、結局会社を辞めるところまでは至ってなかったし、なんとなく、なんやかんやこのまま定年まで行くんだろうなぁと自分でも思っていましたが、ようやく。ずっと転職したいと言っていたのは、もちろん嘘ではなかったんですが、あまり妥協せすに良い転職を実現することのハードルが中々高くて(今も十分良い会社なので)、まぁ自分の経験とかスキル的に難しかったということなんですね。



やりたいことを重視すれば、年収は結構下げざるを得ない、年収を維持しようとするとたぶん今の同じような会社に行くことになってあんまり転職する意味がない、年収を上げようとすると激務が下げられない、とか、必ず何かを妥協しないと選択肢が非常に狭くなってしまう、というのが直近1年くらい求人を見ていてずっと感じていたところではありました。



が、まぁ今回はそんな数少ない候補の中で、とても良い条件で内定を貰えたので、転職を決めた、というわけです。結構難易度の高いポジションだったのでここ最近では一番嬉しかったですし、こうして結果が伴ってくると必要以上に自分を過小評価していた、というのはあるかもしれないです。とりあえず非常に骨の折れる活動ではあったんですが、行動してよかったです。



そもそもなんで転職したのか。この点については活動中もこれから今の会社に退職を伝える時にも聞かれる点で、建前上は専門性を身につけたいとか、そんな理由をつらつら語っていました。これはもちろん一つの真実ではあるんですが、本音ベースで考えてみると、やっぱり「飽きてしまった」ということだと思うんですよね。そしてこの先立場が変わった時に面白い仕事はできないだろうなぁと肌感を持って気づいてしまった、というところですかね。今年出世したとこだったんですけど。



これまでも散々仕事に飽きて、色んなことやらせてもらったんですが、一つ一つの業務に関して深いとこまで行く必要がなくて、だから伸びしろもすぐに鈍化するし、飽きるスピードも早い。で、そんなに大したこともできないまま一丁前に出世だけはして、口だけ偉そうなことを言って手の動かない管理職になる人生を送ることに誇りを持てないと思う自分がいた。本来は楽をしたい人間なんですけど、そういうところに変なプライドがあったというか、まだ残っていたというか。楽はしたいけど、できない自分、やれない自分はいやだなぁと。



正直転職先は結構ハードだと予想していて、今はまだ嬉しい気持ちの方が大きいんですけど、この後入社が近づくにつれて不安も大きくなる気がしてます。でも、まぁだからといって今の会社に残るのはもったいないというか、まぁせっかくの一度きりの人生なので、別の会社でも働いてみたい気持ちの方が大きいので、迷ったりはしてません。もし潰れたら辞めてどうするかはその時に考えるしかないかなと。



まぁ何にせよ久々にワクワクしてます。未来が変わるとか未来がどうなるか予測できない状態、というのはやっぱり楽しいですね。きっと今がピークで新しい会社に入って、しんどい思いをして、仕事に慣れた頃にまた飽きて、次はどうしようかなぁとか考える自分が容易に想像できるんですが、もはや終身雇用前提の企業でもないので、変化できることを前向きに考えて生きようと思っています。

「仕事ができる」とは?

社会、特に男性社会では結局仕事ができるかできないかの二元論で語られることが多い。にも関わらず、この「仕事ができる」というのがまた何を基準に語っているのかが曖昧だったりする。

例えば、コーディングスキルの高いエンジニアがいるとする。技術的な専門性も持っている。なら、この人は仕事できるよね、と評価されるかといえばそうとも限らない。

実際、「あの人、技術よく知ってるけど仕事はできない」と言われるケースはそこそこある。つまり、専門性と仕事の能力は別物だからだ。もっと極端な例だと「あの人、めちゃめちゃ優秀なのに仕事はできない」ということさえある。

そういった一見矛盾したような発言が飛び交うのはなぜか。それは仕事のできる/できないが、その人に与えられた役割を期待以上にこなしているか?で決まるからである。

わかりやすく言えぱ、その人と一緒に働くことによって、自分が楽、仕事のクオリティがあがるなどのメリットがある人を、人は仕事ができると感じる。

だから、先程の例で言えばコーディングスキルが高くても、マネジメントなども求められるポジションであれば、当然そのレイヤーの仕事ができないと使えない人の烙印を押されることになる。

反対に、事務処理系の仕事を卒なく早くこなせる派遣社員は仕事ができると見なされる。ここで、仕事自体の難易度はあまり考慮されないのもミソである。

ただ、仕事ができる人に共通するのは、問題解決能力だと私は思っている。どんな仕事であれ想定外のことが起こった時にどのように対処するのか。

これを「どうしていいかわからないので教えて下さい(私には何もできません。)」と簡単に匙を投げるだけの人は正直仕事できない人が多い。

別に一人で全て解決できることが重要ではなく(そんなことは稀)、解決に向けて主体的に動けるかがポイントである。巻き込み力?とか言われるものに近い。

また、仕事できる/できないはあくまで個人の主観でしかないので、常に他の人の感覚とズレていないかにはアンテナを張っておいたほうが良い。自分の感覚の方がおかしい場合があるからだ。

前述の通り、仕事ができるというのは与えられた役割に対しての実績で決まるわけだが、日本はこの辺の与える役割も明確でなかったり、管理職が介入していなかったりするせいで、本来与えるべきではない役割を押し付けていたりするケースもある。

例えば、管理者のAさんが他メンバ管理を勝手に一メンバであるBさんに押し付けたつもりだったが、Bさんがその役割を真っ当してくれないと、AさんはBさんのことを「仕事ができない奴」と感じるが、そもそも仕事ができないのは自分がすべきことを他人に押し付けているAさんですよ、という話。

とは言え、この「本来与えるべき役割かどうか」というのも明確な正解がなく、結局他組織との比較で決まるので、普通(他社にとって、他組織にとって、自組織にとっての普通)何なのかは常に考えるようにしておこう。

実際私の会社もそうだし、日本の会社は上記のように管理者が管理を部下に委任しているケースは結構あるように思う。

まぁ要するに言いたかったことは、たとえ今仕事ができようができまいが、別の会社や別の役割なら全然違う評価になるということと、問題解決する癖をつけることが大事ということ、に尽きる。

作業者疲れ

最近、作業者であることに疲れてきたな、と感じる。

 

入社したばかりの頃は出世したいなんてことを考えたことはなかった。設計やプログラミングなど、より具体的な仕事をすることに興味があったし、出世し終わった人たちはそういう現場の前線から外れる。

 

ぶっちゃけ人をどうやって調達するかがメインで、他には何をしているのかよくわからんし、企業利益にはほとんど貢献していないんじゃないかと思っている。今だって、私が顧客要望聞いて提案して案件受注してその業務を遂行する点において大したサポートがあるわけでもないので、「いざとなった時に謝る立場の人」ぐらいの役割でしかない。当然そんな姿に憧れることもない。

 

けれど、現場でずっと働いてきて、現場の仕事というものがだんだんわかってくると、なんというか現場の仕事をしていることにも飽きてくる。私の場合は特に飽きのスパンが早くて、半年ぐらいで自分の成長速度の鈍化を感じると仕事のモチベーションが下がる。

 

そうなると、逆に同じ作業を繰り返していることもしんどくなってきて、これならいっそ管理側に回った方が新しい発見があるのかもと思うことがしばしばある。私はずっと専門家になりたいと願ってきたけれど、他でもない私自身の性格が専門家になるためのステップにどうやら耐えられないらしいということに気づいてしまった。

 

これまで色んな職種を体験してきて、面白い側面、大変な側面あったけれど、どれも一生やり続けていきたいと思うものではなかったなぁと。今の会社でできる仕事には限られてるせいも大きいだろうけど。

 

プログラミングが好きで仕事でもやりたいと思っていたし、ガチのエンジニアになるか?と考えたことも一時はあったけど、なんとなく趣味でアプリを何回か作ったら満足してしまった感はある。

 

最初の作り方を考えたり、新しい言語の使い方を覚えて試行錯誤でトラブルシュートしている段階が楽しいだけ、ということに気づいた。また、会社の中の活動で技術力を高める半年間ぐらいの研修に参加したけれど、自分が本当に作りたいと思っていないものを作ることに対して実はそんなにモチベーションを感じないことや、細かい技術そのものには全く関心がないことにも気づいた。

 

これまでバリバリのエンジニアがやりたいみたいなことを周囲に言っていると、だいたいの友達や上司から「ほんとにそうなの?」と言われることが多くて個人的には解せなかったのだけど、他己評価というのは意外と正しいらしい。やはり体験してみることが一番学びがある。

 

具現化と課題解決。突き詰めると自分が必死になったりのめり込める領域はこの二つだったなぁと。どの職種だったとしてもそれはあんまり変わらなくて。だから、自分の本質はこの二つなのだろうなぁと最近は漠然と思っている。

 

ただ、そのための調査とか資料作成とか、そういうことをするのにも疲れたというか、そもそもこれって一社員がやる仕事なのか?とかを考えると、割に合わないなと感じることが多くて、それで疲れた。