∑考=人

そして今日も考える。

備忘録的プレゼンの極意

プレゼンの極意。それは相手の完全な理解を諦めることだ。つまりは自分の伝えたいこと全てのうちで、何を伝えるのか選択することである。

 

プレゼンの資料を作る際には、一つのスライドには一つのメッセージしか入れないようにする、という鉄則があるが、これも本質的には「何を伝えるのか選択すること」と同義である。ただし、一つのスライドに一つのメッセージであれば何でもOK、ではない

 

よく、パワポ資料のRvなどの際に、「このスライドでは言いたい事が何なのかわからないから、二つに分けたほうが良いんじゃない?」的な指摘が上がる時がある。おそらく、ワンスライドワンメッセージの鉄則を皆叩き込まれているからだと察するが、これさえ守ればよりベターな資料になるだけであって、万事OKとはいかないのだ。

 

まず、この手の指摘に従って、一つ一つの資料をシンプルに分割していくと、資料のページ数が膨大になっていく。資料数が多いことを問題視しない人は多いが、そもそも発表の時間に応じたスライドの枚数は概ね決まっていると私は思う。(個人的には分の1.5倍〜2倍ページ分ぐらいが適切、10分なら最大でも20枚には収めるべきだと考えている。)ただでさえ情報量の多いスライドを早口で説明されても人間の脳は処理できない。

 

そして、資料が膨大になってしまう人の特徴は、結局何が言いたいのかを十分に削ぎ落としきれていない。これが全てを伝えようとしてしまっているということである。

 

例えば、自分が携わったシステム開発の成功プロジェクトについて発表するとしよう。プロジェクト自体について詳細に紹介したい人もいるだろうし、プロジェクトを成功に導いたチームの能力をアピールしたい人もいるはずだ。あるいは、開発したシステムそのものの凄さを訴求したい人だっている。

 

でも、これら全部を話そうとすれば、浅い部分を掻い摘んで説明することになるか、膨大な資料を早口で説明することになるかのどちらかのパターンになる。いずれにせよ、プレゼン全体としてよく分からない印象になるだろう。よって、プレゼン資料全体としての伝えたいメッセージがシンプルでなければならない

 

じゃあ、初めから伝えたいテーマを小さく絞り込んで資料を作りこめば良いのでは?と思う人もいるかもしれない。10分のプレゼンなら初めから小範囲のテーマで15枚のスライドを作れば良いのでは、と。

 

確かにプレゼンがプレゼンだけで終わるのならばそれでもいいのかもしれない。ただ、プレゼンには質疑応答がつきものだ。聴衆からの質問は未知の世界、なのでやはり初めはあえて範囲を狭く絞らず発表内容を検討しておくべきだと思う。できることなら一度資料として作っておくことが望ましい。

 

発表に関係のない部分でも一度資料化・可視化しておくと、頭の中は結構整理されるもので、ゼロの状態で答えるよりもはるかに説明がしやすい。また、参考資料という形で残しておくこともできる。

 

また、複数の発表案から一つをテーマとして決めるためには、そこに合理的あるいは感情的な理由が必ず存在する。だからこそ自分に納得感のある発表になり、結果として質の良いものができる。これが「何を伝えたいのかを”選択する”」ことのもう一つの意味である。

 

プレゼンの極意なんて大それたタイトルをつけたけれど、この文章は果たしてわかりやすく書けているんだろうか。。。

煩雑さを求めたりシンプルさを求めたり

「Webブラウザ」が無くなろうとしている。もちろん、私はプライベートでもバリバリPCを使っているので、ブラウザを使わない日はない。PCユーザーにとってはまだまだWebブラウザは重要なものである。

 

しかし、若い世代、スマホユーザにとってはどうだろうか。

 

もう少し前であれば、スマホからGoogleのトップ画面を開き、そこに文字列を入力して検索、そして目的のWebサイトに到達する、という流れが主流だったと思う。Google検索エンジンがあらゆるWebサイトとのインタフェースであったのだ。

 

でも、今は違う。例えばスマホFacebookを見たいと思ったときどうするか。Googleを開いて、「Facebook」で検索?もうそんなことをする人はいない。スマホにインストールされているFacebookのアプリを開くだけである。

 

今はあらゆるWebサイトの提供側が、そこに直通するアプリを開発している。Webサイトごとに入口となるアプリを自分のスマホの中から見つけ出さなければならずに煩雑であるはずなのだが、なぜか今はこの流れが主流である。Webサイトごとに異なるアドレスを直接入力するのが煩雑だったからブラウザという仕組みが生まれたはずなのだが。

 

この現象が示唆するところは二つある。

 

一つは、所持しているアプリがその人の個性を表す象徴となりつつあること。つまりはファッション化しているのだ。

 

例えば、洋服ももともとは、暑さや寒さを凌ぐためのものでしかなかったが、現代では完全にファッションとしての側面の方が大きい。言い方を変えれば、無くても別に困らないものがほとんどなのだ。

 

スマホのアプリも無くても困らないものになっている。別にFacebookInstagram食べログホットペッパーもブラウザ経由で閲覧することはできる。でも、そういう色んなサービスをアプリとして保持していることによる喜びのようなものを人々は少なからず感じているんじゃないかと思う。

 

もう一つは、またこの煩雑を取り払うための機能が今後求められる可能性が高いことだ。今のように、一つのサービス毎にアプリをインストールしなければならなくなると、すぐに目的のサービスに行き着くことがやがて困難になる。

 

こうなると、昔のブラウザに該当するサービスが必要になることは間違いない。ここらへんは音声認識機能の進化に期待がかかることだ。実のところ、既にアプリの名前を伝えれば対象のアプリを探すことなく起動することはできる。でも今はまだあんまり使われてないんじゃないか。

 

こうやって、時代によって煩雑さを求めたり、シンプルさを求めたり、真逆の方向に向かっていくさまはなんか面白いなーと思う。

ゴールが見えたプロジェクト

仕事というのは2種類に分別される。一つはルーティンワークと呼ばれるもの。接客業とか販売業がそれにあたる。毎日毎日同じ仕事をひたすら続けるのだ。彼らは、小さな価値を毎日多くの人に届け、それらをひたすら積み重ねていく。

 

もう一つがプロジェクトである。プロジェクトの場合は限られた期間内に価値あるものを完成させ提供する仕事だ。時期によって仕事内容も変わる。プロジェクトの場合、1日だけの仕事には何の価値もない。ただ次の仕事に繋がるだけだ。そして、最終的に出来上がった完成品のみに本当の価値がある。

 

ルーティンワークには終わりがない。ルーティンワークが終わるのは、会社が潰れた時か自分が会社を去る時だけだ。変化のないルーティンワークをつまらないと感じる人もいるかもしれない。でも、ずっと今を続けていけることに安定や安心を感じる人もいると思う。

 

一方、プロジェクトには終わりがある。終わりのある仕事を「プロジェクト」と定義していると言ってもいい。会社が生き残っていようと、自分がそのプロジェクトにしがみつこうとしても、いつかプロジェクトは必ず終わる。プロジェクトには必ず期限があり、期限内に目的を達成しても達成できなくてもそこで終わりなのだ。

 

プロジェクトは変化があって面白い。一時的には退屈することもあるけれど、基本的に飽きることはない。予定調和な答えが導かれることも多いけれど、頭を使って最適解を考える機会もある。でも、プロジェクトは一時的なものでしかないから、期限が来れば何もかも変わってしまう不安定な仕事だ。儚さもある。

 

私のプロジェクトは終わらなかった。詳細設計まで完了したら、外部仕様が誤っていて、やり直し。期間が延びた。二回目の設計では別の機能追加も同時開発することになり、規模が拡大、当然また期間が延びた。

 

やっと迎えた試験工程真っ只中、お客さんの事業方針の変更により、今度は提携会社を変えることになった。さらに規模は拡大し、今度は要件定義からやり直すことになった。そして3度目の設計着手中、プロジェクトの中止指令が下ったのだった。ドストエフスキーの穴掘り拷問を受けている気分だった。クロージングを勧める中、途中で追加した機能追加分だけは継続して開発することが決まり、今に至る。

 

そんな激動のプロジェクト、初のプロジェクトも漸く終わりが見えてきた。

 

何かが終わる時、いつも嬉しさと寂しさの入り混じった複雑な気持ちになる。バスケ部の引退試合の直前とか、大学受験とか、あるいは大学院の修士論文提出、とか。やっとこのしんどい日々から解放される!という気持ちとは裏腹に、もう今までみたいなことはできないのか…という気持ち。

 

なんというか、1つの目標のために長期間努力をしていると、その努力自体に愛着が沸いてしまうからだろうか。あるいは、何かが終わる時は、大抵周辺の人間関係も変わってしまうからかもしれない。周りにいる人と「その後」の話をすると、「終わり」がより鮮明に浮かび上がる。

 

プロジェクトが終われば今のチームは解散になる。もちろん、追加の機能開発などがあれば継続して同じチームで開発をする場合も十分にあるが、今回はそれもない。また一緒に働きたいと思う人たちは既に異動が決まっている。

 

かくいう私も、別のプロジェクトにアサインされることになった。たぶん、これまでやってきたことのほとんどは役に立たない。0からのスタートになると思う。でも、少しは技術的な仕事に就けそうなので、その点については満足している。幸い、部署は変わらないため、評価がすべてリセットされることはないが、残念なことに相変わらず社会的意義は感じにくいかもしれない。

 

と、もう頭の中は少し未来のことを考えてしまっているがまだ今のプロジェクトが終わったわけではない。問題もまだ残っている。あともう一踏ん張りと思って頑張りますか。

未知性と偶然性をいかに取り入れるか

ITの発達によって、的確な情報が適切な人に適切なタイミングで届けられるようになったことは間違いない。

 

今や昔の話になってしまったが、ビッグデータによる解析技術は、今まさに欲しいもの・欲しい情報が個人の行動特性に合わせて通知することが可能になった。個々に合わせた情報を届けることができるようになったのは非常に大きな功績であると思う。

 

しかしながら弊害もある。特に、個々の興味にあった情報を届ける、というのは、人間の成長とか変化とかを完全に度外視している。結果として、人を、人の人生を固定化させてしまっているのである。

 

別に、固定化した人生が悪い、とは思わない。例として、イチローはかなり固定化された人生を送っていると思う。でも、それは誰かに固定された人生ではなく、自らの意志で固定しているからアリなのだ。

 

翻って、人生を固定化されてしまっている人もいる。例えば、RPGゲームのアプリをインストールしたとすると、あなたにおすすめのアプリとして、別のRPGゲームが勧められることになる。そのゲームをインストールすると、また別のRPGゲームが勧められて、といつまでも続く。

 

アマゾンのおすすめ商品も同じである。そして、勧められる商品を良いと感じる理由もよくわかる。でもそれは今まさにその瞬間を生きている自分にとって良い、ということでしかない。そして、それを選び続けることは、自分の人生をアルゴリズムに任せているのと同じである。

 

アルゴリズムは確かに高度なものになったが、あくまで営利目的、すなわち一番売れる確率の高いものが紹介されているに過ぎない。その商品を購入した結果、その人がどうなってしまうかとか、そんなことは一切考慮されていないのである。

 

一言で言うと、未知性とか偶然性を提供できない社会になっているのである。結果的に未知なもの、偶然の出来事に対して消極的になる人が多いと思う。でも、人間が変わったり成長したりするきっかけって、ほとんどの場合未知性とか偶然性によるものではないだろうか。

 

未知なものは既知のものに比べると怖いものだ。しゃべったことのない人よりもしゃべったことのある人としゃべる方が楽だろう。やったことのないことをやるよりもやったことのあることをやる方が楽だ。

 

しかし、どんな人だって、やったことのないことをやったから、今それが楽しいということに気付けたはずだ。中学、高校と成長するにつれて、得体の知れない人と偶然出会ったから今の友人がいるはずなのだ。人生が生まれた時から固定化されていれば、それほどつまらないことはない、と多くの人は必ず思うに違いない。

 

今の人生が最高だ、一生こんな毎日を続けていきたい、という人はずっと固定していればいい。ただ、予期せぬ偶然にいつかは必ず遭遇するため、それを受けて自分が変わらざるを得ないことには注意しなければならない。

 

今が退屈な人は未知性や偶然性を少しは取り入れていくしかない。なぜなら、既知の面白いことはそれほど面白くないことに変わりつつある、ということだからだ。あえてあんまり関心のないことをやってみる、とか全然知らないことをやってみる、とかそういう時間を少しは持った方がいい。かなりモチベーションのコントロールが難しいけれど。

 

ITとしては、長期的な目線にたったアルゴリズムができると面白いと思う。RPGゲームをインストールしたら、ゲームのし過ぎだから脳トレゲームを勧める、とか。家入一真が言っていたみたいに、アマゾンが「あなたは絶対に読まない本」を勧めてきても面白い。私なら絶対買ってしまう。

 

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人海戦術が質を決めるものは面白くない

私は人海戦術が通用するものが好きではない。質を量で補完できてしまうもの、と言ってもいい。これらのものは上手く言い表せないが面白くないし、フェアでないように感じる。

 

人海戦術が通用しないものとは、例えばスポーツである。どんなスポーツでも必ずコート上の人数が決まっている。野球なら9対9、サッカーなら11対11、バスケなら5対5である。こういう制約のもとに対決をするから勝利に意味があるし、勝利したチームの強さ、能力に説得力がある。

 

ただ、もしスポーツが人海戦術が通用するもの、すなわち、何人出場してもOKだったらどうなるだろう。人数が多いチームが勝利する確率が極めて高くなるだろう。ただ、大勢で勝利を掴んだチームのメンバが果たして能力が高いといえるだろうか。高いかもしれない。でも、大した能力がない可能性の方がはるかに高い。これでは面白くない、だからスポーツには人数制限があるのだ。

 

アートの分野も人海戦術が通用するものではない。例えば、プロの作曲家1人が作った曲より、100人が集まって考えた曲の方が良い、という可能性はかなり低い。小説も絵画も、沢山の人が集まって書いた作品の方が良い、ということにはならない。

 

せいぜい、同じ時間に沢山の曲を作ることができたり、沢山の絵画を描くことができるだけである。そして、アートというのは量ではなく質で評価されるため、人海戦術は通用しないのだ。

 

実はこれらは私たちが学生の頃によく触れていたものである。逆に言えば、学生の頃にやらされる種目はほとんど全てが人海戦術の通用しないものだった。絵をうまく書けた人には美術の成績が良いし、リコーダーが上手く吹ける人は音楽の成績が良い。これらは全て個人の能力のみ評価される。そもそも「テスト」という仕組みが個人の能力を測るものでしかない。だから、学生時代は個として突出しているだけで勝てるのである。

 

ただ、社会に出ると、これが180度変わる。企業の売上ランキングを見ればすぐにわかることだが、上位にランクインする企業は必ず社員数が圧倒的に多い。言うなれば、学生の頃は100点を取ったやつが文句なしの1位であったところが、30点を取ったやつが5人集まって総得点150点ならそっちの方が上、という扱いになるのだ。

 

システム開発もはっきり言って人海戦術的な仕事だ。確かにプログラマーの生産性は優秀な人とそうでない人とで10倍以上もの差があると言われる。でも、ビジネス的には、優秀なプログラマーより単価が10倍安い要員を10人外注すれば何の問題もないのだ。

 

また完成するシステムの質もコーディングの量に依存する部分が大きい。建築であれば、物理的な大きさを持っているため、単純に規模が大きいことが良いこととはならないだろう。

 

しかし、システムの場合、特にビジネスロジックの関する部分は人間には見えない部分のため、いくらでも規模を増やすことはできる。もちろん、効率的に少ないコーディング量で作り上げるのが理想ではあるが、コーディングの量を増やすほど機能を充実させることはできる。

 

結局量が質を決めてしまうため、個人でプログラミングを行うのはかなりの覚悟が必要である。私もアプリを開発しようと思っても、他のアプリ(会社が作っているようなもの)を見ると、モチベーションが一気にそがれてしまう。このレベルのものを一人で作ろうとすると途方もない月日が必要だし、かといって個人でできるレベルのものを作っても自分の作品としては納得がいかないものになってしまうからだ。

 

それこそプログラミングが自動化されるぐらいに技術が進歩して、それこそ個人でも完成度の高いシステムを作れるような時代になった方がいいなぁと常々思う。

どちらが勝ち組か

同じチームの中に15年目ぐらいの先輩がいる。その人は仕事は最低限だけこなし、プライベートを充実させるタイプの人である。役職も平社員の一つ上(今年度終わりに私に付く役職)であり、仕事の役割もリーダではなく、メンバに留まっている。仮にAさんとしておく。

 

片や同じ担当の課長に15年目の先輩がいる。極めて優秀な人らしく、最短コースで課長というポストまで上り詰めた人である。そのぐらいの年次になると、年功序列型の会社とは言え、ポストに大きな開きが出る、ということだろう。この課長はBさんとでもしておこう。

 

この二人が同期であることが判明してからは、BさんはこんなにすごいのにAさんは・・・と対照的に語られることがよくある。確かにBさんは仕事のほとんどを適当にこなしているように見えるし、はっきり言ってあまり一緒に仕事をしたいと思っている人は少ない。結果的にBさんは勝ち組、Aさんは負け組のように片づけられる。

 

でも、私はAさんの人生はとても充実していると思う。仕事の中で自己実現、みたいな感じではないし、あらゆるしがらみをもろともせず、自由奔放に振る舞っている。特に大きなプレッシャーにさらされることもなく、安定的に給料を稼いでいる。

 

仕事は最低限にこなす代わりに、趣味のフィールドでは、一流のプレイヤーとして今も全国的に活躍しているのだ。好きなことに対しては本気であり、周囲からも認められる存在なのである。

 

もちろん、社会的な地位やお金については、Bさんに比べて劣っているかもしれない。でも、Bさんがそれらを得るためにどれだけのものを犠牲にしてきたかを考えると、一概にどちらが勝ち組とは言えない気がする。

「はず」

「・・・であるはずだ。」英語ではmust。強めの推量を表す言葉である。断定ではないが、それに限りなく近い可能性で正しい場合に使う言葉だ。本来は。

 

ただ、ビジネスの現場で「はず」という言葉ほど当てにならないものはない。「レビューをしたから修正は要らないはず」とか、「既に試験はやっているからバグはないはず」みたいな表現を使う人は多いが、実際には問題が潜んでいることが多い。そして、問題の検知が遅れることも多々ある。

 

「はず」という言葉は乱用されがちである。というのも、「はず」というのは日本社会においては非常に便利な言葉なのだ。なぜなら、「〇〇なはずです」と報告をすれば、受け手に対してはさもそれが正しい情報のように伝えることができる一方で、発言をした方からすればあくまでも強い推量でしかない。つまり、間違っていたとしても嘘は言っていない、と責任逃れが可能なのだ。

 

「はず」という言葉を使うぐらいなら、事前に確証を取って断定表現を使うべきだ。もちろん、全てのことに対して自分で確証は取れないし、特にマネジメントをする立場からすれば、他人がやった作業全てを把握できるはずもない。

 

ただ、自分が確信できるまでチェックできていないことにより、「はず」という言葉が口から出てしまうのであれば、それは管理不届きでしかない。だから、私は他人が使う「はず」という言葉はあんまり信用しないようにしている。

 

かくいう私も最近は「はず」という言葉を使う頻度が増えてきているように思う。ついつい、「はず」という言葉を使ってしまっていないか、振り返る必要があるだろう。

この世で一番必要のないもの

この世で一番必要のないものと聞いて、私がパッと思いつくのは酒とタバコである。

 

私はお酒も飲むし、タバコも吸う。でもその上で、この二つは別に無くても困らないだろうと思っている。特に酒については一人の時はほとんど飲まないし、皆が飲まないなら飲まなくても平気だから、私にとってはタバコと同じくらいに不要である。

 

こんな風に「酒」と「タバコ」を並列で語ってしまうと、大抵反感を喰らう。Yahoo知恵袋で「タバコって何の役に立つんですか?」という質問に関しては、「何の役にも立ちません。」みたいな回答が多数を占めるのに対して、「酒って何の役に立つんですか?」という質問に対しては、ほとんどが否定的な回答だったりするのも結構面白い。

 

酒とタバコの善悪を明確に分けるロジックはほとんどの場合、健康に良いか悪いかによって語られる。酒は適量の場合は健康に良いという説があるが、タバコというのは1本吸った時点で、自分だけでなく周りの人の健康まで害してしまうからである。

 

でも、実際問題酒を健康に良いレベルで留めている人ってどのぐらいの割合なのか。少なくとも、私はお酒を飲む日は必ず適量以上飲んでいる自覚はあるし、男社会で生きてきた体感としては8割ぐらいの人が飲みすぎている。つまりお酒は健康に良いから良い、という説明は間違っていることになる。

 

それは適度に抑えられない人間が悪いのであって、お酒のせいではない、という人もいるかもしれない。ただ、お酒が生まれてから何百年何千年も経っているのにも人間が制御できないのであれば、それはもはや人間のせいにしている場合ではないだろう。アルコールにもタバコと同じように依存性があって、そもそも制御すること自体が難しいものなのだ。

 

ただ、お酒は周りの人の健康に被害は与えない、そういう意見も最もだろう。ただ、お酒が原因で周りの人に迷惑をかける人は沢山いる。それは小さなものから大きなものまで様々だ。タバコが与える影響はすべて微小量が積み重ねられていくのに対し、酒が与える影響は時にはいきなり人の死を招くレベルに発展する場合もある。これは種類の違いであって、どちらが良い悪いと押し並べて比較することはできない。

 

本質的にタバコは不要で、お酒は必要だと考えられてしまう原因は多数決の原理にある。だってお酒全く飲めないって人よりもお酒好きな人の方が多いでしょ。一方で、タバコを吸う人はタバコを吸わない人に比べて少ない。だから、論理性など関係なく、Yahoo知恵袋のような結果になるのは当然である。

 

お酒を飲めない人にとって社会というのは凄く生きづらい場所だ。皆が集まるコミュニケーションの場というのは必ずお酒が介入してくるし、お酒を飲んでいる相手と素面の自分ではテンションやノリが全く違う。気分を害したり疲れることの方が多い。かと言って飲み会を避けていると、人間関係はどんどん疎遠になっていき、仕事なんかでは最悪の場合、出世にも響くかもしれない。でも、子供の頃はお酒なんてなくても楽しいコミュニケーションが取れたのでは?と思っているに違いない。

 

タバコを吸わない人にとっての社会も同じことだろう。皆が集まると、必ずタバコを吸うやつがいるし、副流煙に晒され、当然健康を害されることになる。とは言え、集団を避けていると、人間関係は疎遠になる。タバコなんて吸わなくていいじゃんって思っていることだろう。

 

という風に、実は酒もタバコも本質的には何も変わらない。ただ、私がタバコよりもお酒の方が要らないと思うのは、酔っている時も翌日も全く人間として使い物にならなくて、生きている心地がしないからである。私にとって二日酔いの日は「死んでいる」のと同じ状態で、それはタバコが削っていく寿命と比べて、果たして少ないといえるのだろうか、と思うからだ。

異常者から見た世界

人間というのは社会の中で強制されていく生き物だ。ある組織の中に身を置くためには、その組織の価値観、考え方に自分を合わせていく必要がある。世間の常識からあまりにかけ離れた考え方・行動は納得されることはなく、相手の価値観で納得のいく理由が求められる。そういう権利があるものとされている。

 

普通は異常よりも偉いものとみなされる。例えば、30歳半ばまで恋愛経験がないとか、30歳半ばなのにアルバイトで生活しているとか。かと思えば、医学部の学生なら仕方ないとか、留年はダメだけど、浪人なら仕方ないとか。とは言え、3浪以上になるとやっぱりそれはやばい、みたいな。

 

世の中には「普通」という基準がどんな行動や考え方にもぼんやりと設定されていて、それに反するものは徹底的に理由を求められ、他人に干渉され、見下され、否定される。

 

私は結構昔から、他人(特に親)に自分の自由を侵害されないように生きてきた。勉強ができる人間であることをキープしていたのも、いい高校やいい大学にいるだけで、色んなノイズを減らすをことができるからだ。人は自分の能力に満たないと判断している人に対しては、偉そうにアドバイスをしたりと干渉してくるが、自分の理解を超えるものについてはほとんど介入してこないのである。

 

もちろん、全く干渉しないわけではない。人より優秀であるということも、普通に比べて異常であることと変わりはなく、その理由に土足で踏み込んでくる人は沢山いる。そして、皆が勝手に納得のいく理由を求め、納得できない理由は歓迎されない。

 

ただ、人に比べて無能だと判断されると、理由を聞かれた上で、こうした方がいい、こうするべきだと、聞いてもいない普通の価値観を押し付けられることになる。普通の人たちはこれを善意でやっているつもりなのだろうけど、相手からしたら迷惑でしかない。意図的にそういう異常な状態を選んでいる人だっているのだ。

 

でも、社会と繋がるためには普通でなければならないのである。ことのほか、民主主義のこの国では多数決が正しいからだ。

 

独創的なアイデアやカリスマ性が求められているというのは、机上の空論で、そんなものは日本では求められていない。真っ先に排除されるのがオチだ。リーダー不在を問題視しつつ、実はリーダーという異常な存在を忌み嫌っているのが日本人なのだ。 

 

最近のグローバル化の流れで多様な価値観がキーワードになっているが、多様な価値観だって、日本人の考える「普通」の価値観から大きくはみ出さない価値観でなければ多様性は認められない。外れすぎた人は全員から扱いづらい人のレッテルを貼られ、遠ざけられるのだ。 

 

本当に普通の人は、上記のような感覚を抱くことはないのかもしれないけれど、ミクロな場面では、自分が異常者側、ということもきっとあると思う。そんな異常者側から見たこの世のリアルがこの作品には表現されている。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

負債との向き合い方

近年の人々は刹那的に生きるようになったと思う。時代の変化が激しくなったこととも関係しているのかもしれない。何十年も先のことを考えるよりも、目先にある2、3年、あるいは今を大切にする生き方を志望する人が増えたのではないだろうか。

 

仕事をしていても思う。なんというか、「今の開発を乗り切ればいいんでしょ?」みたいな人が圧倒的大多数で、その後のことは後の人が頑張れば?みたいな感じに考えている。こんな設計にすると維持が大変になることはわかっているけれど、今大規模な修正が入るのは大変だから、今回は暫定対処としましょう、みたいな。

 

日本という国に生きていても思う。奨学金が、とか待機児童が、とか色々問題はあるのだけれど、それに対して施策をうつのであれば、お金がかかる。知っての通り、日本は借金大国だから、そんな財源はどこにもないのである。昔、ビートたけしがとあるCMで言っていたように、今日本が豊かに見えるのは将来の分を先に食いつぶしているだけなのだ。

 

なぜ、私たちがこんな風になったのかと言えば、たぶんそれは私たち自身がそうやって過去の負債を押し付けられてきたからだと思う。少し前に上がった消費税だって、本来私たちの世代が払っているのはおかしいし、年金を普通に払っているのに、将来はもらえないかも、なんてのもおかしい。

 

やっぱり仕事でもそういうことはよくある。なぜ過去の開発の時にこんなめちゃくちゃな設計にしているんだ、とか設計書に記載がないじゃないか、なぜソースがちゃんと管理されていないんだ、とか言い出すとキリがない。本来なら今回の仕事の範疇ではないはずの仕事が大量に潜在しているのだ。

 

しかし、国も仕事も過去が完璧であるはずがない、と思った方がいい。というよりも間違っていることの方が多いと言っても過言ではない。すなわち何かを始める時点で、既に一定量の負債を抱えているのである。

 

あくまで姿勢としては、過去の負債を背負いつつ、未来への負債をなるべく残さないようにしないと、いつまでたっても負の連鎖は断ち切れない。

ハイエナビジネス

 SIerの業績は何によって決まるのか。それは良質なシステムを作ることではない。画期的なサービスを生み出すことでもない。良い顧客を持つことである。良い顧客とは、彼らの事業性が高く収益が安定しており、かつITに対して積極的に投資をしてくれる顧客のことである。大規模な案件を受注できれば後はマージンを差っ引いた賃金で外注、委託するだけだ。

 

もちろん、設計やマネジメントを確実に遂行する必要はある。ただ、良い設計や良いマネジメントをすることが本質ではない。あくまで顧客の財布である。もし顧客毎で部署が分けられていれば、配属の時点である程度業績の評価は決まってしまう、ということである。やっていることは商社と同じなのかもしれない。

 

なぜこのような構図になってしまうのか。

 

1つは、今のSIerのほとんどが成果報酬型でない、すなわち、システム開発にかかる工数(労働力)でシステムの金額が定められていることにある。

 

つまり、出来上がったシステムに全く価値がなかったとしても、私たちはシステムを開発しました、という事実に対して報酬が支払われるシステムになっている。その代わりに開発後も一定期間は瑕疵担保責任を負うことにはなるが、それでもSIerにとっては非常に有り難い仕組みである。

 

もう一つは、出来上がったシステムが顧客の売上向上にどれだけ貢献したのかが十分にトレースされていない、ということである。システム開発が成果報酬にならない理由でもある。

 

とは言え、これはなかなか困難なことだと察する。例えば、店舗でしか商品を販売していない店が、オンラインショッピングサイトを構築した結果、売上が倍(元々の売上が一日あたり100万円だったのが、200万円)になったとしよう。

 

この場合、システムがもたらした価値は一日あたり100万円なので、そのうちの30%を報酬にするとすれば30万円である。ただその効果はいつまで続くかはわからない。数年後には効果がさらに増えるかもしれないし、半減してしまうかもしれない。

 

あるいは、たまたまサイト構築の時期に売上が上がった別の要因があったのかもしれない。オンラインで購入する人が増えた半面、リアルで購入する人は減っているのかもしれない。もちろん、O2Oという言葉があるようにどちらも増えているのかもしれない。こうなってくると、明確にシステムがもたらした価値を数値化するのは不可能である。

 

こんな背景もあり、なんとなく、業績は上がったし、次も投資しよう、ぐらいにしか考えていない企業は結構多いんじゃないだろうか。費用対効果を測るのが難しいために、単なる「効果」だけを見て投資している企業も多いと思う。「そもそも会社の体制の中に「システム部門」が存在しているために意味はなくてもシステムを作ろうとしている会社も結構あるんじゃないだろうか。」

 

結果的に、今業績の良い会社は事業性が低くても多額なIT投資をしてくれるし、逆に業績の悪い会社は事業性が高くてもあまりIT投資をしない。将来的な事業性は二の次なのだ。

 

我々はそういうお客さんのハイエナをして稼いでいる気がする。

カードシステムは統合した方がいい

私はポイントカードというシステムがあまり好きではない。シンプルでないからだ。財布が煩雑化するのが最も解せない。

 

元々、ポイントカードというのはマーケティング分野においてはかなり活気的な仕組みではあったのだろう。例えば、100円毎に1ポイントつく店があって、1ポイントが次回は1円になるとすれば、次もまたその店で買い物をすれば1円お得(還元率1%)ということになる。

 

数学的には、常に商品を1%引きの価格で販売していることと同じである。しかし、人間の心理として1円程度の金額であれば大したメリットは感じられないが、チリも積もればで普段から高額な買い物をしていればその分ポイントはまとまった額になるため、またその店で商品を購入する意欲が増す、という仕組みである。

 

また貯金と同じで、何かを買うために貯めるのではなく、ただただポイントを貯めることに満足する人達は一定数存在するため、ポイント5倍デーなどがあるとたちまち消費が促進される効果もあるのだ。

 

まぁ実際のところは、ポイントが5倍ついてお得感を感じているのかもしれないが、はっきり言って必要ないものを買わされていることが多い。明らかに損をしているのだ。セール品を買うことが得でないのと同様、ポイント5倍デーに買い物をするのが得とは限らないのである。

 

ちなみに話が逸れるが、ほとんどの場合高額の商品を購入する際にポイントを使うのではなく、安い商品を購入する際にポイントを利用する方が経済的にはお得である。なぜなら、高額な買い物をする時がもっともポイントが多く付与される一方で、ポイントを使って購入した場合にはポイントが付かないケースが多いからだ。

 

沢山ポイントを貯めてから高額な商品を購入するときにまとめて使うのを好む人が多いようだが、それははっきり言って無駄で、なるべく最小単位のポイントが溜まったらすぐに使うのが効率的なのである。私はZOZOTOWNなどで購入するときは毎回少額のポイントを使っている。

 

つらつらと述べてきたがポイントカードシステムがあった方が企業的にはプラスになるだろう。ただし、それは他の店、競合他社がポイントカードシステムを導入していない場合に限るのではないだろうか。

 

例えばコンビニなどでもローソンではPONTA、ファミマではTポイントカードなど、それぞれ別のポイントカードが存在している。なら、別にどちらのコンビニで買うかの決定打にはならないだろう。アパレルメーカーについても同様である。

 

また、せいぜい還元率は5%~10%の間に留まる。それ以上インセンティブを与えても、収益が上振れしない、と察する。そんなことのために財布を煩雑化させるのが私は嫌いなので、日常的に使う必要最低限のカードしか保持していないし、購入時にカードを作ることはあってもすぐに破棄する。

 

これは一枚のカードでは実現できないのだろうか。最近は、先ほど述べたようなPONTAやTカードもコンビニ以外でもポイントが使えることをウリにしたものが登場してきてはいるが、十分に統合はされていない。またまだ市場のパイを奪い合う戦略の延長線上にある。

 

全てのコンビニあるいはその他のショップで使えるポイントカードを1枚にすることはできないのだろうか。最悪ポイントシステム自体は店舗毎に別管理、でも良いと思う。要するにポイントシステムの統合プラットフォームのようなものがあれば、媒体は1つでいいんじゃないかと思うのである。

 

別の例として、化粧品メーカーのカードがある。化粧品メーカーでは化粧品を購入する際に、その人が今までどんな化粧品を使ってきたのか(使用履歴)、などの情報を保持するためのカードを発行している。

 

この化粧品メーカーのカードであるが、全く同じブランドであるにも関わらず、店舗毎にカードを作らなければならないのだ。男性には全く馴染みのない話だろうが、彼女の財布を覗いてみると同じ体裁のカードが数枚入っていることに気付くと思う。

 

これはポイントカード以上に訳が分からない。同じブランドであれば、店舗毎に客を奪い合う必要があるのだろうか。また、使用する化粧品も同一ブランドなので容易に識別可能に思えるのだが、現状そうはなっていないケースがほとんどなのである。化粧品メーカーは女性が主流だからITに疎いのだろうか、と勝手に思っている。(個別に管理されている理由を知っている人がいたら本当に教えてほしい。)

 

結論、今のカードシステムのほとんどは統合した方がわかりやすいってことです。

仕事へ行きたくない理由

大型の夏休みを頂き、地元に帰って旅行に行ってきた。明日からはこれまで通り仕事が始まる。

 

一般的に、休みの前日というのは凄く心が躍るものである。週末だけを楽しみに生きている人間もいることだろう。一方で、仕事が始まる前日というのは、憂鬱この上ないものだ。

 

ただ、私はあんまりこのような心理に納得はいっていない。仕事に行きたくないと思ってしまう理由は何なのだろう。

 

仕事は自分の意志とは無関係にやらなければならないものだからだろうか。仕事は辛く、面白くないものだからだろうか。

 

多くの人は仕事はつまらないもの、一方で休みは楽しいものだと思っている。休みは自分の自由に過ごすことができるから、なのだろう。ただ、私はあんまり休みの日が最高だ、と思ったことはない。仕事がやらなければならないものだというのなら、休みの日だってやらなければならないことは沢山ある。

 

それは、家事と呼ばれる仕事だ。男社会では「主婦」は職業として認識されないことも多いが、これは立派な職業だと私は思っている。人間が生きるためには、掃除、洗濯、料理、買い物、ありとあらゆるタスクで埋め尽くされているのだ。それは休日だって同じである。

 

仕事がつまらないもので構成されているから仕事へ行きたくないのなら、休みだって同じではないだろうか、と私は頭では思っている。なぜそういうものの辛さは表面化して語られないのだろうか。人が休みを語る時にはそういうタスクを抜いたほんの一部の時間のみを対象としているように思う。

 

私は長期休暇を取るときに、色んな地元の友人に会ったり、出かけたり、楽しい時間を過ごしてはいるが、新幹線に乗って移動する時間や、家族と同じ空間で過ごす時間など苦痛を伴う部分は結構ある。だから帰省するのが億劫になることも多い。(結局いつも帰るのだけれど。)

 

仕事がルーティン化されていて、つまらないものだと語る人は多いけれど、結局のところ、プライベートというものも年単位ではすっかりルーティン化されているように思う。もう社会人になってからの長期休暇の過ごし方どころか、季節ごとの楽しみ方も毎年同じだと言って差し支えない。仕事と休日のどこに差分があるのだろう。ようは単なる世間的なイメージに過ぎないのではないだろうか?なんて最近では思う。

 

究極的な違いはやはり人間関係しか残っていない。気の知れた友人と過ごすのが休日。僅かな繋がりだけでできている会社。確かにこの差は大きいだろう。もし会社が自分と仲の良い人間関係だけで成り立っているのなら仕事は楽しいのかもしれない。経験として、アルバイトの時はそういう感覚があったのも確かである。

 

あるいは、小学校とか中学校の時もそうだったに違いない。夏休みは楽しみではあったけれども、夏休みがもうすぐ終わることに対する楽しみもあったのではないだろうか。少なくとも私は、これでみんなに会えるな、という微かな期待があったように思う。

 

翻って、今はそんな期待がない。だからこそ、仕事へ行きたくないという感情に到達するのだ。会いたい人が沢山いればそこへ行きたいと思うのは真理である。

知らない人と交流するのはそんなに良いことなのか

今日は事業部全体の飲み会があった。一応補足しておくと、事業部とは複数の部署から構成される少し大きめの事業単位である。総勢100名程度が参加した。

 

この手の飲み会が私は非常に苦手である。一年目を境に基本的には参加しないスタンスだが、3回に1回ぐらいの頻度で参加するように心がけている。一応、可能性への投資、と自分に言い聞かせている。

 

私の課長はこの手の飲み会に参加することを結構推奨している。できるだけ偉い人と話して顔と名前くらいは覚えてもらうように、とよく言うものだ。でも、偉い人が飲み会を通して私を認知してくれることはないと思う。飲み会の場で記憶に残るほどインパクトのあることはしないし、別に偉いさんだって若手の顔を覚えよう、なんて気があるわけではないのだ。私も別に偉い人に気に入られよう、なんて全く思わない。

 

あと、こういう飲み会になると、「なるべく知らない人と交流しよう」みたいなスローガンが投げかけられることが多い。ただ、蓋を開けてみると、みんな同じ部署の人と固まってワイワイやるのである。こういうあたりはもう日本人の特性なのだろうなと思う。逆に、私はこういう機会こそ、同じ部署だけどそんなに話したことのない人と話すようにしている。海外に行く前にまず国内に行った方がいくべきでは、という考え方なのだ。

 

今は多様性が求められる時代ということもあり、自分の知らないことを教えてくれる人と語り合うのは”良いこと”として推奨される傾向があるけれども、結局飲み会の場で、互いの価値観などをぶつけ合うところまでは発展しない。アメリカ人みたいに「私はこの問題についてこう思ってるけど、君はどう?」みたいな発言をされても皆困ってしまう。

 

本当に異なる文化を学ぶのであれば、何か共通の、価値ある目標を掲げ取り組むみたいなことをしなければ、何の意味もない。少なくとも、この「知らない人と会話する」飲み会を今まで何度か参加してきたし、それなりに話してきたけど、結局その場限りの人間関係で終わり、またその会話から何も学ぶことはない、というのが私の中での結論である。

 

だから、もうそんなに知らない人との交流を重要視する必要はないんじゃないかなと思う。どうでもいい人のどうでもいい側面を知って何になるのか。もちろん、それを面白いと思える人はどんどん参加すればいい。でもそういう催しを崇拝なものとか価値あるものとして位置づけるのは頂けない。何も学ぶものがないのであれば、せめて気の知れた人と話している方がよっぽど良い。

質問とは投資である

学生の頃に出題される問題とは違って、社会人の仕事には正解がない、とよく言われる。これは半分真実であって、半分は嘘だ。仕事の中には正解がないものと正解があるものがある。仕事の中にも必ず”事実”と”解釈”、”過去”と”未来”があるのだ。もちろん、最終的に完成する仕事レベルの単位ではもはや正解はないのかもしれない。しかし、仕事を形にするまでに集める情報とかそんな類のものについては常に正しい答えがある。

 

答えのない問いに答えるためには確実なもの、すなわち事実をよりどころにするのが最も良い。大抵のイノベーションとかも、不特定多数の事実をかき集め、そこから帰納的に導き出される抽象的な推論を出し、何をすればよいのかという仮説を立てるところから始まる。つまり、事実がわからなければお話しにならない。

 

というわけで、事実を知っていることはとても大切である。今の時代であれば、単なる情報収集はググれば済むと思うかもしれないが、会社内に閉じたような情報だと自分で調べるのはかなり骨が折れる作業であり、非常に非効率だ。できる限りは避けたい。

 

そうなると、最も良いのは、知っていそうな人に聞く、ということである。これが一番楽である。私は基本的にわからないことがあっても自分で何とかしたいタイプであるが、さすがに既知の答えを探すことに大量の時間をかけるのはやはり非効率なので、最近は人に聞くようにしている。

 

ただ私が他人に聞くのは、答えのある問題に対する回答のみである。つまり質問だ。やり方がわからなくてどうすればいいですか、という相談はほとんどしなくなった。数学でもそうだが、物事のやり方とかには正解がないことが多く、自分で考えた方が良いと結論づけているからである。

 

しかしながら、答えを聞いているにも関わらず、答えに至るまでの方法論を教えてくれる人が少なくない。これは相手が優秀で、ありがたい話なのだけれど、いやいやその方法は自分知ってますとか、あなたが回答してくれなければもともとそうするつもりでした、みたいに思うことが少なくない。

 

相手は当然親切で答えてくれているのかもしれないが、私からすれば、質問をした時間が無駄になっただけ、ということになる。私はすぐに答えを手に入れるために質問をしたのだから。さらに言えば、実際のところ、「あの人は質問に答えられなかった」と思われないように無理やり苦し紛れの回答をしてしまうケースの方が圧倒的に多いと思う。

 

ただまぁ私は最低限の概要を自分で調べたら、詳しい人に聞くようにしている。そして、どんな回答が来てもありがたく受け入れる。それは質問とは一種の投資、ギャンブルだと考えているからだ。

 

例えば、パチンコ台Aに1000円入れれば、それがなくなってしまうかもしれないし、10000円になるかもしれない。どうせ1000円入れても無駄でしょ、と思えば決して10000円になることはない。

 

質問も全く同じだ。ただし、質問の場合リターンはお金ではなく時間として帰ってくる。Aさんに聞けば長々と知っている情報を教えられたのち、自分で1時間調べなければならないかもしれないが、3秒で即答してくれるかもしれない。どうせ、答えは知らないんでしょ、と思えば決して3秒でわかることはない。

 

ただし、質問の良いところはギャンブルとは違って、質問をすればするほど精度を上げることができることだ。Aさんにこの質問がわかるかどうかの見極めがつくようになってくれば必要最小限だけ頼ればいい。そもそも、他人なんてほとんど当てにはならないというのが私の見解だけれども。