∑考=人

そして今日も考える。

どちらが勝ち組か

同じチームの中に15年目ぐらいの先輩がいる。その人は仕事は最低限だけこなし、プライベートを充実させるタイプの人である。役職も平社員の一つ上(今年度終わりに私に付く役職)であり、仕事の役割もリーダではなく、メンバに留まっている。仮にAさんとしておく。

 

片や同じ担当の課長に15年目の先輩がいる。極めて優秀な人らしく、最短コースで課長というポストまで上り詰めた人である。そのぐらいの年次になると、年功序列型の会社とは言え、ポストに大きな開きが出る、ということだろう。この課長はBさんとでもしておこう。

 

この二人が同期であることが判明してからは、BさんはこんなにすごいのにAさんは・・・と対照的に語られることがよくある。確かにBさんは仕事のほとんどを適当にこなしているように見えるし、はっきり言ってあまり一緒に仕事をしたいと思っている人は少ない。結果的にBさんは勝ち組、Aさんは負け組のように片づけられる。

 

でも、私はAさんの人生はとても充実していると思う。仕事の中で自己実現、みたいな感じではないし、あらゆるしがらみをもろともせず、自由奔放に振る舞っている。特に大きなプレッシャーにさらされることもなく、安定的に給料を稼いでいる。

 

仕事は最低限にこなす代わりに、趣味のフィールドでは、一流のプレイヤーとして今も全国的に活躍しているのだ。好きなことに対しては本気であり、周囲からも認められる存在なのである。

 

もちろん、社会的な地位やお金については、Bさんに比べて劣っているかもしれない。でも、Bさんがそれらを得るためにどれだけのものを犠牲にしてきたかを考えると、一概にどちらが勝ち組とは言えない気がする。

「はず」

「・・・であるはずだ。」英語ではmust。強めの推量を表す言葉である。断定ではないが、それに限りなく近い可能性で正しい場合に使う言葉だ。本来は。

 

ただ、ビジネスの現場で「はず」という言葉ほど当てにならないものはない。「レビューをしたから修正は要らないはず」とか、「既に試験はやっているからバグはないはず」みたいな表現を使う人は多いが、実際には問題が潜んでいることが多い。そして、問題の検知が遅れることも多々ある。

 

「はず」という言葉は乱用されがちである。というのも、「はず」というのは日本社会においては非常に便利な言葉なのだ。なぜなら、「〇〇なはずです」と報告をすれば、受け手に対してはさもそれが正しい情報のように伝えることができる一方で、発言をした方からすればあくまでも強い推量でしかない。つまり、間違っていたとしても嘘は言っていない、と責任逃れが可能なのだ。

 

「はず」という言葉を使うぐらいなら、事前に確証を取って断定表現を使うべきだ。もちろん、全てのことに対して自分で確証は取れないし、特にマネジメントをする立場からすれば、他人がやった作業全てを把握できるはずもない。

 

ただ、自分が確信できるまでチェックできていないことにより、「はず」という言葉が口から出てしまうのであれば、それは管理不届きでしかない。だから、私は他人が使う「はず」という言葉はあんまり信用しないようにしている。

 

かくいう私も最近は「はず」という言葉を使う頻度が増えてきているように思う。ついつい、「はず」という言葉を使ってしまっていないか、振り返る必要があるだろう。

この世で一番必要のないもの

この世で一番必要のないものと聞いて、私がパッと思いつくのは酒とタバコである。

 

私はお酒も飲むし、タバコも吸う。でもその上で、この二つは別に無くても困らないだろうと思っている。特に酒については一人の時はほとんど飲まないし、皆が飲まないなら飲まなくても平気だから、私にとってはタバコと同じくらいに不要である。

 

こんな風に「酒」と「タバコ」を並列で語ってしまうと、大抵反感を喰らう。Yahoo知恵袋で「タバコって何の役に立つんですか?」という質問に関しては、「何の役にも立ちません。」みたいな回答が多数を占めるのに対して、「酒って何の役に立つんですか?」という質問に対しては、ほとんどが否定的な回答だったりするのも結構面白い。

 

酒とタバコの善悪を明確に分けるロジックはほとんどの場合、健康に良いか悪いかによって語られる。酒は適量の場合は健康に良いという説があるが、タバコというのは1本吸った時点で、自分だけでなく周りの人の健康まで害してしまうからである。

 

でも、実際問題酒を健康に良いレベルで留めている人ってどのぐらいの割合なのか。少なくとも、私はお酒を飲む日は必ず適量以上飲んでいる自覚はあるし、男社会で生きてきた体感としては8割ぐらいの人が飲みすぎている。つまりお酒は健康に良いから良い、という説明は間違っていることになる。

 

それは適度に抑えられない人間が悪いのであって、お酒のせいではない、という人もいるかもしれない。ただ、お酒が生まれてから何百年何千年も経っているのにも人間が制御できないのであれば、それはもはや人間のせいにしている場合ではないだろう。アルコールにもタバコと同じように依存性があって、そもそも制御すること自体が難しいものなのだ。

 

ただ、お酒は周りの人の健康に被害は与えない、そういう意見も最もだろう。ただ、お酒が原因で周りの人に迷惑をかける人は沢山いる。それは小さなものから大きなものまで様々だ。タバコが与える影響はすべて微小量が積み重ねられていくのに対し、酒が与える影響は時にはいきなり人の死を招くレベルに発展する場合もある。これは種類の違いであって、どちらが良い悪いと押し並べて比較することはできない。

 

本質的にタバコは不要で、お酒は必要だと考えられてしまう原因は多数決の原理にある。だってお酒全く飲めないって人よりもお酒好きな人の方が多いでしょ。一方で、タバコを吸う人はタバコを吸わない人に比べて少ない。だから、論理性など関係なく、Yahoo知恵袋のような結果になるのは当然である。

 

お酒を飲めない人にとって社会というのは凄く生きづらい場所だ。皆が集まるコミュニケーションの場というのは必ずお酒が介入してくるし、お酒を飲んでいる相手と素面の自分ではテンションやノリが全く違う。気分を害したり疲れることの方が多い。かと言って飲み会を避けていると、人間関係はどんどん疎遠になっていき、仕事なんかでは最悪の場合、出世にも響くかもしれない。でも、子供の頃はお酒なんてなくても楽しいコミュニケーションが取れたのでは?と思っているに違いない。

 

タバコを吸わない人にとっての社会も同じことだろう。皆が集まると、必ずタバコを吸うやつがいるし、副流煙に晒され、当然健康を害されることになる。とは言え、集団を避けていると、人間関係は疎遠になる。タバコなんて吸わなくていいじゃんって思っていることだろう。

 

という風に、実は酒もタバコも本質的には何も変わらない。ただ、私がタバコよりもお酒の方が要らないと思うのは、酔っている時も翌日も全く人間として使い物にならなくて、生きている心地がしないからである。私にとって二日酔いの日は「死んでいる」のと同じ状態で、それはタバコが削っていく寿命と比べて、果たして少ないといえるのだろうか、と思うからだ。

異常者から見た世界

人間というのは社会の中で強制されていく生き物だ。ある組織の中に身を置くためには、その組織の価値観、考え方に自分を合わせていく必要がある。世間の常識からあまりにかけ離れた考え方・行動は納得されることはなく、相手の価値観で納得のいく理由が求められる。そういう権利があるものとされている。

 

普通は異常よりも偉いものとみなされる。例えば、30歳半ばまで恋愛経験がないとか、30歳半ばなのにアルバイトで生活しているとか。かと思えば、医学部の学生なら仕方ないとか、留年はダメだけど、浪人なら仕方ないとか。とは言え、3浪以上になるとやっぱりそれはやばい、みたいな。

 

世の中には「普通」という基準がどんな行動や考え方にもぼんやりと設定されていて、それに反するものは徹底的に理由を求められ、他人に干渉され、見下され、否定される。

 

私は結構昔から、他人(特に親)に自分の自由を侵害されないように生きてきた。勉強ができる人間であることをキープしていたのも、いい高校やいい大学にいるだけで、色んなノイズを減らすをことができるからだ。人は自分の能力に満たないと判断している人に対しては、偉そうにアドバイスをしたりと干渉してくるが、自分の理解を超えるものについてはほとんど介入してこないのである。

 

もちろん、全く干渉しないわけではない。人より優秀であるということも、普通に比べて異常であることと変わりはなく、その理由に土足で踏み込んでくる人は沢山いる。そして、皆が勝手に納得のいく理由を求め、納得できない理由は歓迎されない。

 

ただ、人に比べて無能だと判断されると、理由を聞かれた上で、こうした方がいい、こうするべきだと、聞いてもいない普通の価値観を押し付けられることになる。普通の人たちはこれを善意でやっているつもりなのだろうけど、相手からしたら迷惑でしかない。意図的にそういう異常な状態を選んでいる人だっているのだ。

 

でも、社会と繋がるためには普通でなければならないのである。ことのほか、民主主義のこの国では多数決が正しいからだ。

 

独創的なアイデアやカリスマ性が求められているというのは、机上の空論で、そんなものは日本では求められていない。真っ先に排除されるのがオチだ。リーダー不在を問題視しつつ、実はリーダーという異常な存在を忌み嫌っているのが日本人なのだ。 

 

最近のグローバル化の流れで多様な価値観がキーワードになっているが、多様な価値観だって、日本人の考える「普通」の価値観から大きくはみ出さない価値観でなければ多様性は認められない。外れすぎた人は全員から扱いづらい人のレッテルを貼られ、遠ざけられるのだ。 

 

本当に普通の人は、上記のような感覚を抱くことはないのかもしれないけれど、ミクロな場面では、自分が異常者側、ということもきっとあると思う。そんな異常者側から見たこの世のリアルがこの作品には表現されている。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

負債との向き合い方

近年の人々は刹那的に生きるようになったと思う。時代の変化が激しくなったこととも関係しているのかもしれない。何十年も先のことを考えるよりも、目先にある2、3年、あるいは今を大切にする生き方を志望する人が増えたのではないだろうか。

 

仕事をしていても思う。なんというか、「今の開発を乗り切ればいいんでしょ?」みたいな人が圧倒的大多数で、その後のことは後の人が頑張れば?みたいな感じに考えている。こんな設計にすると維持が大変になることはわかっているけれど、今大規模な修正が入るのは大変だから、今回は暫定対処としましょう、みたいな。

 

日本という国に生きていても思う。奨学金が、とか待機児童が、とか色々問題はあるのだけれど、それに対して施策をうつのであれば、お金がかかる。知っての通り、日本は借金大国だから、そんな財源はどこにもないのである。昔、ビートたけしがとあるCMで言っていたように、今日本が豊かに見えるのは将来の分を先に食いつぶしているだけなのだ。

 

なぜ、私たちがこんな風になったのかと言えば、たぶんそれは私たち自身がそうやって過去の負債を押し付けられてきたからだと思う。少し前に上がった消費税だって、本来私たちの世代が払っているのはおかしいし、年金を普通に払っているのに、将来はもらえないかも、なんてのもおかしい。

 

やっぱり仕事でもそういうことはよくある。なぜ過去の開発の時にこんなめちゃくちゃな設計にしているんだ、とか設計書に記載がないじゃないか、なぜソースがちゃんと管理されていないんだ、とか言い出すとキリがない。本来なら今回の仕事の範疇ではないはずの仕事が大量に潜在しているのだ。

 

しかし、国も仕事も過去が完璧であるはずがない、と思った方がいい。というよりも間違っていることの方が多いと言っても過言ではない。すなわち何かを始める時点で、既に一定量の負債を抱えているのである。

 

あくまで姿勢としては、過去の負債を背負いつつ、未来への負債をなるべく残さないようにしないと、いつまでたっても負の連鎖は断ち切れない。

ハイエナビジネス

 SIerの業績は何によって決まるのか。それは良質なシステムを作ることではない。画期的なサービスを生み出すことでもない。良い顧客を持つことである。良い顧客とは、彼らの事業性が高く収益が安定しており、かつITに対して積極的に投資をしてくれる顧客のことである。大規模な案件を受注できれば後はマージンを差っ引いた賃金で外注、委託するだけだ。

 

もちろん、設計やマネジメントを確実に遂行する必要はある。ただ、良い設計や良いマネジメントをすることが本質ではない。あくまで顧客の財布である。もし顧客毎で部署が分けられていれば、配属の時点である程度業績の評価は決まってしまう、ということである。やっていることは商社と同じなのかもしれない。

 

なぜこのような構図になってしまうのか。

 

1つは、今のSIerのほとんどが成果報酬型でない、すなわち、システム開発にかかる工数(労働力)でシステムの金額が定められていることにある。

 

つまり、出来上がったシステムに全く価値がなかったとしても、私たちはシステムを開発しました、という事実に対して報酬が支払われるシステムになっている。その代わりに開発後も一定期間は瑕疵担保責任を負うことにはなるが、それでもSIerにとっては非常に有り難い仕組みである。

 

もう一つは、出来上がったシステムが顧客の売上向上にどれだけ貢献したのかが十分にトレースされていない、ということである。システム開発が成果報酬にならない理由でもある。

 

とは言え、これはなかなか困難なことだと察する。例えば、店舗でしか商品を販売していない店が、オンラインショッピングサイトを構築した結果、売上が倍(元々の売上が一日あたり100万円だったのが、200万円)になったとしよう。

 

この場合、システムがもたらした価値は一日あたり100万円なので、そのうちの30%を報酬にするとすれば30万円である。ただその効果はいつまで続くかはわからない。数年後には効果がさらに増えるかもしれないし、半減してしまうかもしれない。

 

あるいは、たまたまサイト構築の時期に売上が上がった別の要因があったのかもしれない。オンラインで購入する人が増えた半面、リアルで購入する人は減っているのかもしれない。もちろん、O2Oという言葉があるようにどちらも増えているのかもしれない。こうなってくると、明確にシステムがもたらした価値を数値化するのは不可能である。

 

こんな背景もあり、なんとなく、業績は上がったし、次も投資しよう、ぐらいにしか考えていない企業は結構多いんじゃないだろうか。費用対効果を測るのが難しいために、単なる「効果」だけを見て投資している企業も多いと思う。「そもそも会社の体制の中に「システム部門」が存在しているために意味はなくてもシステムを作ろうとしている会社も結構あるんじゃないだろうか。」

 

結果的に、今業績の良い会社は事業性が低くても多額なIT投資をしてくれるし、逆に業績の悪い会社は事業性が高くてもあまりIT投資をしない。将来的な事業性は二の次なのだ。

 

我々はそういうお客さんのハイエナをして稼いでいる気がする。

カードシステムは統合した方がいい

私はポイントカードというシステムがあまり好きではない。シンプルでないからだ。財布が煩雑化するのが最も解せない。

 

元々、ポイントカードというのはマーケティング分野においてはかなり活気的な仕組みではあったのだろう。例えば、100円毎に1ポイントつく店があって、1ポイントが次回は1円になるとすれば、次もまたその店で買い物をすれば1円お得(還元率1%)ということになる。

 

数学的には、常に商品を1%引きの価格で販売していることと同じである。しかし、人間の心理として1円程度の金額であれば大したメリットは感じられないが、チリも積もればで普段から高額な買い物をしていればその分ポイントはまとまった額になるため、またその店で商品を購入する意欲が増す、という仕組みである。

 

また貯金と同じで、何かを買うために貯めるのではなく、ただただポイントを貯めることに満足する人達は一定数存在するため、ポイント5倍デーなどがあるとたちまち消費が促進される効果もあるのだ。

 

まぁ実際のところは、ポイントが5倍ついてお得感を感じているのかもしれないが、はっきり言って必要ないものを買わされていることが多い。明らかに損をしているのだ。セール品を買うことが得でないのと同様、ポイント5倍デーに買い物をするのが得とは限らないのである。

 

ちなみに話が逸れるが、ほとんどの場合高額の商品を購入する際にポイントを使うのではなく、安い商品を購入する際にポイントを利用する方が経済的にはお得である。なぜなら、高額な買い物をする時がもっともポイントが多く付与される一方で、ポイントを使って購入した場合にはポイントが付かないケースが多いからだ。

 

沢山ポイントを貯めてから高額な商品を購入するときにまとめて使うのを好む人が多いようだが、それははっきり言って無駄で、なるべく最小単位のポイントが溜まったらすぐに使うのが効率的なのである。私はZOZOTOWNなどで購入するときは毎回少額のポイントを使っている。

 

つらつらと述べてきたがポイントカードシステムがあった方が企業的にはプラスになるだろう。ただし、それは他の店、競合他社がポイントカードシステムを導入していない場合に限るのではないだろうか。

 

例えばコンビニなどでもローソンではPONTA、ファミマではTポイントカードなど、それぞれ別のポイントカードが存在している。なら、別にどちらのコンビニで買うかの決定打にはならないだろう。アパレルメーカーについても同様である。

 

また、せいぜい還元率は5%~10%の間に留まる。それ以上インセンティブを与えても、収益が上振れしない、と察する。そんなことのために財布を煩雑化させるのが私は嫌いなので、日常的に使う必要最低限のカードしか保持していないし、購入時にカードを作ることはあってもすぐに破棄する。

 

これは一枚のカードでは実現できないのだろうか。最近は、先ほど述べたようなPONTAやTカードもコンビニ以外でもポイントが使えることをウリにしたものが登場してきてはいるが、十分に統合はされていない。またまだ市場のパイを奪い合う戦略の延長線上にある。

 

全てのコンビニあるいはその他のショップで使えるポイントカードを1枚にすることはできないのだろうか。最悪ポイントシステム自体は店舗毎に別管理、でも良いと思う。要するにポイントシステムの統合プラットフォームのようなものがあれば、媒体は1つでいいんじゃないかと思うのである。

 

別の例として、化粧品メーカーのカードがある。化粧品メーカーでは化粧品を購入する際に、その人が今までどんな化粧品を使ってきたのか(使用履歴)、などの情報を保持するためのカードを発行している。

 

この化粧品メーカーのカードであるが、全く同じブランドであるにも関わらず、店舗毎にカードを作らなければならないのだ。男性には全く馴染みのない話だろうが、彼女の財布を覗いてみると同じ体裁のカードが数枚入っていることに気付くと思う。

 

これはポイントカード以上に訳が分からない。同じブランドであれば、店舗毎に客を奪い合う必要があるのだろうか。また、使用する化粧品も同一ブランドなので容易に識別可能に思えるのだが、現状そうはなっていないケースがほとんどなのである。化粧品メーカーは女性が主流だからITに疎いのだろうか、と勝手に思っている。(個別に管理されている理由を知っている人がいたら本当に教えてほしい。)

 

結論、今のカードシステムのほとんどは統合した方がわかりやすいってことです。

仕事へ行きたくない理由

大型の夏休みを頂き、地元に帰って旅行に行ってきた。明日からはこれまで通り仕事が始まる。

 

一般的に、休みの前日というのは凄く心が躍るものである。週末だけを楽しみに生きている人間もいることだろう。一方で、仕事が始まる前日というのは、憂鬱この上ないものだ。

 

ただ、私はあんまりこのような心理に納得はいっていない。仕事に行きたくないと思ってしまう理由は何なのだろう。

 

仕事は自分の意志とは無関係にやらなければならないものだからだろうか。仕事は辛く、面白くないものだからだろうか。

 

多くの人は仕事はつまらないもの、一方で休みは楽しいものだと思っている。休みは自分の自由に過ごすことができるから、なのだろう。ただ、私はあんまり休みの日が最高だ、と思ったことはない。仕事がやらなければならないものだというのなら、休みの日だってやらなければならないことは沢山ある。

 

それは、家事と呼ばれる仕事だ。男社会では「主婦」は職業として認識されないことも多いが、これは立派な職業だと私は思っている。人間が生きるためには、掃除、洗濯、料理、買い物、ありとあらゆるタスクで埋め尽くされているのだ。それは休日だって同じである。

 

仕事がつまらないもので構成されているから仕事へ行きたくないのなら、休みだって同じではないだろうか、と私は頭では思っている。なぜそういうものの辛さは表面化して語られないのだろうか。人が休みを語る時にはそういうタスクを抜いたほんの一部の時間のみを対象としているように思う。

 

私は長期休暇を取るときに、色んな地元の友人に会ったり、出かけたり、楽しい時間を過ごしてはいるが、新幹線に乗って移動する時間や、家族と同じ空間で過ごす時間など苦痛を伴う部分は結構ある。だから帰省するのが億劫になることも多い。(結局いつも帰るのだけれど。)

 

仕事がルーティン化されていて、つまらないものだと語る人は多いけれど、結局のところ、プライベートというものも年単位ではすっかりルーティン化されているように思う。もう社会人になってからの長期休暇の過ごし方どころか、季節ごとの楽しみ方も毎年同じだと言って差し支えない。仕事と休日のどこに差分があるのだろう。ようは単なる世間的なイメージに過ぎないのではないだろうか?なんて最近では思う。

 

究極的な違いはやはり人間関係しか残っていない。気の知れた友人と過ごすのが休日。僅かな繋がりだけでできている会社。確かにこの差は大きいだろう。もし会社が自分と仲の良い人間関係だけで成り立っているのなら仕事は楽しいのかもしれない。経験として、アルバイトの時はそういう感覚があったのも確かである。

 

あるいは、小学校とか中学校の時もそうだったに違いない。夏休みは楽しみではあったけれども、夏休みがもうすぐ終わることに対する楽しみもあったのではないだろうか。少なくとも私は、これでみんなに会えるな、という微かな期待があったように思う。

 

翻って、今はそんな期待がない。だからこそ、仕事へ行きたくないという感情に到達するのだ。会いたい人が沢山いればそこへ行きたいと思うのは真理である。

知らない人と交流するのはそんなに良いことなのか

今日は事業部全体の飲み会があった。一応補足しておくと、事業部とは複数の部署から構成される少し大きめの事業単位である。総勢100名程度が参加した。

 

この手の飲み会が私は非常に苦手である。一年目を境に基本的には参加しないスタンスだが、3回に1回ぐらいの頻度で参加するように心がけている。一応、可能性への投資、と自分に言い聞かせている。

 

私の課長はこの手の飲み会に参加することを結構推奨している。できるだけ偉い人と話して顔と名前くらいは覚えてもらうように、とよく言うものだ。でも、偉い人が飲み会を通して私を認知してくれることはないと思う。飲み会の場で記憶に残るほどインパクトのあることはしないし、別に偉いさんだって若手の顔を覚えよう、なんて気があるわけではないのだ。私も別に偉い人に気に入られよう、なんて全く思わない。

 

あと、こういう飲み会になると、「なるべく知らない人と交流しよう」みたいなスローガンが投げかけられることが多い。ただ、蓋を開けてみると、みんな同じ部署の人と固まってワイワイやるのである。こういうあたりはもう日本人の特性なのだろうなと思う。逆に、私はこういう機会こそ、同じ部署だけどそんなに話したことのない人と話すようにしている。海外に行く前にまず国内に行った方がいくべきでは、という考え方なのだ。

 

今は多様性が求められる時代ということもあり、自分の知らないことを教えてくれる人と語り合うのは”良いこと”として推奨される傾向があるけれども、結局飲み会の場で、互いの価値観などをぶつけ合うところまでは発展しない。アメリカ人みたいに「私はこの問題についてこう思ってるけど、君はどう?」みたいな発言をされても皆困ってしまう。

 

本当に異なる文化を学ぶのであれば、何か共通の、価値ある目標を掲げ取り組むみたいなことをしなければ、何の意味もない。少なくとも、この「知らない人と会話する」飲み会を今まで何度か参加してきたし、それなりに話してきたけど、結局その場限りの人間関係で終わり、またその会話から何も学ぶことはない、というのが私の中での結論である。

 

だから、もうそんなに知らない人との交流を重要視する必要はないんじゃないかなと思う。どうでもいい人のどうでもいい側面を知って何になるのか。もちろん、それを面白いと思える人はどんどん参加すればいい。でもそういう催しを崇拝なものとか価値あるものとして位置づけるのは頂けない。何も学ぶものがないのであれば、せめて気の知れた人と話している方がよっぽど良い。

質問とは投資である

学生の頃に出題される問題とは違って、社会人の仕事には正解がない、とよく言われる。これは半分真実であって、半分は嘘だ。仕事の中には正解がないものと正解があるものがある。仕事の中にも必ず”事実”と”解釈”、”過去”と”未来”があるのだ。もちろん、最終的に完成する仕事レベルの単位ではもはや正解はないのかもしれない。しかし、仕事を形にするまでに集める情報とかそんな類のものについては常に正しい答えがある。

 

答えのない問いに答えるためには確実なもの、すなわち事実をよりどころにするのが最も良い。大抵のイノベーションとかも、不特定多数の事実をかき集め、そこから帰納的に導き出される抽象的な推論を出し、何をすればよいのかという仮説を立てるところから始まる。つまり、事実がわからなければお話しにならない。

 

というわけで、事実を知っていることはとても大切である。今の時代であれば、単なる情報収集はググれば済むと思うかもしれないが、会社内に閉じたような情報だと自分で調べるのはかなり骨が折れる作業であり、非常に非効率だ。できる限りは避けたい。

 

そうなると、最も良いのは、知っていそうな人に聞く、ということである。これが一番楽である。私は基本的にわからないことがあっても自分で何とかしたいタイプであるが、さすがに既知の答えを探すことに大量の時間をかけるのはやはり非効率なので、最近は人に聞くようにしている。

 

ただ私が他人に聞くのは、答えのある問題に対する回答のみである。つまり質問だ。やり方がわからなくてどうすればいいですか、という相談はほとんどしなくなった。数学でもそうだが、物事のやり方とかには正解がないことが多く、自分で考えた方が良いと結論づけているからである。

 

しかしながら、答えを聞いているにも関わらず、答えに至るまでの方法論を教えてくれる人が少なくない。これは相手が優秀で、ありがたい話なのだけれど、いやいやその方法は自分知ってますとか、あなたが回答してくれなければもともとそうするつもりでした、みたいに思うことが少なくない。

 

相手は当然親切で答えてくれているのかもしれないが、私からすれば、質問をした時間が無駄になっただけ、ということになる。私はすぐに答えを手に入れるために質問をしたのだから。さらに言えば、実際のところ、「あの人は質問に答えられなかった」と思われないように無理やり苦し紛れの回答をしてしまうケースの方が圧倒的に多いと思う。

 

ただまぁ私は最低限の概要を自分で調べたら、詳しい人に聞くようにしている。そして、どんな回答が来てもありがたく受け入れる。それは質問とは一種の投資、ギャンブルだと考えているからだ。

 

例えば、パチンコ台Aに1000円入れれば、それがなくなってしまうかもしれないし、10000円になるかもしれない。どうせ1000円入れても無駄でしょ、と思えば決して10000円になることはない。

 

質問も全く同じだ。ただし、質問の場合リターンはお金ではなく時間として帰ってくる。Aさんに聞けば長々と知っている情報を教えられたのち、自分で1時間調べなければならないかもしれないが、3秒で即答してくれるかもしれない。どうせ、答えは知らないんでしょ、と思えば決して3秒でわかることはない。

 

ただし、質問の良いところはギャンブルとは違って、質問をすればするほど精度を上げることができることだ。Aさんにこの質問がわかるかどうかの見極めがつくようになってくれば必要最小限だけ頼ればいい。そもそも、他人なんてほとんど当てにはならないというのが私の見解だけれども。

説教おじさんとゆとり世代

つい最近、後輩の女子に結構ガチな感じで不満を言われました笑。なんていうか、こんなにストレートに文句を言われるのは久しぶりだったので、唖然としてしまいましたね。たぶん先輩たちもいい気味だと思っていたことでしょう。文句の内容としてはよく昔の彼女とかにも言われてた「偉そう」とかそういう類の話ですね。合ってます。残念ながらそういう性格は治りませんけど、と思いながら一応謝っておきました。

 

一言でいうと、私に説教おじさんっぽいところがある、のが気に入らないんだろうな、と解釈しました。確かに、こうやってブログとかで自分の考え方を披露したりするのも、これが正しいと自分なりに思っているものを全体に発信する意味合いもあるわけです。ただ、知人が見れるところにそういうことを書くと、鬱陶しいやつになってしまうからこういう形で書いているだけであって。

 

というわけで、リアルの場ではあんまり説教とかは言わないようにしてはいるんですけど、気にかけている人に対しては質問に対して単なる回答を添えるだけではなく、「もっとこうしたらいいのに」と思ってアドバイス的なことをしてしまう時があるんですよ。

 

でも、そんなことは求めていない、というのが後輩女子の気持ちだそうです。これが本物のゆとり世代か、とか思いましたけど、女性なら普通にありがちな考え方でしょうね。女性って不満とか悩みがあってもそれを解決しようとは思わないじゃないすか。これは男性の、というか私の理解を凌駕しますね。

 

結局、女性にとっては悩みとか不満はアクセサリーみたいなもんで、常に身に着けていたいものなんでしょう。今回の件で私が反省しないといけないのは、後輩である前に女性であることを軽視していたことですね。

 

とは言え女性に限らず、ゆとり世代はおっさん達の飲み会に行きたがらないという話もよく聞きます。これも理由としてはおっさんの説教なんて聞きたくねーよ、ということらしいです。

 

昔の人たちって、そういう飲み会での説教が役に立つときもある、とか言うじゃないですか。まずは飲み会に参加してから判断しろ、みたいな。でも若者からすると、別にそんなん求めてないですー、ってなる。結局折り合いはつきません。

 

これって、もうおじさんとゆとり世代の価値観の違いが如実に表れてますよね。そもそもおっさん達の頃は、仕事で出世して高い車をもって良い家に住みたい、みたいな夢を持っている人が多かったわけですよ。つまり外発的モチベーションとは言え、仕事に対する向上心があった。

 

でも、今のゆとり世代は、結構今の生活(主にプライベート)に満足している人が多いんです。仕事を最低限の労力でこなし、プライベートを充実させる。プライベートを充実させるために今大したスキルは必要ないですし、表面的な友達であれば簡単に増やせる時代です。だから特に今より良くなろうという気持ちがない。今のままでいいと思っている。よっておっさんのアドバイスは響かないんです。おじさんはそこらへんを理解した方がいいのでしょう。ちなみに、私は純粋に仕事できるようになりたいのでおっさんの説教は割と好きですけど。

 

対するゆとり世代の志向も結構危ういですよね。彼らが言う「今のまま」とは、自らはほとんど価値を生み出さず、別の人が生み出した価値に便乗して生活している状態だからです。例えば、給料額だって、本来自分で稼いだ分じゃないんじゃないですか。一般的な会社では、給料の3倍額の利益を出して初めて本来の給与額を貰うに値すると言われますよね。

 

つまり、給料の3倍額を稼ぎ続ける力があって初めて今の生活を維持することができるってことです。「今のまま」というのは自分が他人に助けてもらってる状態なのです。「今のまま」を続けることができるのは、会社にいる他の人が凄く稼いでいるからであって、その資本を投資という名目で、若者に分配してくれているだけなのです。そんな「今のまま」が一生続くと思いますか。

 

たぶん、続けられないだろう、ということは理解していると思います。だからこそ、今の若者は不満はないけど不安はあるという人が半数を超えるそうです。でも、将来どうなるかわからないし、今やりたいように生きよう、ということなんでしょうね。でも、まぁ私は向上心はあった方がいいなと思います。じゃないと、結局彼らが困っちゃいますしね。

 

 

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会社からの評価なんてどうでもいい、と思っている人に

最近の人はどうも、出世欲というものがあんまりないらしい。その結果、会社からの評価もほとんど気にしない、という人が多い。特に成果主義ではなく固定給をもらっている会社だとなおさらだろう。出世のための絶対条件は会社から評価されることであるのは今も昔も変わらないが、出世に興味がないなら高い評価をもらう必要もない。当然と言えば当然だ。

 

私もどちらかと言えば、会社からの評価なんてどうでもいいと思っている。ただし、必要以上に媚びへつらったりしない、というだけだ。無理に飲み会に参加したり、人間性だけを売りにしない、ということだ。他にもあんまり直接的な業務に関係ない仕事に対して全力は尽くさない、ということだ。

 

評価されなくてもいいが、スキルアップはしたいと思っている。それはスキルアップをした方ができることが増えるからだ。わからなくて困ったりすることも減るし、いいアイデアが浮かんだりもする。何より、何もわからずにやっているよりもわかってやっている方が楽しい。これはこの世の真理だ。

 

なので、別に評価もされたくないし成長もしたくないと思っている人はこの記事を読んでも参考にはならない。そのまま窓際族として生きていけることを祈っている。逆に、自分が成長することと、会社から評価されることは別ものだと思っている人にはぜひ伝えておきたい。

 

会社に評価されるといいことはある。評価されても高い報酬をもらえるないかもしれないが、評価が高いほど自由になれる。これは私が今まで見てきたどんな組織でも同じだった。

 

まず、自分の仕事を一々監視されなくなる。新人の頃は事前にわかりにくい説明をだらだらされて、実際にやってみてわからないことがあったら適宜問題がないか確認して、実際に仕事が完了したら確認してもらう、みたいなプロセスを踏まなければならない。

 

しかし、評価がついてくると、「あいつならほっといても大丈夫だろう」と思ってもらえる。すると、仕事の進め方、それに割く稼働もろもろを自分の裁量で決められる。モノによっては一々成果物もチェックされない。これは非常に楽である。

 

発言や質問のハードルも下がる。例えば、誰からも評価されていない時に、簡単な質問をすると、「そんなことも理解できないのか」などと思われそうな不安に駆られる人も多いだろう。しかし、周りの評価がついていれば、「むしろ自分の説明が悪かったのか」と相手に思ってもらえる可能性が高くなる。結果的に自分の意見を組織に反映させやすくなる。

 

他にも、意思決定の前の相談を受ける機会が増える。新人の頃は意思決定の場にすら呼んでもらえない、決まったことすら明確には教えてもらえない、なんてこともザラにあったが、内容共有に加えこちらの意見を求められるようになる。これも自分の意見を組織に反映させやすくなる。どれも会社の中での自由度に繋がっていく。報酬なんかはオプションに過ぎない。

 

こうやって考えてみると、悔しいが評価されることは結構大切である、と言える。とは言え、会社からの評価に興味を一切持てない人もいるだろう。でも、そんな人でも会社から評価される方法がある。それは、自分の一番近くで仕事をしている人、かつあなたが評価している人に評価してもらうことだ。

 

一番近くというのは、席が隣、とかではない。あなたと同じくらいの年次であなたと似たような仕事をしている人である。

 

自分より遠い人、例えば課長とか部長になると、はっきり言ってあなたの仕事ぶりを見せることはできない。どんなに良い仕事をしていたとしても伝わらないのである。だから、課長や部長に好かれている若手というのは決まって、仕事ができるよりも人間性とかノリの良さが決め手になっている。(もちろん、そういう生き方もある。)

 

ただ、あなたの近くにいる人はどうか。その人が優秀であればあるほど、昔の自分と比べた時に今のあなた(のスピードや品質)がどうなのか、あるいは今の自分に比べて今のあなたがどうなのか、もっと純粋に一緒に仕事をして助かっているのかどうか、がわかる。立場が近いと仕事の粒度も近いので、正確に評価することができる。

 

もちろん、それをしくじり続けると、評価はされない。ただし、それは成果が伴っていないために評価されていないだけである。下されるべくして下される悪評だ。頑張って成長していくしかない。

 

もう一つの条件が、あなたが評価している人物であるということだ。第一にこれがないと、その人物に評価してもらおうというモチベーションが持続しない。その人を助けようという気持ちが生まれない。(あまりに評価が低く、逆に助けてあげないと・・・となるパターンはあるにはあるが。。。)

 

そして、あなたの目利きにもかかっているが、こちらが凄いと感じる人は大抵会社から高い評価を得ている。すると、どうなるか。

 

あなたは”会社から評価されている人”に評価されている人、ということになる。これは間接的に会社から評価されていることに他ならない。どういうルートで情報が流れているのかは定かではないが、特定の一人に高く評価されているだけでも、会社全体の認識というのは時間とともに大きく変わっていくらしい。

 

セオリーとしては、色んな人に対してアピールをしていくべきなのかもしれない。実際、私も課長から「(私の)アピールが足りないことにより、周りが(私の)能力を理解するまでの時間が無駄になっている」というコメントをもらったこともある。

 

でも、そういうのが苦手な人は、特定の人からの評価のみに着目するやり方もアリなんじゃないだろうか。少なくとも私は今までそうやってきたし、これからもそうやって生きていくと思う。

ポケモンGOが流行るってどうかしてるぜ

ポケモンGOの人気がすごいっすね。任天堂やるやんけ!って感じです。個人的にはあんまり魅力を感じないですけどね。もちろん、VRがどんな感じなのかっていう興味があります。VR技術によって、より自分が主人公になりきることが可能になった点が良いのかもしれませんね。ただゲーム自体の仕組みとしてはパズドラとかと変わらない印象です。

 

というかスマホが普及がしてからというものやっぱりゲーム業界の勢いはすごいものがあります。私は一週間ぐらいで飽きてしまったパズドラとかも、まだユーザDL数は意外にも伸びてるんですね。

 

一番の理由はターゲットとなる顧客層が圧倒的に多いことでしょう。昔の大人なら、「大人がゲームやってるとか恥ずかしい」みたいな感情を持ってたと思うんですけどね。だから9割以上の子供がゲームをやっていたとしても、市場としてはまだ未熟だった。

 

しかし、今ではいい年したおっさんがゲームやってるとか当たり前ですね。これはもちろんスマホが爆発的に普及したからで、昔で言えば一人が一台以上ゲームボーイ持ってる状況になってるんです。なおかつ、ソフトが無料で手に入る状況であれば、ユーザが増えるのは当然といえば当然です。

 

とは言え、みんな本当によく飽きないよね。相当暇なんだろうね。私も色んなスマホアプリやりますけど、ほとんど一週間ぐらいで飽きて、しばらくしたらまた別のアプリを探す、みたいなことをやってます。お前も立派なユーザじゃねえか、って話ですが。笑

 

まぁすでにネット上ではポケモンGOに飽きた、みたいな記事が登場してきてます。やぱりゲーム性自体はシンプルかつ王道っぽいので。ただ、個人的にはたぶんまだまだユーザ数は伸びていくと思います。もちろん、別の影響(スマホ歩き等による事故発生とか)で伸び悩む可能性はほんの少しだけあるかもしれませんね。

 

やっぱり私は昔のゲームみたいに全面クリアができるものがいいと思う。ゴールが明確でないと続けられない。今の課金型のゲームは割の良いビジネスなのかもしれないけど、そういうユーザがいることをゲーム業界の人は理解してほしいなぁと思う。

広告を消すのにお金がかかる時代のサービス

スマホの無料ゲームアプリなんかをやっていると、必ず広告が表示される。それは常に画面上のどこかに表示されていたり、ある場面でボタンを押した瞬間に広告用の画面に切り替わったり、中にはいきなり動画がスタートするものもある。

 

特に小規模の会社や個人が制作しているものだと、それが鬱陶しい人のためにと、ちゃっかり”広告無し版”が数百円ぐらいで用意されていることが多い。未だにゲームアプリ業界がこういうビジネスのやり方をしているところを見ると、あんまり業界の未来としては明るくないように思う。参入障壁の低さから市場規模が上がっているように見えてるだけなんじゃないだろうか。

 

ともかく、昔であれば、広告などによって自分の知らない情報が手に入ることはありがたいことでもあったはずだ。しかしながら最近では、情報がないということはほとんどなく、適切な情報を見つけることが難しいほどに情報が世界に溢れている。

 

そんな世の中では、むしろ余計な情報をいかにそぎ落とすことができるか、に価値が置かれるようになったということだ。アマゾンのおすすめ商品も、見方を変えれば”おすすめでない”商品をそぎ落とした結果だと言える。

 

実際、私も余計な情報をそぎ落としたいと思うことがある。一番の例は郵便ポストに無造作に入れられるチラシだ。一週間も放置しておくと、パンパンになってしまっている。いつも全部まとめて捨ててしまいたい衝動に駆られるが、中には大切な書類も含まれているので、捨てるわけにはいけない。結局、全てのチラシに目を通して一つ一つ選別していくしかない。これは人生において3番目くらいに無価値な時間だと本気で思う。

 

これは、ちょっとしたビジネスチャンスだと私は思っている。少なくとも、ポストにチラシが入れられて迷惑だと感じている人はたくさんいるはずだ。しかし実際には、個人が「チラシお断り」の貼り紙をするぐらいの対策しか施されていないのが現状である。

 

また、ITの世界では迷惑メールのフィルタリング機能など、十分ではないにせよ当たり前に実装されている。一方で、物理世界の郵便ポストでは何の制御も行われていない。これは奇妙だと思わないだろうか。

 

もちろん、今の技術では難しいのかもしれない。今の家に付いているごく普通の郵便受けでそんな制御ができるはずもない。そもそも、郵便ポストが自動で必要な書類だけを選別するためのスキーム自体が存在しない。

 

しかし、ここにITの要素が加えれば、やってできないことはないと思う。例えば今の技術レベルでも、郵便ポストの投入口にスキャナを搭載すれば、文字列あるいは画像を認識するまでは実現可能だ。

 

郵便ポスト自体が住所に紐づくIPアドレスを持ち、その住所に紐づく家主のメールアドレスを記憶しておけば、スキャンした瞬間に画像を添付して通知を送ることもできる。あるいはWebインタフェースで郵便ポストに直接アクセスして、今そのポストに入っている書類一覧を画像として確認できる、でも良い。「あー今あるものは全部要らないから一気に捨てよ」みたいなことは可能だ。

 

もっと技術レベルを上げて、例えばAIが組み込まれれば、文字列や画像の中から家主にとって重要度の高いものと低いものに選別し、重要度の低いものについては処分することもできるようになる可能性だってある。外から家電を操作できるスマートハウスよりも個人的にはいいと思う。

 

まぁそもそも、昭和の価値観で生きてる企業が広告での営業活動をやめてくれれば済むんだが。

品質水準とは何ぞや

今日は仕事をほっぽり出して、品質管理の研修に行ってきましたので、簡単にその内容でもまとめておきます。やっぱりソフトウェアなんてちゃんと動いてナンボのもんですからね。品質をいかに担保して、担保するために何をすべきなのか、というのは一つの学問になっているくらいです。

 

さて、そもそもソフトウェアにおける品質とは何なのか。品質というと、電化製品みたいな目に見えるモノに対して言いますよね。普段の生活の中で私たちは「日本の製品は品質が良い」みたいな言葉を安直に使っていますが、それって一体どういう時に使われるんでしょうか。

 

携帯電話を例にとって考えてみますかね。単純に形が整っていることについて品質が良いという人もいれば、カメラが綺麗な(解像度が高い)ことに対して品質が良いと考える人もいるでしょう。逆にiPhoneなんかだと、落とすとすぐ画面にヒビが入ってしまうことに対して品質が悪いと考える人もいると思います。こうやって列挙してみると、幅広い意味合いで使われている言葉です。

 

ソフトウェアの場合は、(お客さんの)要求事項を満たしていることが品質が良いと定義されています。おそらく、一般的な製品についても同等のことが言えるのでしょう。ISO9000という国際規格で定められています。

 

つまり、iPhoneの画面がすぐ割れること=品質が悪いということではなく、iPhoneという製品に求められる要求事項として、「高度1mから落としても操作に支障をきたす障害が発生しないこと」というものが含まれていなければ、別に品質上問題はない、ということになるのです。

 

ソフトウェアの場合では、例えば、中に記述されているソースコードが凄く読みにくかったり、無駄なソースが含まれていたら品質が悪そうな印象を受けますが、そのソフトウェアが提供するサービスがお客さんに求められた要求を満たしているとすれば品質の良いソフトウェアとなります。(厳密にはユーザ目線の品質と開発者目線の品質があるのですが、ユーザ目線の品質が良ければOK的な風潮があります。)

 

要するに”品質”という言葉は、あるべき姿(=要求事項)が定義された上でしか、意味を持たない言葉になっています。

 

さて。この品質ですが、どうやって実現していくのかが大切になってきます。入念に作れば良いという単純な話ではないんですね。ソフトにしてもハードにしても大体が実際に使ってみないとどうなっているかわかりません。設計なんて所詮想定でしかないですから。

 

なので、現場では実際に作ったものを動かしてみて検証します。いわゆる試験ですね。どんな仕事でもそうでしょう。

 

ソフトウェアの試験というのは実は結構大変です。ぶっちゃけシステムを作る以上に労力を必要とします。しばしば、見積額がとんでもない額になってしまうのも、試験工程にかかる工数が多分に含まれているからです。

 

また、システム開発において基本的に完璧な試験というのはできません。特に仕様ベースのブラックボックス試験などにおいては、規模が大きくなりがちで、全て条件の組み合わせパターンを試験することは不可能である場合がほとんどです。

 

なので、代表的なものだけを選ぶ、という方法に走らざるを得ないのですが、闇雲に代表的なものを抽出していくと、結局試験項目の数は膨大になってしまいます。そういうわけで、どんなプロジェクトにも”品質水準”という基準値が設けられています。

 

品質水準はザックリ言えば、「このぐらいの試験やっとけばええんちゃう?」「こんぐらいバグが出ればええんちゃう?」という値です。具体的には、ソースコードのStep数と、過去の類似プロジェクトの実績値から算出されます。

 

この品質水準値は、品質の妥当性を判断するため、すなわち品質管理のために用います。仮に、試験を100個やって、バグが10個ぐらい出ればいい、と予め決められていたとしましょう。

 

例えば、期間が足りず試験が50個しかできなかったら品質はちょっと悪いかもしれないな、と予想することができます。あるいは、試験を100個やったらバグが50個出た、となっても品質は悪いかもしれないと類推することができます。

 

では、100個試験をやってもバグが1つも出なかったらどうでしょう。この場合なら品質は凄く良い、と考えられそうなものですが、実は全く逆です。そもそも実施した試験の網羅性や観点が十分ではないと判断されることが多いです。

 

もちろん、実際に品質が良い場合もありますが、一般的には事前に設けられた品質水準値±数%の範囲内に収まっていないと何か問題があると判断します。ただ、品質水準値に収まっていても、品質が悪い場合もあります。。。

 

さらに言えば、品質水準値そのものがプロジェクト特性の違いなどによって妥当ではない場合もあります。みんなが口を揃えて、「あくまで目安だから」と言います。。。

 

なら、品質水準値とかいらなくね?

 

私はいつもそんなことを思っています。まぁこれは可監査性のための評価軸としてのみ有効です。

 

簡単な定量評価に頼らず、バグはしっかり定性的に分析しましょう。

 

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