∑考=人

そして今日も考える。

質問とは投資である

学生の頃に出題される問題とは違って、社会人の仕事には正解がない、とよく言われる。これは半分真実であって、半分は嘘だ。仕事の中には正解がないものと正解があるものがある。仕事の中にも必ず”事実”と”解釈”、”過去”と”未来”があるのだ。もちろん、最終的に完成する仕事レベルの単位ではもはや正解はないのかもしれない。しかし、仕事を形にするまでに集める情報とかそんな類のものについては常に正しい答えがある。

 

答えのない問いに答えるためには確実なもの、すなわち事実をよりどころにするのが最も良い。大抵のイノベーションとかも、不特定多数の事実をかき集め、そこから帰納的に導き出される抽象的な推論を出し、何をすればよいのかという仮説を立てるところから始まる。つまり、事実がわからなければお話しにならない。

 

というわけで、事実を知っていることはとても大切である。今の時代であれば、単なる情報収集はググれば済むと思うかもしれないが、会社内に閉じたような情報だと自分で調べるのはかなり骨が折れる作業であり、非常に非効率だ。できる限りは避けたい。

 

そうなると、最も良いのは、知っていそうな人に聞く、ということである。これが一番楽である。私は基本的にわからないことがあっても自分で何とかしたいタイプであるが、さすがに既知の答えを探すことに大量の時間をかけるのはやはり非効率なので、最近は人に聞くようにしている。

 

ただ私が他人に聞くのは、答えのある問題に対する回答のみである。つまり質問だ。やり方がわからなくてどうすればいいですか、という相談はほとんどしなくなった。数学でもそうだが、物事のやり方とかには正解がないことが多く、自分で考えた方が良いと結論づけているからである。

 

しかしながら、答えを聞いているにも関わらず、答えに至るまでの方法論を教えてくれる人が少なくない。これは相手が優秀で、ありがたい話なのだけれど、いやいやその方法は自分知ってますとか、あなたが回答してくれなければもともとそうするつもりでした、みたいに思うことが少なくない。

 

相手は当然親切で答えてくれているのかもしれないが、私からすれば、質問をした時間が無駄になっただけ、ということになる。私はすぐに答えを手に入れるために質問をしたのだから。さらに言えば、実際のところ、「あの人は質問に答えられなかった」と思われないように無理やり苦し紛れの回答をしてしまうケースの方が圧倒的に多いと思う。

 

ただまぁ私は最低限の概要を自分で調べたら、詳しい人に聞くようにしている。そして、どんな回答が来てもありがたく受け入れる。それは質問とは一種の投資、ギャンブルだと考えているからだ。

 

例えば、パチンコ台Aに1000円入れれば、それがなくなってしまうかもしれないし、10000円になるかもしれない。どうせ1000円入れても無駄でしょ、と思えば決して10000円になることはない。

 

質問も全く同じだ。ただし、質問の場合リターンはお金ではなく時間として帰ってくる。Aさんに聞けば長々と知っている情報を教えられたのち、自分で1時間調べなければならないかもしれないが、3秒で即答してくれるかもしれない。どうせ、答えは知らないんでしょ、と思えば決して3秒でわかることはない。

 

ただし、質問の良いところはギャンブルとは違って、質問をすればするほど精度を上げることができることだ。Aさんにこの質問がわかるかどうかの見極めがつくようになってくれば必要最小限だけ頼ればいい。そもそも、他人なんてほとんど当てにはならないというのが私の見解だけれども。

説教おじさんとゆとり世代

つい最近、後輩の女子に結構ガチな感じで不満を言われました笑。なんていうか、こんなにストレートに文句を言われるのは久しぶりだったので、唖然としてしまいましたね。たぶん先輩たちもいい気味だと思っていたことでしょう。文句の内容としてはよく昔の彼女とかにも言われてた「偉そう」とかそういう類の話ですね。合ってます。残念ながらそういう性格は治りませんけど、と思いながら一応謝っておきました。

 

一言でいうと、私に説教おじさんっぽいところがある、のが気に入らないんだろうな、と解釈しました。確かに、こうやってブログとかで自分の考え方を披露したりするのも、これが正しいと自分なりに思っているものを全体に発信する意味合いもあるわけです。ただ、知人が見れるところにそういうことを書くと、鬱陶しいやつになってしまうからこういう形で書いているだけであって。

 

というわけで、リアルの場ではあんまり説教とかは言わないようにしてはいるんですけど、気にかけている人に対しては質問に対して単なる回答を添えるだけではなく、「もっとこうしたらいいのに」と思ってアドバイス的なことをしてしまう時があるんですよ。

 

でも、そんなことは求めていない、というのが後輩女子の気持ちだそうです。これが本物のゆとり世代か、とか思いましたけど、女性なら普通にありがちな考え方でしょうね。女性って不満とか悩みがあってもそれを解決しようとは思わないじゃないすか。これは男性の、というか私の理解を凌駕しますね。

 

結局、女性にとっては悩みとか不満はアクセサリーみたいなもんで、常に身に着けていたいものなんでしょう。今回の件で私が反省しないといけないのは、後輩である前に女性であることを軽視していたことですね。

 

とは言え女性に限らず、ゆとり世代はおっさん達の飲み会に行きたがらないという話もよく聞きます。これも理由としてはおっさんの説教なんて聞きたくねーよ、ということらしいです。

 

昔の人たちって、そういう飲み会での説教が役に立つときもある、とか言うじゃないですか。まずは飲み会に参加してから判断しろ、みたいな。でも若者からすると、別にそんなん求めてないですー、ってなる。結局折り合いはつきません。

 

これって、もうおじさんとゆとり世代の価値観の違いが如実に表れてますよね。そもそもおっさん達の頃は、仕事で出世して高い車をもって良い家に住みたい、みたいな夢を持っている人が多かったわけですよ。つまり外発的モチベーションとは言え、仕事に対する向上心があった。

 

でも、今のゆとり世代は、結構今の生活(主にプライベート)に満足している人が多いんです。仕事を最低限の労力でこなし、プライベートを充実させる。プライベートを充実させるために今大したスキルは必要ないですし、表面的な友達であれば簡単に増やせる時代です。だから特に今より良くなろうという気持ちがない。今のままでいいと思っている。よっておっさんのアドバイスは響かないんです。おじさんはそこらへんを理解した方がいいのでしょう。ちなみに、私は純粋に仕事できるようになりたいのでおっさんの説教は割と好きですけど。

 

対するゆとり世代の志向も結構危ういですよね。彼らが言う「今のまま」とは、自らはほとんど価値を生み出さず、別の人が生み出した価値に便乗して生活している状態だからです。例えば、給料額だって、本来自分で稼いだ分じゃないんじゃないですか。一般的な会社では、給料の3倍額の利益を出して初めて本来の給与額を貰うに値すると言われますよね。

 

つまり、給料の3倍額を稼ぎ続ける力があって初めて今の生活を維持することができるってことです。「今のまま」というのは自分が他人に助けてもらってる状態なのです。「今のまま」を続けることができるのは、会社にいる他の人が凄く稼いでいるからであって、その資本を投資という名目で、若者に分配してくれているだけなのです。そんな「今のまま」が一生続くと思いますか。

 

たぶん、続けられないだろう、ということは理解していると思います。だからこそ、今の若者は不満はないけど不安はあるという人が半数を超えるそうです。でも、将来どうなるかわからないし、今やりたいように生きよう、ということなんでしょうね。でも、まぁ私は向上心はあった方がいいなと思います。じゃないと、結局彼らが困っちゃいますしね。

 

 

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若者離れ 電通が考える未来のためのコミュニケーション術

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会社からの評価なんてどうでもいい、と思っている人に

最近の人はどうも、出世欲というものがあんまりないらしい。その結果、会社からの評価もほとんど気にしない、という人が多い。特に成果主義ではなく固定給をもらっている会社だとなおさらだろう。出世のための絶対条件は会社から評価されることであるのは今も昔も変わらないが、出世に興味がないなら高い評価をもらう必要もない。当然と言えば当然だ。

 

私もどちらかと言えば、会社からの評価なんてどうでもいいと思っている。ただし、必要以上に媚びへつらったりしない、というだけだ。無理に飲み会に参加したり、人間性だけを売りにしない、ということだ。他にもあんまり直接的な業務に関係ない仕事に対して全力は尽くさない、ということだ。

 

評価されなくてもいいが、スキルアップはしたいと思っている。それはスキルアップをした方ができることが増えるからだ。わからなくて困ったりすることも減るし、いいアイデアが浮かんだりもする。何より、何もわからずにやっているよりもわかってやっている方が楽しい。これはこの世の真理だ。

 

なので、別に評価もされたくないし成長もしたくないと思っている人はこの記事を読んでも参考にはならない。そのまま窓際族として生きていけることを祈っている。逆に、自分が成長することと、会社から評価されることは別ものだと思っている人にはぜひ伝えておきたい。

 

会社に評価されるといいことはある。評価されても高い報酬をもらえるないかもしれないが、評価が高いほど自由になれる。これは私が今まで見てきたどんな組織でも同じだった。

 

まず、自分の仕事を一々監視されなくなる。新人の頃は事前にわかりにくい説明をだらだらされて、実際にやってみてわからないことがあったら適宜問題がないか確認して、実際に仕事が完了したら確認してもらう、みたいなプロセスを踏まなければならない。

 

しかし、評価がついてくると、「あいつならほっといても大丈夫だろう」と思ってもらえる。すると、仕事の進め方、それに割く稼働もろもろを自分の裁量で決められる。モノによっては一々成果物もチェックされない。これは非常に楽である。

 

発言や質問のハードルも下がる。例えば、誰からも評価されていない時に、簡単な質問をすると、「そんなことも理解できないのか」などと思われそうな不安に駆られる人も多いだろう。しかし、周りの評価がついていれば、「むしろ自分の説明が悪かったのか」と相手に思ってもらえる可能性が高くなる。結果的に自分の意見を組織に反映させやすくなる。

 

他にも、意思決定の前の相談を受ける機会が増える。新人の頃は意思決定の場にすら呼んでもらえない、決まったことすら明確には教えてもらえない、なんてこともザラにあったが、内容共有に加えこちらの意見を求められるようになる。これも自分の意見を組織に反映させやすくなる。どれも会社の中での自由度に繋がっていく。報酬なんかはオプションに過ぎない。

 

こうやって考えてみると、悔しいが評価されることは結構大切である、と言える。とは言え、会社からの評価に興味を一切持てない人もいるだろう。でも、そんな人でも会社から評価される方法がある。それは、自分の一番近くで仕事をしている人、かつあなたが評価している人に評価してもらうことだ。

 

一番近くというのは、席が隣、とかではない。あなたと同じくらいの年次であなたと似たような仕事をしている人である。

 

自分より遠い人、例えば課長とか部長になると、はっきり言ってあなたの仕事ぶりを見せることはできない。どんなに良い仕事をしていたとしても伝わらないのである。だから、課長や部長に好かれている若手というのは決まって、仕事ができるよりも人間性とかノリの良さが決め手になっている。(もちろん、そういう生き方もある。)

 

ただ、あなたの近くにいる人はどうか。その人が優秀であればあるほど、昔の自分と比べた時に今のあなた(のスピードや品質)がどうなのか、あるいは今の自分に比べて今のあなたがどうなのか、もっと純粋に一緒に仕事をして助かっているのかどうか、がわかる。立場が近いと仕事の粒度も近いので、正確に評価することができる。

 

もちろん、それをしくじり続けると、評価はされない。ただし、それは成果が伴っていないために評価されていないだけである。下されるべくして下される悪評だ。頑張って成長していくしかない。

 

もう一つの条件が、あなたが評価している人物であるということだ。第一にこれがないと、その人物に評価してもらおうというモチベーションが持続しない。その人を助けようという気持ちが生まれない。(あまりに評価が低く、逆に助けてあげないと・・・となるパターンはあるにはあるが。。。)

 

そして、あなたの目利きにもかかっているが、こちらが凄いと感じる人は大抵会社から高い評価を得ている。すると、どうなるか。

 

あなたは”会社から評価されている人”に評価されている人、ということになる。これは間接的に会社から評価されていることに他ならない。どういうルートで情報が流れているのかは定かではないが、特定の一人に高く評価されているだけでも、会社全体の認識というのは時間とともに大きく変わっていくらしい。

 

セオリーとしては、色んな人に対してアピールをしていくべきなのかもしれない。実際、私も課長から「(私の)アピールが足りないことにより、周りが(私の)能力を理解するまでの時間が無駄になっている」というコメントをもらったこともある。

 

でも、そういうのが苦手な人は、特定の人からの評価のみに着目するやり方もアリなんじゃないだろうか。少なくとも私は今までそうやってきたし、これからもそうやって生きていくと思う。

ポケモンGOが流行るってどうかしてるぜ

ポケモンGOの人気がすごいっすね。任天堂やるやんけ!って感じです。個人的にはあんまり魅力を感じないですけどね。もちろん、VRがどんな感じなのかっていう興味があります。VR技術によって、より自分が主人公になりきることが可能になった点が良いのかもしれませんね。ただゲーム自体の仕組みとしてはパズドラとかと変わらない印象です。

 

というかスマホが普及がしてからというものやっぱりゲーム業界の勢いはすごいものがあります。私は一週間ぐらいで飽きてしまったパズドラとかも、まだユーザDL数は意外にも伸びてるんですね。

 

一番の理由はターゲットとなる顧客層が圧倒的に多いことでしょう。昔の大人なら、「大人がゲームやってるとか恥ずかしい」みたいな感情を持ってたと思うんですけどね。だから9割以上の子供がゲームをやっていたとしても、市場としてはまだ未熟だった。

 

しかし、今ではいい年したおっさんがゲームやってるとか当たり前ですね。これはもちろんスマホが爆発的に普及したからで、昔で言えば一人が一台以上ゲームボーイ持ってる状況になってるんです。なおかつ、ソフトが無料で手に入る状況であれば、ユーザが増えるのは当然といえば当然です。

 

とは言え、みんな本当によく飽きないよね。相当暇なんだろうね。私も色んなスマホアプリやりますけど、ほとんど一週間ぐらいで飽きて、しばらくしたらまた別のアプリを探す、みたいなことをやってます。お前も立派なユーザじゃねえか、って話ですが。笑

 

まぁすでにネット上ではポケモンGOに飽きた、みたいな記事が登場してきてます。やぱりゲーム性自体はシンプルかつ王道っぽいので。ただ、個人的にはたぶんまだまだユーザ数は伸びていくと思います。もちろん、別の影響(スマホ歩き等による事故発生とか)で伸び悩む可能性はほんの少しだけあるかもしれませんね。

 

やっぱり私は昔のゲームみたいに全面クリアができるものがいいと思う。ゴールが明確でないと続けられない。今の課金型のゲームは割の良いビジネスなのかもしれないけど、そういうユーザがいることをゲーム業界の人は理解してほしいなぁと思う。

広告を消すのにお金がかかる時代のサービス

スマホの無料ゲームアプリなんかをやっていると、必ず広告が表示される。それは常に画面上のどこかに表示されていたり、ある場面でボタンを押した瞬間に広告用の画面に切り替わったり、中にはいきなり動画がスタートするものもある。

 

特に小規模の会社や個人が制作しているものだと、それが鬱陶しい人のためにと、ちゃっかり”広告無し版”が数百円ぐらいで用意されていることが多い。未だにゲームアプリ業界がこういうビジネスのやり方をしているところを見ると、あんまり業界の未来としては明るくないように思う。参入障壁の低さから市場規模が上がっているように見えてるだけなんじゃないだろうか。

 

ともかく、昔であれば、広告などによって自分の知らない情報が手に入ることはありがたいことでもあったはずだ。しかしながら最近では、情報がないということはほとんどなく、適切な情報を見つけることが難しいほどに情報が世界に溢れている。

 

そんな世の中では、むしろ余計な情報をいかにそぎ落とすことができるか、に価値が置かれるようになったということだ。アマゾンのおすすめ商品も、見方を変えれば”おすすめでない”商品をそぎ落とした結果だと言える。

 

実際、私も余計な情報をそぎ落としたいと思うことがある。一番の例は郵便ポストに無造作に入れられるチラシだ。一週間も放置しておくと、パンパンになってしまっている。いつも全部まとめて捨ててしまいたい衝動に駆られるが、中には大切な書類も含まれているので、捨てるわけにはいけない。結局、全てのチラシに目を通して一つ一つ選別していくしかない。これは人生において3番目くらいに無価値な時間だと本気で思う。

 

これは、ちょっとしたビジネスチャンスだと私は思っている。少なくとも、ポストにチラシが入れられて迷惑だと感じている人はたくさんいるはずだ。しかし実際には、個人が「チラシお断り」の貼り紙をするぐらいの対策しか施されていないのが現状である。

 

また、ITの世界では迷惑メールのフィルタリング機能など、十分ではないにせよ当たり前に実装されている。一方で、物理世界の郵便ポストでは何の制御も行われていない。これは奇妙だと思わないだろうか。

 

もちろん、今の技術では難しいのかもしれない。今の家に付いているごく普通の郵便受けでそんな制御ができるはずもない。そもそも、郵便ポストが自動で必要な書類だけを選別するためのスキーム自体が存在しない。

 

しかし、ここにITの要素が加えれば、やってできないことはないと思う。例えば今の技術レベルでも、郵便ポストの投入口にスキャナを搭載すれば、文字列あるいは画像を認識するまでは実現可能だ。

 

郵便ポスト自体が住所に紐づくIPアドレスを持ち、その住所に紐づく家主のメールアドレスを記憶しておけば、スキャンした瞬間に画像を添付して通知を送ることもできる。あるいはWebインタフェースで郵便ポストに直接アクセスして、今そのポストに入っている書類一覧を画像として確認できる、でも良い。「あー今あるものは全部要らないから一気に捨てよ」みたいなことは可能だ。

 

もっと技術レベルを上げて、例えばAIが組み込まれれば、文字列や画像の中から家主にとって重要度の高いものと低いものに選別し、重要度の低いものについては処分することもできるようになる可能性だってある。外から家電を操作できるスマートハウスよりも個人的にはいいと思う。

 

まぁそもそも、昭和の価値観で生きてる企業が広告での営業活動をやめてくれれば済むんだが。

品質水準とは何ぞや

今日は仕事をほっぽり出して、品質管理の研修に行ってきましたので、簡単にその内容でもまとめておきます。やっぱりソフトウェアなんてちゃんと動いてナンボのもんですからね。品質をいかに担保して、担保するために何をすべきなのか、というのは一つの学問になっているくらいです。

 

さて、そもそもソフトウェアにおける品質とは何なのか。品質というと、電化製品みたいな目に見えるモノに対して言いますよね。普段の生活の中で私たちは「日本の製品は品質が良い」みたいな言葉を安直に使っていますが、それって一体どういう時に使われるんでしょうか。

 

携帯電話を例にとって考えてみますかね。単純に形が整っていることについて品質が良いという人もいれば、カメラが綺麗な(解像度が高い)ことに対して品質が良いと考える人もいるでしょう。逆にiPhoneなんかだと、落とすとすぐ画面にヒビが入ってしまうことに対して品質が悪いと考える人もいると思います。こうやって列挙してみると、幅広い意味合いで使われている言葉です。

 

ソフトウェアの場合は、(お客さんの)要求事項を満たしていることが品質が良いと定義されています。おそらく、一般的な製品についても同等のことが言えるのでしょう。ISO9000という国際規格で定められています。

 

つまり、iPhoneの画面がすぐ割れること=品質が悪いということではなく、iPhoneという製品に求められる要求事項として、「高度1mから落としても操作に支障をきたす障害が発生しないこと」というものが含まれていなければ、別に品質上問題はない、ということになるのです。

 

ソフトウェアの場合では、例えば、中に記述されているソースコードが凄く読みにくかったり、無駄なソースが含まれていたら品質が悪そうな印象を受けますが、そのソフトウェアが提供するサービスがお客さんに求められた要求を満たしているとすれば品質の良いソフトウェアとなります。(厳密にはユーザ目線の品質と開発者目線の品質があるのですが、ユーザ目線の品質が良ければOK的な風潮があります。)

 

要するに”品質”という言葉は、あるべき姿(=要求事項)が定義された上でしか、意味を持たない言葉になっています。

 

さて。この品質ですが、どうやって実現していくのかが大切になってきます。入念に作れば良いという単純な話ではないんですね。ソフトにしてもハードにしても大体が実際に使ってみないとどうなっているかわかりません。設計なんて所詮想定でしかないですから。

 

なので、現場では実際に作ったものを動かしてみて検証します。いわゆる試験ですね。どんな仕事でもそうでしょう。

 

ソフトウェアの試験というのは実は結構大変です。ぶっちゃけシステムを作る以上に労力を必要とします。しばしば、見積額がとんでもない額になってしまうのも、試験工程にかかる工数が多分に含まれているからです。

 

また、システム開発において基本的に完璧な試験というのはできません。特に仕様ベースのブラックボックス試験などにおいては、規模が大きくなりがちで、全て条件の組み合わせパターンを試験することは不可能である場合がほとんどです。

 

なので、代表的なものだけを選ぶ、という方法に走らざるを得ないのですが、闇雲に代表的なものを抽出していくと、結局試験項目の数は膨大になってしまいます。そういうわけで、どんなプロジェクトにも”品質水準”という基準値が設けられています。

 

品質水準はザックリ言えば、「このぐらいの試験やっとけばええんちゃう?」「こんぐらいバグが出ればええんちゃう?」という値です。具体的には、ソースコードのStep数と、過去の類似プロジェクトの実績値から算出されます。

 

この品質水準値は、品質の妥当性を判断するため、すなわち品質管理のために用います。仮に、試験を100個やって、バグが10個ぐらい出ればいい、と予め決められていたとしましょう。

 

例えば、期間が足りず試験が50個しかできなかったら品質はちょっと悪いかもしれないな、と予想することができます。あるいは、試験を100個やったらバグが50個出た、となっても品質は悪いかもしれないと類推することができます。

 

では、100個試験をやってもバグが1つも出なかったらどうでしょう。この場合なら品質は凄く良い、と考えられそうなものですが、実は全く逆です。そもそも実施した試験の網羅性や観点が十分ではないと判断されることが多いです。

 

もちろん、実際に品質が良い場合もありますが、一般的には事前に設けられた品質水準値±数%の範囲内に収まっていないと何か問題があると判断します。ただ、品質水準値に収まっていても、品質が悪い場合もあります。。。

 

さらに言えば、品質水準値そのものがプロジェクト特性の違いなどによって妥当ではない場合もあります。みんなが口を揃えて、「あくまで目安だから」と言います。。。

 

なら、品質水準値とかいらなくね?

 

私はいつもそんなことを思っています。まぁこれは可監査性のための評価軸としてのみ有効です。

 

簡単な定量評価に頼らず、バグはしっかり定性的に分析しましょう。

 

n1dalap.hatenablog.com

チームの中で主体的に動く人と、受動的に動いているだけの人の違い

主体的に行動する人が求められるようになって久しい。企業は今でも主体的に動ける人を求めている。その理由はそもそも今日本にあるほとんどの企業で主体的に動ける人が少ないからだ。人は足りないものを求める。

 

主体的に動ける人、というと一人で何でもやってしまう人をイメージする人もいるかもしれないが、それではただ勝手に行動するだけの人間になってしまう。チームの中で主体的に動くとはそういうことではない。時には人に頼り、人に任せることができなければならないのだ。

 

ただ、他の人に頼ったり任せたりする人の一体どこに主体性があるのか、と感じる人もいるのではないだろうか。結局自分では何もしない上司なんてどこにでもいそうなものだ。

 

あるいは、入って間もない新入社員だって先輩や上司に頼りつつ自分の仕事をしているのだから、主体性があるのでは、と感じる人もいるだろう。確かに、新入社員でも主体的に仕事を進められる人もいるかもしれない。

 

こんな風に主体的を求められる社会のわりには、主体的であることが一体どういうことなのか、についてちゃんと教えてくれる人はいない。でも、この正解は実は辞書に載っている。

 

主体性とは「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」のことである。

 

組織の中で主体的であるためには、大前提として組織のゴールを理解している必要がある。ただ組織のゴールというのは得てして抽象的であり、新入社員であっても即座に理解できる。問題なのはその先の、組織のゴールから具体化されて出来上がった、中小規模かつ複数の目的を理解しているかどうかである。あるいはもっと小さな個人レベルの業務の目的、そしてそれらの階層構造を理解しているかどうかが鍵だ。

 

新入社員のうちに、今の自分の作業が組織としてのゴールのためにどう役立つのかを理解することはほぼ不可能である。たとえ理解できたとしても、その仕事が本当にやる価値があるのかどうかを判断することはできない

 

あるいは「具体的な仕事」という形で作業を与えてもらえなければ自分が何をすれば良いのかも判断できない。単純に経験がないからだ。よって新入社員が主体的に行動できる、ということはない。自主的に行動はできても、ただ受動的に動くしかないのだ。

 

逆に、中堅クラスの社員にもなるとやはり主体性には磨きがかかってくる。この主体性を支えているのは、目的や課題に対する自分なりの答えを持っていること、そして自分で答えを考え出すための知識と経験である。

 

抽象的な目的が与えられた時に、その目的を達成するために必要となる複数のタスクを理解していれば、主体的に物事を進めていくことができる。目的を理解した上で、それを達成するためのタスクを誰かにやってもらったり、達成するために必要な情報を教えてもらったから主体的でないというわけではないのだ。

 

一方で、他人から提供された成果物や情報の妥当性を自分で判断しない人は主体的とは言えない。部下に仕事を丸投げして品質のチェックもしないような上司は全く主体的ではない、ただの受動的なアドバイザーでしかない。

 

このように、チームの中での主体性とは、一人でやるか他人に頼るかの違いではなく、目的の階層構造を理解しているかどうかで決まる。

 

実は他にも目の前の人が主体的か受動的かを判断する簡単な方法がある。それは、その人がオープンクエスチョンを使うかクローズドクエスチョンを使うか、である。言わずもがなオープンクエスチョンなら主体性は低く、クローズドクエスチョンなら主体性が高い人だ。

 

例えば、新入社員の質問の9割は「どうやったらいいですか?」と「何をやったらいいですか?」である。まさに主体性の欠片も感じられない。一方で、主体的な人は「仕様の質問なんだけど、状態Aの時にB電文がとんできたらどうなるんだっけ?」みたいな具体的な質問をされる。その答えさえ教えてくれれば後は自分で進められることをわかっているからだ。

 

面白いことに、質問をされた時の対応も主体的な人と受動的な人ではわかれる。例えば、こちらが具体的な質問の答えだけを聞いているにも関わらず、「その質問の意図は何なの?」と聞いてきてその人なりの答えを出そうとするのが主体的な人の特徴だ。(こっちが主体的に進めたい時にこれをやられるとかなり面倒だが。。。)逆に質問の答えしか回答しない人は受動的な人である。

 

あなたは果たしてどちらのタイプだろうか。

投票率を上げることに意味はあるのか

今日は参議院選挙でしたね。みなさん投票は行きましたか?私は行ってきましたよ。多分人生で3回目ぐらいです笑。投票所が徒歩2分ぐらいのところにあったので、サクッと。まぁ今回から18歳に選挙権が引き下げられたこともあり、まぁなんとなく行っておこうかな、ぐらいのモチベーションで。

 

とは言え、自分が投票しにいくことで、多少政治にも関心を持てるようになれば良いな、ぐらいには考えています。最近は結構政治絡みの本とか読みますし、政治の問題を考えるのって意外と面白いんですよね。答えのない問題を考える思考トレーニング的な位置付けで。なので、正直自分が投票した人が当選するかどうかとか、自分の意思が社会に反映されるかどうか、とかはほとんど興味ないです。

 

そもそも、自分の一票が社会を変えることなんてないですよね。政治団体が出している政治がらみの本とかを読んでいると、やっぱり「一人一人が投票をすることでしか世の中は変えられない!だから投票に行こう!」みたいな主張が多いですけど、あれって医者の不養生ですよね。自分一人が投票するだけでは世の中が変わらないと思っているからこそ、あーやって大勢に対して呼びかけているわけですから。で、そういう呼びかけを聞いて投票に行く人って単純にその人の意思に流されているだけ。

 

実際、今の選挙ってほとんどそうで、政策に民意が反映されているって感じではないですよね。投票している人も、政策とかはあんまり知らないけど、なんとなくあの人良さそうだから、とか戦争したくないから憲法改正反対、みたいにすごく薄っぺらいところで自分の意思を固めてしまっている気がします。

 

と、そんな状況の中で投票率を上げることに一体どれだけの意味があるのか、というところを今回は考えていきたいと思います。若者の投票率が低く、老人の投票率が多いため、結果的に老人に有利な政策ばかりになっていくシルバー民主主義状態は今に始まった話ではないですが、かといって今若者たちが投票に行くことによって何かが変わるのでしょうか。

 

仮に今回の18歳選挙権引き下げに伴って、若者が一斉に投票に行ったとして、そこに若者の本当の意思は反映されない、というのが私の仮説です。なぜなら、若者は政治の仕組みも、政策の種類や優先度、それぞれのメリットデメリットなどを理解しきれないからです。私だってほとんど知りません。

 

こういった状況になっている原因は何か。全ては教育のせいです。学校で政治の仕組みをサラッと教えこそするが、日本が今どんな問題を抱えていて、それに対する対策として各党はどんな政策を掲げていて、それを実行することによってどんなデメリットが生じるのか、など踏み込んだ教育はしません。

 

これは日本教育が政治的中立という立場を取っているからです。教育の中に政治を取り入れてしまうと、教育者の意思が大きな影響を与えてしまうことを避けるためです。これは今回の18歳選挙権引き下げのデメリットとしても懸念されていましたね。

 

さらに言うと、日本では社会に出てからも政治の話をするのはタブーとされています。ビジネスマナーの本にも「雑談は天気の話から入り、政治の話など価値観の対立は避ける」よう推奨されています。というわけで、政治についての知見を深める場は一生与えられないのです。個人の意欲に任されています。

 

私が思うに、もう一世代前の頃は親が政治のことを子供に教える風潮があったのだと思います。だから一定の投票率は保たれている。しかし、政策がどうこうという話まではしてないでしょうね。単純に「投票には行きなさい」みたいな親からの言いつけをただひたすら守っているだけに思えます。

 

単純に「投票に行きましょう」じゃなくて、政治のことを教える仕組みがまず必要じゃないですか。で、それができる場所って、もう学校しかないんですよね。もちろん、バラエティ番組とかでうまく政治を取り入れてる番組とかも良いですけど、番組で扱える情報量には限りがありますからね。

 

政治的中立というのなら、中立の立場で、各政党について教育すれば良いではないでしょうかね

「言われたことしかできない人」を放置してはいけない

今、私は試験チームのサブリーダーをやっています。自分も試験をしながら、計画立てたり、協力会社さんたちの支援とか進捗管理とかを担っています。で、私自身はあんまり管理されてません。結構自由に仕事ができて快適です。

 

ただやはり、メンバのサポートが大変、というか不安に思うところが少なからずあります。というのも、言われたことしかしない、とか、書いていあることしかやらない、とかそういう人も結構いるからです。特に、システム開発の試験ではバグがあっても気付けなかったりするので、後々大問題になったりします。

 

もちろん、年次が浅い頃は、言われたことしかしないようにした方がベターです。が、割と年配の方でも指示がないと動けない、というタイプの人も今までに何度か遭遇しました。なので、こういう人たちと一緒に仕事を進める上でどうすれば良いのか、というはマネジメントをしていく人間としてはちょっとした課題でもあります。

 

まず、考えるべきは、「言われたことしかできない人」が「言われたことしかできない人」たる所以でしょう。

 

最も大きい理由は、目的を理解していないことです。チームでやる仕事には大きな目的があります。すべての仕事はその大目的を達成するためにあるのですが、個人の仕事レベルに細分化された時に、一体今自分が取り組む仕事にどんな意味があるのか、というのはなかなか把握しづらいものです。

 

もう一つは、失敗を恐れていることです。下手に言われていないことをやって怒られるよりも、言われたことをやっておけば怒られないだろう、という考え方です。俗に言う、責任逃れですね。こういうスタンスの人は本当に多いです。おれは言われたことをやっただけです。だから私は悪くないです、みたいな。

 

まぁ私たちのように色んな会社が集まって仕事をしていると、「言われたことしかできない人」を育てる、というよりは「言われたことしかできない人」でも実施可能な状態にしようとする方向にベクトルが働きます。

 

例えば、マニュアルに書かれてあることしかしないなら、対策としてはマニュアルの記述を改善しますし、抽象的な指示をして期待の成果物が得られなかった場合は、指示を具体的にします。ノウハウや仕組みをブラッシュアップしていくことで、属人化させないようにするんです。

 

私もずっとそうするべきだと思っていました。でも、仕組みには限界があります。優秀な人を見ていくうちに、結局人に頼らざるを得ないなと痛感しました。だから「言われたことしかできない人」を野放しにしたまま仕事を進めるとマズいんです。

 

じゃあどうするのかというと、一番いいのは決めてもらうことじゃないかな、と思います。「どうすれば良いですか?」という質問が来たら、「あなたはどうすれば良いと思いますか?」あるいは「どうしたいですか?」と逆に問うてみる。

 

この手の質問ってされる側はかなり面倒くさいですね。特に、自分の中での正解を持っていない状況でこの質問をされると面倒くさいです。でも、ここに対する回答ができないということは、自分だけでは意思決定が全くできない、ということなんです。

 

「言われたことしかしない人」は仕事の吸収が遅いです。なぜならば、自分で意思決定をしないからです。意思決定をする人は、意思決定をするために様々な情報や経験を自分の中に蓄積している必要があります。逆に言うと、意思決定しない人は仕事について何かを理解している必要がないのです。

 

今回は「言われたことしかできない人」をいかにそうじゃない人にしていくか、という切り口ですが、自分が「言われたことしかできない人」にならないためには、結局自分で意思決定をしてみる、あるいは意思決定できるようになることを目標にしておくことが大切です。私も上司に一々確認するのがアホらしいと常々思っていたので、自分で決められるようになりたいと思ってました。

 

例えば、上司からある仕事を任せられた時、「いつまでに完了させれば良いか」を確認するようにと新人研修とかでは習いますが、本当はそんなこと確認する必要はないんです。その仕事の後続タスクが何で、それがいつ開始するのかさえ分かっていれば、別に自分でいつまでに終わらせれば良いか、なんてことは判断可能なのです。

「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答

私の会社では、四半期に一回、上司と面談をする仕組みがあります。そこでは、自分がどんな目標を設定し、そのためにどんな業務に取り組み、そしてどんな気づきを得た恩か、ということをつらつらと説明します。そして、上司はアドバイスをしたり、今後のキャリア育成の参考にします。

 

と、まぁ上記のような名目ですが、ほぼ形骸化しており、中身はほとんどありません。多少意味があるとすれば、定期的に上司と部下のコミュニケーションの場をとれる、といった感じでしょう。例えば自分がどんな仕事をしたいのか、もっと言えば、別の部署に異動したい、なんて話ができる場でもあります。もちろん、できるのは意志を伝えるところまでです。

 

で、その面談が終わる前には必ず、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」という質問をされるんですね。私は、いつも「特にありません」って答えるんですけど。だって言っときたいことなんてないし、いつでも言えるし。ただ、他の同僚はなんて答えてるんだろうか、だけ気になります。

 

ところで、この質問には聞き覚えがある人も結構いるんじゃないでしょうか。そうです、就活の面接の最後とかに面接官から投げかけられる質問ですね。当時から、あの試すような感じの質問は鼻につきましたね。笑

 

ただ今になってみると、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答って結局何が正しかったんだろうと疑問に思いますね。他の人はなんて答えてたんでしょうか。

 

ネットを漁ってみると、

・さらに自己PRをする

・無難に福利厚生の話を聞く

・何も言う必要はない

などがありました。

gakumado.mynavi.jp

 

正直上の三つはないなーと思います。さらに自己PRとか暑苦しすぎるっしょ。笑。あと無難に福利厚生の話、って全然無難じゃないし。笑。何も言わない、というのもまぁアピールチャンスを棒に振るうようなもんですから。まぁなくても採用の結果が大きく下がることはないと思いますがね。

 

上のリンクの中にも入っていましたが、ここでは「感謝の意」を述べておくのが最も無難だと思いますね。私も半分ぐらいはそうしてました。結局、日本人って誠実な人を評価しますからね。ただ、これはマイナスにこそならないですけど、大したプラスにはならないと思います。そんな人いっぱいいるでしょうし。

 

何より、ここで面接官が聞きたいのは、感謝の気持ちではないんですね。一般的には、その人が面接の中で見れなかった人柄などを引き出したい、らしいです。ぶっちゃけ、ただ形骸化しているだけだと思いますが。

 

だとすると、ここで述べた方が良いのは、面接の場では言えなかった、より本音レベルの話をするのが正解じゃないでしょうか。例えばですが、ぶっちゃけ御社ともう一つの会社で迷っています。御社は○○ですが、もう一方は〇〇なので・・・みたいな話をしてみるとか。まぁこれはやったことないですけど。

 

私が実際にやっていたのは、逆質問ですね。会社のことを聞くのではなく、面接官個人のことを聞く。一番単純なものだと、「あなたはなんでこの会社に入ったんですか?」と聞く。「今後の事業戦略はどうするつもりですか?」みたいな質問よりグッとリアルになりますよね。ちなみにこの質問をすると、知り合いの勧誘で、みたいな意見が圧倒的に多かったです。

 

参考までに。

大企業も結構不安定です

大企業に入れば一生安定。そんな時代は終わったのかもしれないですが、やっぱり大企業って安定してます。一つの事業が失敗しても、別の事業で成功してれば問題ないし、仮に全ての事業が数年連続で赤字になってもギリギリ社員を養っていくことができるだけの資本力があるんです。

 

ただ、その”安定”ってすごく局所的な部分、いわゆる給与面だけですよね。まぁ給与が毎月入ってくれば生活はできるし、実際、多くの人が使う”安定”っていう言葉も一生お金には困らないってことだと思うので、あんまり大したことじゃないかもしれませんが。

 

でも、その給与面以外で考えると、大企業って全然安定していないんですよね。

 

例えば、勤務地。私は一生この土地で生活したい、とか無理です。偶然育った土地で最後まで働ける人もいますが、勤務地を自分で決めることはできません。さらに、勤務地はどこでもいいけどずっと同じ場所に居続けたい、というのも無理です。これももちろん、偶然そうなる可能性はあります。が、マイホームを購入した途端、地方に転勤、トいうケースも普通にあります。

 

勤務地が選べないということは当然、人間関係も選べません。配属された場所にいる人たちと仕事をしなければならないし、時間が経って仲良くなっても、また別の人間関係の中に身を置かなければならない時も来るかもしれません。全ては上層部の采配という名の偶然によって決まります。

 

職種もそうです。入社時に職種が決まっている場合も最近では結構ありますが、少し月日が経てば、開発から営業に変わったり、はたまた研究職から人事部に異動させられる場合もある。「これも新たなチャレンジだ」とか何とかいいように説得されてか知らないですが、ほとんどの人が簡単に職種を変える。日本は就職じゃなくて就社ってよく言いますしね。つまり職種も選べません

 

あと私どものようなBtoBの会社だと、お客さんや業界も選べません。よく、就活の時に「弊社は幅広い業界のお客様を相手に取引をしています」みたいなことを自慢げに語る人事と、それを聞いて「あーこの会社いいな」と思う学生が必ず現れますが、お客さんの数が多ければ多いほど、自分が誰の担当になるかわからないということです。

 

色んなお客さんを相手に仕事ができます、というのは嘘っぱちです。もちろん、運良くそういうキャリアを描ける人もいます。が、そうでない人の方が沢山います。なので、自分がどうなるのかは不明です。

 

給与以外はこんなに不自由で不安定なんですね。大企業に入る人は安定志向とか言いますけど、大博打ですよ。20面体のサイコロ振って4,5以外の目が出たら数年間自分の思い通りに行かない人生を生きる、みたいな。

 

 

でも、それでもたぶん、大企業に入るほとんどの人にとってはそれなりに楽しいんですよね。だって彼らって大学入る時もそうだったでしょ。なんかみんなと同じようにちょっとバイトして、サークル入って、単位の取れそうな授業だけ選んで、テスト前に徹夜して乗り切る、みたいな生活をしてた人がほとんどじゃないですか。

 

私は最後まで大学はつまんねーと思って留年までしちゃったわけですが、ちゃんと単位をとって卒業した、少しだけ仲の良い友人に聞いたことがあるんですよ。大学楽しいか?って。そしたら、そんなに楽しくはないけど、まぁそれなりに楽しい、と言ってましたね。

 

下の記事を読んでそんな過去を思い出しました。

blog.tinect.jp

 

強烈な目的意識が無ければ、何をやってもそれなりに楽しいんです。だって、”思い”が無ければ”思い”通りに行かないことなんてないですからね。私もまぁ大学時代だけは特別でしたけど、ほとんどのことはそれなりに楽かったので同じ人種ですね。最近はまたつまらないですけど、何とかやってますし。

 

でも改めて考えてみると、やっぱり大企業も結構不安定だなーと思う次第です。

英語とプログラミングと、義務教育

ちょうど大学生から社会人になる境目に受験したTOEICを最後に、私は英語を勉強することを諦めた。いくらこんなことをやっても、英語ができるようにはならないと確信したからだ。

 

英語と少し似たものに、プログラミングがある。私は大学院に入ってから初めて情報系に転身し、最初の数ヶ月間は入門書に沿ってプログラミングの勉強をしていた。しかし、結局は長続きはしなかった。これについても、いくらこんなことをやっても、プログラミングができるようにはならないと確信したからだ。

 

この二つの共通点は、どちらもある目的を達成するためのツールでしかない、ということである。ある目的がはっきりしていないと、何をもって”できる”なのかがわからないため、いつまで経ってもできるようにはならないのだ。

 

とは言え、大体の目的は決まっている。英語ができるようになりたいのは、英語で自分の意見を伝えること、英語で人の意見を理解出来ることを目標にしている。とりわけ日本人は話せない人が多い。

 

プログラミングについても同様で、Webサイトなりシステムなり、ソフトウェアを作れるようになることを目標にしている。そして、何らかのソフトウェアを作るためには、プログラミングを学習する必要があると考える。

 

しかし、これらは本来学習で身につけるものではない。英語が上達する一番良い方法が何かというと、外人の恋人を作ることだという話を聞いたことはないだろうか。あるいは留学など、実際に海外に行ってみること。彼らは例外なく英語が上達する。

 

その理由としては、圧倒的に英語によるインプットとアウトプットの量が増加することも一つであるが、何よりも英語を学習する目的がはっきりするからである。ここからは私の仮説であるが、実際に海外で使っている英語は、私たちが受験勉強やTOEICなどで学習する内容よりも圧倒的に少ないと思う。だって、私たちが国語で勉強してきたような難しい言葉や言い回しって普段の生活では使わないでしょ。

 

プログラミングに関しても全く同じで、こういうアプリが作りたい、というイメージが鮮明な人の方が圧倒的にプログラミングは上達する。分厚い〇〇言語入門に乗っているうちの10%ぐらいで作れるから。ポインタを理解してなくても開発できるし、HTMLのタグを全て理解しなくてもWebサイトは作れる。もちろん、調べながら進めるので大変だけど、本当に今必要な知識のみに絞られるから理解が早いのだ。

 

そして、実践の中での学びが良いのは、基礎的な知の組み合わせ方を学べるところにもある。

 

私たちが英語の教科書で学べるのは、文法の基礎がほぼ全体を占める、プログラミングの教科書でも、構文の基礎がほぼ全体を占める。でも、実践の中で使うのは99%が応用問題である。つまり、”基礎をいかにして活用するか”が大事なのだ。if分だけで一般的なソフトウェアを作ることはできない。

 

しかしながら、私たちが学校などで学ぶのは、2つの基礎を組み合わせたレベルの応用問題が少しあるぐらいである。基礎パーツが100あれば、2つを組み合わせるだけとしても5000通ぐらいある計算になる。実際には3つ4つ組み合わせることもあるのだから、全く持って不十分なのだ。というよりも、体系的な学問として全てを学ぶことなどそもそも不可能、という意味である。

 

だから実践が有効となる。実践は決して網羅的ではないし、体系的に理解することは難しいかもしれないが、基礎的なパーツをいかにして組み合わすことで実践レベルで使えるかを学ぶことができるのだ。当然、実践レベルでの使い方を学ぶのだから、早く実践できるようになっていく。

 

まとめると、英語やプログラミングができるようになるためには、直接それらを学ぶのではなく、別の目的のために英語やプログラミングを利用することが近道なのである。この場合、目的はただの道しるべなので、モチベーションが上がるものなら何だっていい。逆説的に言うと、ここでの目的に特に意味はないのである。

 

さて、ここまでは英語とプログラミングの話に終始していたが、タイトルに入っている義務教育も全く同じ構図をしている。ただし、義務教育を学んでも義務教育は身につかない、ということではない。

 

私は日本の教育に疑問こそ持っているが、義務教育自体は良いことだと考えている。それは、他でもなく、勉強そのものを学ぶことには役立っているからである。英語の実践が海外での生活、プログラミングの実践がアプリ開発なら、勉強の実践は義務教育なのだ。義務教育そのものに意味はないが、義務教育を道しるべとすることで早く”勉強”を学ぶことができる。

 

真っ当に義務教育を受けてこなかった人は単に勉強しろと言われてもどうやって勉強すれば良いのかがわからないのである。今になって「勉強のやり方」なんて本を読むより、実際に勉強をやろうとしてみて、できないことを一つ一つ潰していく方が速い。

 

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なぜ国際教養大学はすごいのか (PHP新書)

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バカな人は意思決定ができない、賢い人は決断ができない

現代の日本人は意思決定ができる人が少ないと言われる。結婚するべきか結婚しないべきか、今の会社を続けるべきか転職するべきか、新たな市場へ投資するべきか既存の顧客との関係を良好にしていくべきか、あるいは今日のお昼ご飯は和食にするのか洋食にするのか。

 

日本には優柔不断という便利な諺があるせいで、意思決定ができないのは全てそういった性格のせいにされてしまいがちだけれど、本当はそうじゃない。単純に頭が悪いからだ。

 

そもそも意思決定とは、ただ単に決めるのではなく、”どうするべき”か決めることである。それは複数の方法の中でどれが最も良いのかを決める、ということだ。ここに決断との違いがある。

 

そして、自分の理解を超えることについてはいくら考えたって”どうすべきか”なんてわからない。

 

例えば、例えば無人島で餓死寸前のあなたの目の前に、カラフルなキノコがあったとしよう。その場合、それを食べるべきか食べないべきかを決めることはできるだろうか。

 

もちろん、この問いに正解はないが、食べない方を選ぶ人が多いのではないだろうか。それはカラフルなキノコ=毒キノコというイメージや認識を持っているため、死のリスクが頭を過るからであろう。食べると死ぬ可能性が高いことを知っているから食べないという意思決定を下せるのだ。

 

あるいは毒キノコという存在は全く知らずに、とにかく食べ物を見つけたのだから食べるという人もいるかもしれない。でも、これもキノコが食べ物であることを知っているから食べるという意思決定を下せるのだ。これが石とか土なら食べたりはしない。

 

こんな風に、意思決定をするためには、その行動をとった場合にどんなメリット・デメリット(リスク)があるのかをよく理解している必要があるのだ。これが意思決定の基本である。

 

ただし、この場面で「いやいや、俺ならもっといい方法を選択する」という人もいるんじゃないだろうか。実際私がこんな場面に遭遇しても食べる食べないの2択からは選ばない。

 

例えば、その得体の知れないキノコを、近くの生物に食べさせてみて、死ぬか死なないかを観察する。死ぬのであれば、そのキノコが毒キノコである可能性がグッと高くなり、死ななければそのキノコは毒キノコではない可能性が高くなる。いろんな生き物に食べさせてもなお死ななければ、それだけ毒キノコではない可能性が高くなる。いわゆる毒味である。

 

これは直接的な知識を持っていなくとも、意思決定を下す”裏技”である。ただし、これも意思決定をするために必要な知識が何なのかを理解しており、その知識を得るために何をすれば良いかを知っていたから可能な方策である。

 

同じような意思決定の方法に”みんなの意見を聞く”というやり方がある。民主主義国家である日本の意思決定の主流はこっちだ。これも、自分では意思決定できない、すなわち意思決定をするために必要な知識を持ち合わせていない人でも意思決定ができる裏技的方法論の一つである。

 

ただし、これがベストな意思決定へと繋がるためには、「より多くの人が良いと考えるもの=より良い選択肢」であるという前提が満たされなければならない。でも実際はそうではないことが今の日本を見てるとわかる。

 

私は別に民主主義が間違った形だとは思っていない。でも、民主主義の前提として考えなければならないのは、「より多くの”良識ある”人が良いと考えるもの=より良い選択肢」であるということだ。ここでの”良識ある”とは、自分の頭で意思決定できると捉えてもらっていい。

 

少なくとも過半数以上の人が物事の本質を何も理解していないようでは、多数決で決めたっていい選択肢にならないのは当たり前である。ただし、良識ある人の多数決が必ずしも正解でもない、というところに複雑さがある。

 

また毒キノコの例で考えてみよう。私なら、まず別の生物に毒キノコを食べさせ、その結果をもとに意思決定を下すと述べた。その方が確実にそのキノコを食べるべきか食べないべきかを正しく判断できるからだ。

 

でも、これが一番良い方法だ、と考えるのは少し早い。なぜなら、これは本来の意思決定を先送りしているからだ。

 

例えば、ある生物Aに目の間のキノコを食べさせたとしよう。もちろん、すぐにその生物Aが死に絶えてしまえば毒キノコだと判断できるだろう。しかし、数分待っても死なないとして、即効性の毒なのか、数時間から数十時間経った後に体に回る毒なのかという別の判断を迫られることになる。

 

生物B、Cに同じキノコを食べさせた場合も同様だ。ここでももし、AとBは死ななかったけど、Cはすぐに死んでしまったとなった場合、結局そのキノコが毒キノコなのかどうかはわからないままである。もちろん、母体数を増やせば確率としては確からしいものになるが、絶対に安全とは言い切れないことになる。

 

そうこうして別の意思決定や判断に迷い、結局自分が餓死してしまう可能性もあるだろう。だとしたら、最初にキノコを見つけた時点で食べておいた方が良かったのかもしれない。特に今すぐ決めなければならない場合、闇雲に意思決定を先送りにする方がリスキーなのである。

 

バカな人は意思決定ができない、賢い人は決断に踏み切れないのだ。

SIerに就職する前に覚悟しておくべきこと

それは、「SIerの本質はIT業ではなく、サービス業である」こと。要するに、召使いってこと。

 

SIer、特に大手の会社の場合、システムを実際に作る工程は外注するのが常識になってます。その理由は、システムを作ること自体に大きな付加価値がないから。逆に上流工程に近いほど付加価値は高いと言われており、もう何年も前から外資系のSIerっぽい企業はコンサル領域にシフトしています。

 

10年前のアメリカを見れば今の日本に何が起こるかわかるとか言われてますけども、確かに同じような流れは日本のSIerにもとっくに押し寄せているんです。今のSIerが本当に重きを置いているのって、お客さんの要求をいかに満たすか、なんです。どちらかというとこれは非常にマーケッター的、ビジネス的な考え方ですね。

 

もちろん、お客さんの要求を満たすことを目的として最終的にはシステムを作るのが私たちの仕事なので、ITエンジニアとしての側面がないわけではありません。ある程度の技術的な知識も必要とされます。

 

ただ、そこを極めていくことは全く求められてません。「極めたいなら勝手に極めれば?でもうちの会社じゃ大して役に立たないよ?」って感じです。そして、私がずっと腑に落ちていないのは、”良い”システムを作ることにあまり関心がない人が多いことです。

 

ちょっと面倒な改善案を出したりすると、「実害がないならいいんじゃ・・・」とか「お客さんがいいって言ってるかいいんじゃ・・・」みたいな感じになります。この点がうちがエンジニアの会社ではない、と強く感じる理由でもあります。

 

断っておくと、悪いシステムを提供しているわけではありません。ただ”良い”システムとは大きくは二つの側面から考えることができて、ユーザー、すなわちお客さんから見て良いかどうかに加えて、開発者、すなわち私たちのようにシステムを作る人間にとって良いかどうかが最終的にはシステムの良し悪しを決める要素なんです。

 

当然、お客さんから見て良いと思われないシステムを提供すれば職務怠慢になってしまいます。そもそもお客さんがこんなことを実現したい、というWillをもとにシステムは作るものなので、極端な話着実にこなせば程度の差はあれ、お客さん視点から見て良いシステムはできます。(簡単にできるわけではないですよ。)

 

ただ、お客さんを優先するあまり、開発者視点の良さが全く伴っていない場合が少なくありません。開発者視点の良さが何なのかがピンとこない方もいると思うので、簡単な具体例を。

 

仮に、お客さんが「1+2の結果を出力するシステムが欲しい」といってきたとします。ここまで単純なシステムであっても、本来ならば、「何に利用するのでしょうか?」とか「出力結果はCSVファイルで良いでしょうか」みたいな問答を繰り返し、細かいところまで詰めていかなくてはならないのですが、今回は本当に結果を出力できれば何でも良いものとしましょう。

 

すると、おそらく下記が最もシンプルなプログラムになります。

 

int main(void) {

printf("3");

}

 

1+2の結果は必ず3なので、3を出力するだけでOKです。これはお客さんの要求を満たしているので、お客さんから見れば間違いなく”良い”システムです。

 

ただ、少し開発者視点での良さを考えると、例えばこう言う書き方になります。(C言語忘れてきたので間違っていればご容赦を。)

 

int main(int input1, int input2) {

  printf("%d"input1+input2);

}

 

ここでは1や2を変数として取り扱い、それを計算するロジックを記述しています。そして、変数の中に1や2を代入するための定義ファイルのようなものを別で作成する、といったイメージです。input1=1 input2=2として定義すればこちらもお客さんの要件を満たしています。

 

こういった作り方をすると、もちろん、工数は膨らんでしまいます。しかし、どんな嬉しいことがあるかというと、例えば、開発終了後に「次は3+4の結果を出すシステムを作ってくれ」とか言われた場合です。

 

前者の作り方ではまた一から同じだけのコードを書かなければならない(再利用できない)んですが、後者であれば、定義ファイルだけ新しいものを作ればいい、つまり次の開発がしやすいんです。

 

でも、この保守性はあんまり重要視されません。だって、今の開発を乗り切るのが最優先だから。それにお客さんから見えないところの品質が上がっても、受注額は変わらないからあんまりメリットはないし、むしろ保守性が高いと、工数が下がるので金銭的にはデメリットすらあるんです。

 

じゃあまぁ考えられる範囲でいいか、とか今回問題じゃなけりゃいいか、ってなるわけ。

 

同じような理由で新しい技術を導入したりすることも難しいですね。新規開発だとしても、それなりに実績のある…すなわち既に大衆化している技術しか採用されない傾向にありますね。やっぱり新しいことをするのはリスクがでかいから。

 

すると、まぁリスクとって凄いことやろうとするよりも、今までどおり堅実にやりましょう、となる。まぁここら辺は正直仕方がない。特定の顧客に依存しているのがSIerなので、一つの失敗が致命的になっちゃうからそうせざるを得ないんです。構造的に。

 

長くなってしまいましたが、まとめると、SIerにいると、開発者としてのスキルはほとんど上がらないんです。会社の中には技術を磨くキャリアパスも用意されているケースがほとんどですが、どんな仕事につけるかという偶然性に大きく左右されちゃいますし、「ITスペシャリスト」なんて肩書きが着いたとしても、我々がそうなる頃には本当の意味でスペシャルではないスペシャリストが量産されているだけでしょう。

 

「自主的に学ぶことで目指すことはできる」とか上の世代の人は言ってきますけど、自主的に学ぶための時間なんてものは与えられないですし、仕事が占める時間や検討の深さとは次元が異なるので、エセスペシャリスト止まりです。もしバリバリの技術志向の方がSIerに入るならそれなりの覚悟を持った方が良いでしょう。

国の借金のヤバさを自分の頭で考えてみる

突然だが、国の借金が現在どのくらいあるか知っているだろうか。私は正直2兆円ぐらいだと思っていた。しかしながらこれは無知丸出しの回答で、実際には昨年の時点で総額1000兆円を超えている。

www.nikkei.com

 

ただ、これを聞いてもあんまりピンとこない、すなわち自分にはあんまり関係ないのではと感じる人も多いのではないかと思う。実際、国がいくら借金を抱えていようと、私たちの生活には何ら問題はない。ただし、大きなリスクがあるということは理解しておいたほうがよいだろう。

 

そもそも、国の借金とはなんぞや?という話であるが、これは一般的に国債と呼ばれているものの総額であって、国民全員が抱えている負債額の合計値ではない。国債とは、国が何らかの政策を実施する上で、資金が足りない、あるいはお金が必要な時に、銀行などからお金を受け取る代わりとして発行する借用書のようなものである。

 

国債と引き換えに国は多額の資金を得ることができるのである。ただし、国債と言えども借金なので、金を貸してくれている金融機関には利息を払わなければならないし、元本の金額もいつかは返済しなければならない義務がある。逆に言うと、国債には投資的な側面もあり、個人投資家国債を購入することも多い。

 

もっと言えば、私たちも間接的には国債を借りていると言える。銀行へ預金したお金がそのまま国へ貸し付けられているからである。私たちから見れば銀行とはお金を預けておく場所でしかないが、銀行から見れば、私たちからお金を借りている状態なのだ。

 

以上をまとめると、国は、銀行とか個人から合計で1000兆円の借金をしている状態である、と言える。そして、それらを返済できる能力はないのである。仮に今国債を保持している全員が国債を換金しようとすると、国は財政破綻してしまうのだ。というぐらいにやばい状況なのである。

 

では、こんなやばい状況にもかかわらずあんまりやばくなさそうにできるのはなぜなのか、という点が引っかからないだろうか。その大きな理由の一つに国債発行の限度額が関係している。

 

例えば、私たちが個人として、プロ○スとかにお金を借りようとしても、いくらでも借りられるわけではない。その人の年収、すなわち返済能力に応じた上限額が定められているはずである。

 

この上限額の制約に伴って、複数の金融機関からお金を借りるのも困難である。最初に金融機関Aから100万借りる。金融機関Aの返済期限がきたら利息分含め金融機関Bから200万を借りる。金融機関Bの返済期限がきたら利息分含め金融機関Cから300万を・・・と続けていけば借金は増え続けるが、生活することはできる。この裏技を使えば一生働かずに暮らせるのではないか?と中学生ぐらいに思いつく人は私以外にもいるだろうが、上限額や審査の問題からこれはできない。

 

しかし、である。国債には上限額が存在しない。よって理論上はいくらでも借りられるのである。

 

また、複数の借入先からお金を借り続けるという上記の裏技も実行可能である。というよりも、ここ数年、数十年はこう言った裏技を使い続けているため、借金は増えているが、生活は特に困っていないように見えるのだ。

 

ただし、本当に際限がないわけでもない。日本国民全員が保持している個人資産総額を超えてしまった場合にはアウト、財政破綻である。ちなみに日本の個人総資産額は1700兆円だという。

 

他のリスクとしても、国民全員が一斉に預金を下ろすと財政に大打撃を与えることになる。実はすごくやばい状況である。そもそも、日本は毎年数十兆円の借金を増やし続けており、国を擬人的に捉えれば、借金の返済能力は皆無、審査なんて通るはずないぐらいにショボい。しかも利息もほとんど払わないという劣悪物件なのである。

 

しかしながら、何如せん国民の金融リテラシーが低すぎることや、過度な安定志向のお陰で、結果的に今時点では何ら問題にはなっていない。日本の借金のことをすごく問題視している人と、全く問題ではないと主張する人が二極化しているのもこのためである。

 

logmi.jp

 

麻生さんが言うように、国民の9割とかがおとなしく預金し続けていれば、すぐに財政破綻することはない。そこはギリシャとの圧倒的な違いだ。でも、国債の信頼度が高い理由は、さっき言ったように日本人がお金に対して無知で、安易に預金という選択をしがちなだけ。そういう意味では私たちは政府に騙されているのだ。そして、増税しても日本国の年収は毎年赤字、という事実を踏まえると個人としてどうするべきかは見えてくるだろう。

 

はっきり言って数十年後はみんなが預金し続けてくれても立ち行かなくなる時が来る。”今”はまだ崩壊間近ではないってだけで。そのことに気づいている人はそろそろ円を替えてるかもしれない・・・。

 

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ギャル男でもわかる政治の話

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