∑考=人

そして今日も考える。

KPT法でプロジェクトを振り返ってみる

リリースは問題なく完了しました。これをもって私の人生初プロジェクトも完了。来週からは休む間もなく基盤系エンジニアにシフトチェンジします。気持ちを切り替えていかないといけませんね。

 

新しい環境に気持ちを切り替えて臨むのも大切なことですが、プロジェクトを終えたら大抵の場合はそのプロジェクトについて振り返ることが推奨されています。たぶん、うちの会社に限らず、プロジェクト型の仕事をしている組織はやるんじゃないでしょうかね。その中でも有名なフレームワークKPT法と呼ばれるものです。

 

KPT法とは、Keep・Problem・Tryの頭文字を取ったものです。プロジェクトを振り返って、良かったこと・今後も続けていきたいこと(Keep)、悪かったこと・問題点や反省点(Problem)、それらを踏まえ次にやっていきたいこと(Try)に分類し、今後に繋げていくための方法論です。一つの節目となったいい機会なので、個人的に振り返ってみます。なんか問題思い浮かばないですが・・・。

 

■Keep

・設計書を読み込んだ。

・便利ツールを何個か作った。

・お客さん先で説明、質疑応答をした。

・担当システムを納得いくまで操作した。

進捗管理ツールを活用した。

・ToDoリストを活用した。

・問題が起こっても範囲を限定化し、暫定対処により対応できた。

ソースコードを修正した。

・テストケース設計について勉強した。

・試験機器のエラー対処法を理解した。

・未経験の業務を他人から情報を集めて一人で遂行した。

 

■Problem

・他人への仕事依頼が遅かった。また、依頼の仕方が曖昧なことが多かった。

・設計の際に、曖昧な仕様、設計漏れ、両システム間の整合性エラー、既存仕様の踏襲誤りが目立った。

・試験項目作成時に観点漏れがあった。

・労働時間が長かった。

ソースコードの品質を担保できていなかった。解読できなかった。

・試験シナリオの効率化が不十分だった。

・仕様に対するこだわりが弱かった。

・朝会があまり機能していなかった。

・スケジュールのリスケが多かった。

・インフラ周りの業務に対するチームの関心が薄かった。

・一人で仕事を抱え込みすぎた。

 

■Try

・わからないことがあったらまず設計書を読む。

・人手をかける必要のない作業は既存のツールを適用・もしくは自分で作成する。

・エラーと対処法を蓄積するための仕組みを用意しておく。

・チームの関心が薄い作業に対する重要性及びリスクを説明できるようになる。

・他者へ明確な指示(目的→成果物イメージ→方法・条件など)を出す。と同時に他者の結果の正当性チェック観点を検討しておく。

・仕事の依頼のGoサインは素早く、締め切りを明確に。

・既存を安易に踏襲しない。既存と類似の部分、既存と異なる部分を棲みわけた上で参考にする、という姿勢を貫く。

・業務の目的・業務フローを理解した上で仕様を定義する。どれがいいかを多角的に表して選ぶ。

・打ち合わせの目的を理解し、不毛だと感じたら、頻度を減らすか、無くすか相談してみる。(多分無理だけど。)

・試験項目数は品質水準の数値で満足しない。出せるだけ出して、後から削るか検討する。

・小さい作業もスケジュール化・タスク化しておく。

・Rv時にはチェック観点を作っておく。必要な資料もまとめておく。

・協働者任せにせず、わからないことを掘り下げて聞いていく。

 

まだまだ他にもありますけど、こんなところですかね。まぁ次はプロジェクトの特性とかも変わりますし(そもそも維持だし)、どこまで反省が役に立つかはわからないですが、こういうちょっと抽象化された教訓って案外いろんなとこで役に立つもんです。ダルいですけど、やっといて損はないと思います。

 

同業者の方はチームとしておそらく実施していると思いますが、チームでやるのは当然として、個人だけでやってみると本音が出せるのでオススメです。(チームでやると、ん!?それ本当にKeepなのか!?みたいな発言も出たりするので。)

 

ちなみに、KPT法をやっていて思ったんですが、何が良くて何が悪かったのかを後から振り返れるような材料を残しておけるのが理想ですね。チームが良かったと思っていることが本当に良かったのか、チームが悪かったと思っていることが本当に悪かったのか、感覚だけに頼ってしまうと危険ですからね。

 

まぁ、とりあえずは振り返ってみる、ということが重要だと思ってやってみるといいでしょう。

燃え尽き症候群にどう対応するか

明日からリリース対応で地方へ出張することになった。念のため補足しておくと、「リリース」とは開発したシステムを市場へ初めて投入することを指す。つまりは、システム開発プロジェクトの終焉、というわけだ。同時に、私たちの仕事が全て完了することを意味する。

 

考えてみれば、社会人になってからは一度も足を止めたことはなかった。こなしてもこなしても様々な角度から生み出される仕事、降ってくる仕事。目の前の仕事を捌くのに必死だった。もちろん、休みはキチンと取れるのだが、私は抱えているタスクがあればついつい休みの日にも仕事の段取りなどを考えてしまうタイプだ。

 

抱えているタスクがたくさんある、という状態はあまり健全だとは思っていなかった。なぜ休みの日にまで仕事のことを考えなければ、と思った時もあった。しかし、いざ抱えているタスクが全て無くなってしまうと、結構退屈で、無気力状態になる。嫌なことからやっと解放された!という感覚は驚くほどに少ない。

 

俗に言う、燃え尽き症候群という奴だ。私は人生の節目節目で何かを頑張ってきた後は必ずこう言った精神状態に陥る。バスケを引退した時もそうだし、最初のバイトを辞めた時もそうだった。

 

大学受験時なんかは特に顕著で、大学合格が既に決まっているのに、無性に勉強したくなる時があった。まだ自分の中での自分が勉強した結果に納得がいっていなかったのである。とは言っても、目的がないのだから勉強する意味もなく、結局何も手につかなかった。たぶん私は何かにハマると、誰かに「ストップ!」と言ってもらえなければ、ひたすら完璧を目指し続けてしまうタイプなのだろう。

 

燃え尽き症候群というと、なんだかたいそうな病名っぽいけれど、私にしてみれば、一生懸命打ち込んできたことに打ち込めなくなったのだから、喪失感を抱くのは当たり前じゃないか?と思っている。慣れ親しんだ親友と絶縁して落ち込まない奴なんていないはずだ。逆に言えば、燃え尽きるということはそれだけ精一杯やったことの証でもある。

 

ただ、いつまでも燃え尽きているわけにはいかないのが人生である。特に仕事は会社がある限り会社員である限り永遠に続いていく。学生の頃は受験終わったから春休み、とか、期末テスト終わったから夏休み、とか、何かやり遂げた後のリフレッシュ期間みたいなものがあった。

 

しかし、社会人にはこの、「ちょっと休憩」、という概念が存在しないのだ。私も今週のリリースが終われば来週からは別のチームで、全くやったことのない仕事をやらなければならない。燃え尽きている暇なんてないのである。

 

では、急激に下がったモチベーションをどうやってあげればいいのか。

 

私の経験から言うと、低いモチベーションのまま、燃え尽きた状態のまま、何かに取り組め、という回答になる。もちろん、世間にはモチベーションを上げるための方法論がたくさん出回っているし、それらを試してみるのは一つの方法としては悪くないかもしれない。

 

ただ、個人的にはモチベーションなんてものは後からしかついてこないものだと考えている。そもそも、モチベーションなんか無くたって何かに取り組むことはできるのだ。「モチベーションがないので何もできません」、と全てモチベーションのせいにする人は、モチベーションがあれば全く苦しまずに何かに取り組めるという幻想を抱いているのである。はっきり言って、生きていて苦痛が伴わないことなどない。

 

やる気のない中、新しい情報を得たり、新しいことに打ち込み出すのは確かにしんどい。成長率もそれほど高くはないだろう。しかし少しずつ着実に今までの自分の中に変化を生み出すきっかけとして残っていく。理解度が高くなると、人間はその事象に少なからずハマっていくものである。何かにハマっていくと、それがモチベーションにも繋がるのだ。

 

モチベーションなんてなくても行動はできる。

仕事場における教育とは

本気で社員の教育を考えるのであれば、”どういう人材に教育していきたいのか”を明確に定義した上で、その人材像になる上で大きなプラスにならない仕事は与えないことだ。私はそう思う。

 

例えば、雑用という仕事がある。誰もやりたがらないが、誰かがやらなくてはならない、そして誰にでもできる簡単な仕事であるがゆえに大した価値はない仕事だ。主に新人のうちは担当することになるだろう。

 

ただ、雑用の価値を説いてくる会社はおそらく非常に多い。おそらく、今の上の世代の人達も自分たちの若いころに雑用をやらされた経験から、雑用の重要さを語っているんじゃないか。

 

確かに、雑用をするときにも自分の頭で考えて工夫を凝らすことで、作業に意味を持たせる余地は十分にあるだろう。また、雑用のこなし方一つで評価が変わってきたり、信頼を得ることができたり、より責任ある仕事を任せてもらえるようになったりする。そういうサイクルが会社の中で回っていることは確かだ。こういったプロセスが当たり前に存在しているため、「どんな経験もいずれは役に立つ」という考え方が定着している。

 

しかし、肝心なのは”どの程度役に立っているか”、すなわち費用対効果の観点である。将来の人材像が決まっていて、3年間雑用ばかりをやってきた人間と3年間将来の人材像へと向かうための業務に取り組んで来た奴のどちらが成長しているか。考えるだけバカバカしいとは思わないだろうか。

 

はっきり言って別の会社にアウトソーシングしてしまった方がいい。コスト面で検討した結果、派遣を雇うと高く付くから、自社内でやりくりする、という判断をしてしまう会社は多いが、それは短期的な効果しか見ていない。

 

付加価値の少ない仕事をアウトソーシングする(BPO)のは今では当たり前の考え方になっているし、そもそも長期的にみれば、付加価値の高い仕事をさせること自体は売上の増大や社員の教育にもつながってくるはずだ。

 

とは言え、初めから新人に責任のある仕事を任せるのはちょっと、、、と考えるのが普通だろう。でも、それははっきり言って上司や先輩の能力不足、稼働不足の側面もあるんじゃないだろうか。仕事を任せたとしても、うまくリスクをマネジメントした上でフォローする能力があれば、大きな失敗は防ぐことができる。

 

外部から高いお金を払って講師を呼んでくるぐらいなら、初めから新人に責任のある仕事を任せて、フォローに回る先輩や上司の負担を減らすことにコストをかけるべきだ。

 

余談だが、DeNAには研修制度がないらしい。プロフェッショナル仕事の流儀でDeNAの社長が、「社員を育てるのは研修制度ではなく、良質な仕事だと考えています」とその理由を述べていた。この言葉には非常に共感できたのを覚えている。

 

「教育する」というと、さも他者を直接的に成長させるようなイメージを彷彿とさせるが、せいぜい出来るのは「本人が学習できるための環境を整えてあげること」でしかない。

 

これは別に会社でも学校でも同じ話である。ただ単に良い授業をたくさん聞いていたって、偏差値の高い生徒は生まれない。良質な問題と、その問題を解くために必要となる材料をいかに上手く提供できるかがポイントなのである。

 

本当に社員を教育させたいのであれば、まずは良い仕事を沢山与えることだ。私はそう思う。

経験から学べるやつと学べないやつの圧倒的な差

ゆとり教育の申し子である後輩達を見ていると、最近は偏差値が高いやつ=経験から学べるやつではなくなってきているように思う。

 

偏差値が高いだけのやつは、自分がわからない問題に出会うと、せいぜいググるか、知っている人に聞くか、手順書を探すか、そこで止まる。そこで何も得られなかったら、どうすればいいでしょうか、と問う。もちろん、それでカバーできてしまう仕事も結構多いが、こんな仕事に大した価値はない。

 

経験から学ぶ人は例外なく試行錯誤をする。システムの使い方がわかりません、という前に、まずは画面のありとあらゆる箇所をクリックしてみて、どう画面遷移するのか、その画面で何ができるのかを学習していく。そうやって、じゃあこのシステムはこう使えばいいのか、と理解する。これが経験から学ぶということだ。

 

足すと5、掛けると6になる二つの数字は?と問われれば、ほとんどの人は方程式を使って解くことになると思う。知っている人に「どうやって解けばいいですか?」と聞いても、連立方程式を勧められるはずだ。

 

でも、この問題を解くのに方程式なんて必要はない。実際に試してみればいいのである。例えば、1と2だったらどうなるなるのか。足すと3、掛けると2。違う。試してみて違ったらなぜ違うのか、どう違うのかを少し考える。

 

足しても掛けても小さい値になっている、ではもう少し大きい値なのではないか、と仮説を立てる。二つとも3だったらどうなるかやってみる。足すと6、掛けると9。やっぱり違う。でも今度は大きくなった。なら1〜3の範囲にある二つの数字ではないか、と考えていくと、結局2と3の組み合わせだと気づくのにそう時間はかからない。

 

いつも方程式を使って解こうとする人間は、問題に立ち向かう中で成長することができない。なぜなら解法を覚えることでしか問題に対処できず、近くに解法を知っている人がいなければ手詰まりとなってしまうからだ。

 

一方、トライアンドエラーで答えにたどり着ける人間は強い。やってみて、その結果から情報を得て、その情報から分析し、答えの潜在する範囲を限定かしていく力があるからだ。正解のためのヒントが自分の行動とそれが引き起こした結果の因果関係に含まれていることを知っている。

 

子供の頃はみんなそうだったはずなんだけど、大人になるとなぜ経験から学べなくなってしまうのだろうか。

IT企業とは何か

IT企業。その定義はもはや「グローバル企業」と同じくらいに意味を成さない言葉になっている。

 

就職の時に「グローバルの舞台で活躍したい」みたいなことを言う人が一定数いた。面接等では、「グローバルに働くと言っても海外を転々と渡り歩いて仕事をするのか、特定の外国で仕事をするのか、あるいは日本の中で外国人たちと一緒に仕事をするのか、色々ありますよ〜」みたいな補足をしてくれる人もいた。

 

でも、グローバルに働く、というのは仕事の本質からはかなり遠いところにある。グローバルというのは範囲を示す言葉でしかないからだ。市場となるターゲットの範囲、あるいはステークホルダとの交流範囲でしかない。何をするのか、どんな価値を提供するのか、そういうものが一切含まれていない。

 

だから、グローバル企業という言葉はあってもグローバル業界、みたいな言葉は使われない。トヨタは自動車業界の中のグローバル企業だ、みたいに企業の一つの側面を表すものである。

 

では、IT企業とは何か。GoogleAppleMicrosoftAmazonなどを連想する人もいるだろう。あるいは、楽天、Yahoo、ソフトバンクなどをイメージする人もいるかもしれないし、サイバーエージェントDeNAなどが思い浮かぶ人もいるはずだ。これらをまとめてIT業界などと言ったりする。

 

だが、「IT」も「グローバル」同様、仕事の本質ではない。メディアであってコンテンツにはなりえない。

 

例えば、AmazonはIT企業ではなく、物流企業である。ただ物流の手段としてITを活用しているだけなのだ。ITを活用した結果、物流の価値が格段に高まっただけなのである。サイバーエージェントについても、昔なら広告業界、今はゲーム業界に位置する企業である。確かにITを活用しているが、ITは提供する価値そのものではない。

 

IT業界という枠組みの中でも、会社によって全然やってることは違うのである。また、「ITを活用している」だけでIT企業になるのであれば、大企業のほとんどはIT企業ということになってしまうだろう。つまり、「IT企業で働いています」というのは「私は日本人です」というぐらい、何の意味も持たない言葉になりつつあるのである。

 

強いて言えば、ソフトウェアメーカーとかSIerとかは私の考えるIT企業に近かった。それは間違っていないと思う。でもIT企業に近い、ということはコンテンツとしての価値を生み出す機会は少なくなる。

 

ソフトウェアメーカーであれば、何のための、何ができるソフトウェアなのかが重要で、それはSIerについても全く同じである。そしてSIer、その「何のための」の部分は大きい会社に入ってしまうと、人事次第となる。さらに言えば、それを決めるのは先にいる顧客である。

 

「何のための」すなわちコンテンツを突き詰めたい人は、ユーザー企業のシステム部門に転職していったりするらしいが、こうなると、日本の会社ではソフトウェアの開発、すなわちメディアの部分の製作に携わる機会がほとんどなくなる。こうなるともはやIT企業ではない。

 

ただ、IT業界全体として、ITを単なる手段ではなく、それ自体をサービスとして価値あるものにしようとする流れがきている。これはすなわち、IT企業からの脱却なのである。ITを活用する〇〇企業になろうとしているのだ。

 

転職を考えた時に、「IT企業の中ならどれがいいか」、みたいな考え方をしても無駄だと思った。

備忘録的プレゼンの極意

プレゼンの極意。それは相手の完全な理解を諦めることだ。つまりは自分の伝えたいこと全てのうちで、何を伝えるのか選択することである。

 

プレゼンの資料を作る際には、一つのスライドには一つのメッセージしか入れないようにする、という鉄則があるが、これも本質的には「何を伝えるのか選択すること」と同義である。ただし、一つのスライドに一つのメッセージであれば何でもOK、ではない

 

よく、パワポ資料のRvなどの際に、「このスライドでは言いたい事が何なのかわからないから、二つに分けたほうが良いんじゃない?」的な指摘が上がる時がある。おそらく、ワンスライドワンメッセージの鉄則を皆叩き込まれているからだと察するが、これさえ守ればよりベターな資料になるだけであって、万事OKとはいかないのだ。

 

まず、この手の指摘に従って、一つ一つの資料をシンプルに分割していくと、資料のページ数が膨大になっていく。資料数が多いことを問題視しない人は多いが、そもそも発表の時間に応じたスライドの枚数は概ね決まっていると私は思う。(個人的には分の1.5倍〜2倍ページ分ぐらいが適切、10分なら最大でも20枚には収めるべきだと考えている。)ただでさえ情報量の多いスライドを早口で説明されても人間の脳は処理できない。

 

そして、資料が膨大になってしまう人の特徴は、結局何が言いたいのかを十分に削ぎ落としきれていない。これが全てを伝えようとしてしまっているということである。

 

例えば、自分が携わったシステム開発の成功プロジェクトについて発表するとしよう。プロジェクト自体について詳細に紹介したい人もいるだろうし、プロジェクトを成功に導いたチームの能力をアピールしたい人もいるはずだ。あるいは、開発したシステムそのものの凄さを訴求したい人だっている。

 

でも、これら全部を話そうとすれば、浅い部分を掻い摘んで説明することになるか、膨大な資料を早口で説明することになるかのどちらかのパターンになる。いずれにせよ、プレゼン全体としてよく分からない印象になるだろう。よって、プレゼン資料全体としての伝えたいメッセージがシンプルでなければならない

 

じゃあ、初めから伝えたいテーマを小さく絞り込んで資料を作りこめば良いのでは?と思う人もいるかもしれない。10分のプレゼンなら初めから小範囲のテーマで15枚のスライドを作れば良いのでは、と。

 

確かにプレゼンがプレゼンだけで終わるのならばそれでもいいのかもしれない。ただ、プレゼンには質疑応答がつきものだ。聴衆からの質問は未知の世界、なのでやはり初めはあえて範囲を狭く絞らず発表内容を検討しておくべきだと思う。できることなら一度資料として作っておくことが望ましい。

 

発表に関係のない部分でも一度資料化・可視化しておくと、頭の中は結構整理されるもので、ゼロの状態で答えるよりもはるかに説明がしやすい。また、参考資料という形で残しておくこともできる。

 

また、複数の発表案から一つをテーマとして決めるためには、そこに合理的あるいは感情的な理由が必ず存在する。だからこそ自分に納得感のある発表になり、結果として質の良いものができる。これが「何を伝えたいのかを”選択する”」ことのもう一つの意味である。

 

プレゼンの極意なんて大それたタイトルをつけたけれど、この文章は果たしてわかりやすく書けているんだろうか。。。

煩雑さを求めたりシンプルさを求めたり

「Webブラウザ」が無くなろうとしている。もちろん、私はプライベートでもバリバリPCを使っているので、ブラウザを使わない日はない。PCユーザーにとってはまだまだWebブラウザは重要なものである。

 

しかし、若い世代、スマホユーザにとってはどうだろうか。

 

もう少し前であれば、スマホからGoogleのトップ画面を開き、そこに文字列を入力して検索、そして目的のWebサイトに到達する、という流れが主流だったと思う。Google検索エンジンがあらゆるWebサイトとのインタフェースであったのだ。

 

でも、今は違う。例えばスマホFacebookを見たいと思ったときどうするか。Googleを開いて、「Facebook」で検索?もうそんなことをする人はいない。スマホにインストールされているFacebookのアプリを開くだけである。

 

今はあらゆるWebサイトの提供側が、そこに直通するアプリを開発している。Webサイトごとに入口となるアプリを自分のスマホの中から見つけ出さなければならずに煩雑であるはずなのだが、なぜか今はこの流れが主流である。Webサイトごとに異なるアドレスを直接入力するのが煩雑だったからブラウザという仕組みが生まれたはずなのだが。

 

この現象が示唆するところは二つある。

 

一つは、所持しているアプリがその人の個性を表す象徴となりつつあること。つまりはファッション化しているのだ。

 

例えば、洋服ももともとは、暑さや寒さを凌ぐためのものでしかなかったが、現代では完全にファッションとしての側面の方が大きい。言い方を変えれば、無くても別に困らないものがほとんどなのだ。

 

スマホのアプリも無くても困らないものになっている。別にFacebookInstagram食べログホットペッパーもブラウザ経由で閲覧することはできる。でも、そういう色んなサービスをアプリとして保持していることによる喜びのようなものを人々は少なからず感じているんじゃないかと思う。

 

もう一つは、またこの煩雑を取り払うための機能が今後求められる可能性が高いことだ。今のように、一つのサービス毎にアプリをインストールしなければならなくなると、すぐに目的のサービスに行き着くことがやがて困難になる。

 

こうなると、昔のブラウザに該当するサービスが必要になることは間違いない。ここらへんは音声認識機能の進化に期待がかかることだ。実のところ、既にアプリの名前を伝えれば対象のアプリを探すことなく起動することはできる。でも今はまだあんまり使われてないんじゃないか。

 

こうやって、時代によって煩雑さを求めたり、シンプルさを求めたり、真逆の方向に向かっていくさまはなんか面白いなーと思う。

ゴールが見えたプロジェクト

仕事というのは2種類に分別される。一つはルーティンワークと呼ばれるもの。接客業とか販売業がそれにあたる。毎日毎日同じ仕事をひたすら続けるのだ。彼らは、小さな価値を毎日多くの人に届け、それらをひたすら積み重ねていく。

 

もう一つがプロジェクトである。プロジェクトの場合は限られた期間内に価値あるものを完成させ提供する仕事だ。時期によって仕事内容も変わる。プロジェクトの場合、1日だけの仕事には何の価値もない。ただ次の仕事に繋がるだけだ。そして、最終的に出来上がった完成品のみに本当の価値がある。

 

ルーティンワークには終わりがない。ルーティンワークが終わるのは、会社が潰れた時か自分が会社を去る時だけだ。変化のないルーティンワークをつまらないと感じる人もいるかもしれない。でも、ずっと今を続けていけることに安定や安心を感じる人もいると思う。

 

一方、プロジェクトには終わりがある。終わりのある仕事を「プロジェクト」と定義していると言ってもいい。会社が生き残っていようと、自分がそのプロジェクトにしがみつこうとしても、いつかプロジェクトは必ず終わる。プロジェクトには必ず期限があり、期限内に目的を達成しても達成できなくてもそこで終わりなのだ。

 

プロジェクトは変化があって面白い。一時的には退屈することもあるけれど、基本的に飽きることはない。予定調和な答えが導かれることも多いけれど、頭を使って最適解を考える機会もある。でも、プロジェクトは一時的なものでしかないから、期限が来れば何もかも変わってしまう不安定な仕事だ。儚さもある。

 

私のプロジェクトは終わらなかった。詳細設計まで完了したら、外部仕様が誤っていて、やり直し。期間が延びた。二回目の設計では別の機能追加も同時開発することになり、規模が拡大、当然また期間が延びた。

 

やっと迎えた試験工程真っ只中、お客さんの事業方針の変更により、今度は提携会社を変えることになった。さらに規模は拡大し、今度は要件定義からやり直すことになった。そして3度目の設計着手中、プロジェクトの中止指令が下ったのだった。ドストエフスキーの穴掘り拷問を受けている気分だった。クロージングを勧める中、途中で追加した機能追加分だけは継続して開発することが決まり、今に至る。

 

そんな激動のプロジェクト、初のプロジェクトも漸く終わりが見えてきた。

 

何かが終わる時、いつも嬉しさと寂しさの入り混じった複雑な気持ちになる。バスケ部の引退試合の直前とか、大学受験とか、あるいは大学院の修士論文提出、とか。やっとこのしんどい日々から解放される!という気持ちとは裏腹に、もう今までみたいなことはできないのか…という気持ち。

 

なんというか、1つの目標のために長期間努力をしていると、その努力自体に愛着が沸いてしまうからだろうか。あるいは、何かが終わる時は、大抵周辺の人間関係も変わってしまうからかもしれない。周りにいる人と「その後」の話をすると、「終わり」がより鮮明に浮かび上がる。

 

プロジェクトが終われば今のチームは解散になる。もちろん、追加の機能開発などがあれば継続して同じチームで開発をする場合も十分にあるが、今回はそれもない。また一緒に働きたいと思う人たちは既に異動が決まっている。

 

かくいう私も、別のプロジェクトにアサインされることになった。たぶん、これまでやってきたことのほとんどは役に立たない。0からのスタートになると思う。でも、少しは技術的な仕事に就けそうなので、その点については満足している。幸い、部署は変わらないため、評価がすべてリセットされることはないが、残念なことに相変わらず社会的意義は感じにくいかもしれない。

 

と、もう頭の中は少し未来のことを考えてしまっているがまだ今のプロジェクトが終わったわけではない。問題もまだ残っている。あともう一踏ん張りと思って頑張りますか。

未知性と偶然性をいかに取り入れるか

ITの発達によって、的確な情報が適切な人に適切なタイミングで届けられるようになったことは間違いない。

 

今や昔の話になってしまったが、ビッグデータによる解析技術は、今まさに欲しいもの・欲しい情報が個人の行動特性に合わせて通知することが可能になった。個々に合わせた情報を届けることができるようになったのは非常に大きな功績であると思う。

 

しかしながら弊害もある。特に、個々の興味にあった情報を届ける、というのは、人間の成長とか変化とかを完全に度外視している。結果として、人を、人の人生を固定化させてしまっているのである。

 

別に、固定化した人生が悪い、とは思わない。例として、イチローはかなり固定化された人生を送っていると思う。でも、それは誰かに固定された人生ではなく、自らの意志で固定しているからアリなのだ。

 

翻って、人生を固定化されてしまっている人もいる。例えば、RPGゲームのアプリをインストールしたとすると、あなたにおすすめのアプリとして、別のRPGゲームが勧められることになる。そのゲームをインストールすると、また別のRPGゲームが勧められて、といつまでも続く。

 

アマゾンのおすすめ商品も同じである。そして、勧められる商品を良いと感じる理由もよくわかる。でもそれは今まさにその瞬間を生きている自分にとって良い、ということでしかない。そして、それを選び続けることは、自分の人生をアルゴリズムに任せているのと同じである。

 

アルゴリズムは確かに高度なものになったが、あくまで営利目的、すなわち一番売れる確率の高いものが紹介されているに過ぎない。その商品を購入した結果、その人がどうなってしまうかとか、そんなことは一切考慮されていないのである。

 

一言で言うと、未知性とか偶然性を提供できない社会になっているのである。結果的に未知なもの、偶然の出来事に対して消極的になる人が多いと思う。でも、人間が変わったり成長したりするきっかけって、ほとんどの場合未知性とか偶然性によるものではないだろうか。

 

未知なものは既知のものに比べると怖いものだ。しゃべったことのない人よりもしゃべったことのある人としゃべる方が楽だろう。やったことのないことをやるよりもやったことのあることをやる方が楽だ。

 

しかし、どんな人だって、やったことのないことをやったから、今それが楽しいということに気付けたはずだ。中学、高校と成長するにつれて、得体の知れない人と偶然出会ったから今の友人がいるはずなのだ。人生が生まれた時から固定化されていれば、それほどつまらないことはない、と多くの人は必ず思うに違いない。

 

今の人生が最高だ、一生こんな毎日を続けていきたい、という人はずっと固定していればいい。ただ、予期せぬ偶然にいつかは必ず遭遇するため、それを受けて自分が変わらざるを得ないことには注意しなければならない。

 

今が退屈な人は未知性や偶然性を少しは取り入れていくしかない。なぜなら、既知の面白いことはそれほど面白くないことに変わりつつある、ということだからだ。あえてあんまり関心のないことをやってみる、とか全然知らないことをやってみる、とかそういう時間を少しは持った方がいい。かなりモチベーションのコントロールが難しいけれど。

 

ITとしては、長期的な目線にたったアルゴリズムができると面白いと思う。RPGゲームをインストールしたら、ゲームのし過ぎだから脳トレゲームを勧める、とか。家入一真が言っていたみたいに、アマゾンが「あなたは絶対に読まない本」を勧めてきても面白い。私なら絶対買ってしまう。

 

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人海戦術が質を決めるものは面白くない

私は人海戦術が通用するものが好きではない。質を量で補完できてしまうもの、と言ってもいい。これらのものは上手く言い表せないが面白くないし、フェアでないように感じる。

 

人海戦術が通用しないものとは、例えばスポーツである。どんなスポーツでも必ずコート上の人数が決まっている。野球なら9対9、サッカーなら11対11、バスケなら5対5である。こういう制約のもとに対決をするから勝利に意味があるし、勝利したチームの強さ、能力に説得力がある。

 

ただ、もしスポーツが人海戦術が通用するもの、すなわち、何人出場してもOKだったらどうなるだろう。人数が多いチームが勝利する確率が極めて高くなるだろう。ただ、大勢で勝利を掴んだチームのメンバが果たして能力が高いといえるだろうか。高いかもしれない。でも、大した能力がない可能性の方がはるかに高い。これでは面白くない、だからスポーツには人数制限があるのだ。

 

アートの分野も人海戦術が通用するものではない。例えば、プロの作曲家1人が作った曲より、100人が集まって考えた曲の方が良い、という可能性はかなり低い。小説も絵画も、沢山の人が集まって書いた作品の方が良い、ということにはならない。

 

せいぜい、同じ時間に沢山の曲を作ることができたり、沢山の絵画を描くことができるだけである。そして、アートというのは量ではなく質で評価されるため、人海戦術は通用しないのだ。

 

実はこれらは私たちが学生の頃によく触れていたものである。逆に言えば、学生の頃にやらされる種目はほとんど全てが人海戦術の通用しないものだった。絵をうまく書けた人には美術の成績が良いし、リコーダーが上手く吹ける人は音楽の成績が良い。これらは全て個人の能力のみ評価される。そもそも「テスト」という仕組みが個人の能力を測るものでしかない。だから、学生時代は個として突出しているだけで勝てるのである。

 

ただ、社会に出ると、これが180度変わる。企業の売上ランキングを見ればすぐにわかることだが、上位にランクインする企業は必ず社員数が圧倒的に多い。言うなれば、学生の頃は100点を取ったやつが文句なしの1位であったところが、30点を取ったやつが5人集まって総得点150点ならそっちの方が上、という扱いになるのだ。

 

システム開発もはっきり言って人海戦術的な仕事だ。確かにプログラマーの生産性は優秀な人とそうでない人とで10倍以上もの差があると言われる。でも、ビジネス的には、優秀なプログラマーより単価が10倍安い要員を10人外注すれば何の問題もないのだ。

 

また完成するシステムの質もコーディングの量に依存する部分が大きい。建築であれば、物理的な大きさを持っているため、単純に規模が大きいことが良いこととはならないだろう。

 

しかし、システムの場合、特にビジネスロジックの関する部分は人間には見えない部分のため、いくらでも規模を増やすことはできる。もちろん、効率的に少ないコーディング量で作り上げるのが理想ではあるが、コーディングの量を増やすほど機能を充実させることはできる。

 

結局量が質を決めてしまうため、個人でプログラミングを行うのはかなりの覚悟が必要である。私もアプリを開発しようと思っても、他のアプリ(会社が作っているようなもの)を見ると、モチベーションが一気にそがれてしまう。このレベルのものを一人で作ろうとすると途方もない月日が必要だし、かといって個人でできるレベルのものを作っても自分の作品としては納得がいかないものになってしまうからだ。

 

それこそプログラミングが自動化されるぐらいに技術が進歩して、それこそ個人でも完成度の高いシステムを作れるような時代になった方がいいなぁと常々思う。

どちらが勝ち組か

同じチームの中に15年目ぐらいの先輩がいる。その人は仕事は最低限だけこなし、プライベートを充実させるタイプの人である。役職も平社員の一つ上(今年度終わりに私に付く役職)であり、仕事の役割もリーダではなく、メンバに留まっている。仮にAさんとしておく。

 

片や同じ担当の課長に15年目の先輩がいる。極めて優秀な人らしく、最短コースで課長というポストまで上り詰めた人である。そのぐらいの年次になると、年功序列型の会社とは言え、ポストに大きな開きが出る、ということだろう。この課長はBさんとでもしておこう。

 

この二人が同期であることが判明してからは、BさんはこんなにすごいのにAさんは・・・と対照的に語られることがよくある。確かにBさんは仕事のほとんどを適当にこなしているように見えるし、はっきり言ってあまり一緒に仕事をしたいと思っている人は少ない。結果的にBさんは勝ち組、Aさんは負け組のように片づけられる。

 

でも、私はAさんの人生はとても充実していると思う。仕事の中で自己実現、みたいな感じではないし、あらゆるしがらみをもろともせず、自由奔放に振る舞っている。特に大きなプレッシャーにさらされることもなく、安定的に給料を稼いでいる。

 

仕事は最低限にこなす代わりに、趣味のフィールドでは、一流のプレイヤーとして今も全国的に活躍しているのだ。好きなことに対しては本気であり、周囲からも認められる存在なのである。

 

もちろん、社会的な地位やお金については、Bさんに比べて劣っているかもしれない。でも、Bさんがそれらを得るためにどれだけのものを犠牲にしてきたかを考えると、一概にどちらが勝ち組とは言えない気がする。

「はず」

「・・・であるはずだ。」英語ではmust。強めの推量を表す言葉である。断定ではないが、それに限りなく近い可能性で正しい場合に使う言葉だ。本来は。

 

ただ、ビジネスの現場で「はず」という言葉ほど当てにならないものはない。「レビューをしたから修正は要らないはず」とか、「既に試験はやっているからバグはないはず」みたいな表現を使う人は多いが、実際には問題が潜んでいることが多い。そして、問題の検知が遅れることも多々ある。

 

「はず」という言葉は乱用されがちである。というのも、「はず」というのは日本社会においては非常に便利な言葉なのだ。なぜなら、「〇〇なはずです」と報告をすれば、受け手に対してはさもそれが正しい情報のように伝えることができる一方で、発言をした方からすればあくまでも強い推量でしかない。つまり、間違っていたとしても嘘は言っていない、と責任逃れが可能なのだ。

 

「はず」という言葉を使うぐらいなら、事前に確証を取って断定表現を使うべきだ。もちろん、全てのことに対して自分で確証は取れないし、特にマネジメントをする立場からすれば、他人がやった作業全てを把握できるはずもない。

 

ただ、自分が確信できるまでチェックできていないことにより、「はず」という言葉が口から出てしまうのであれば、それは管理不届きでしかない。だから、私は他人が使う「はず」という言葉はあんまり信用しないようにしている。

 

かくいう私も最近は「はず」という言葉を使う頻度が増えてきているように思う。ついつい、「はず」という言葉を使ってしまっていないか、振り返る必要があるだろう。

この世で一番必要のないもの

この世で一番必要のないものと聞いて、私がパッと思いつくのは酒とタバコである。

 

私はお酒も飲むし、タバコも吸う。でもその上で、この二つは別に無くても困らないだろうと思っている。特に酒については一人の時はほとんど飲まないし、皆が飲まないなら飲まなくても平気だから、私にとってはタバコと同じくらいに不要である。

 

こんな風に「酒」と「タバコ」を並列で語ってしまうと、大抵反感を喰らう。Yahoo知恵袋で「タバコって何の役に立つんですか?」という質問に関しては、「何の役にも立ちません。」みたいな回答が多数を占めるのに対して、「酒って何の役に立つんですか?」という質問に対しては、ほとんどが否定的な回答だったりするのも結構面白い。

 

酒とタバコの善悪を明確に分けるロジックはほとんどの場合、健康に良いか悪いかによって語られる。酒は適量の場合は健康に良いという説があるが、タバコというのは1本吸った時点で、自分だけでなく周りの人の健康まで害してしまうからである。

 

でも、実際問題酒を健康に良いレベルで留めている人ってどのぐらいの割合なのか。少なくとも、私はお酒を飲む日は必ず適量以上飲んでいる自覚はあるし、男社会で生きてきた体感としては8割ぐらいの人が飲みすぎている。つまりお酒は健康に良いから良い、という説明は間違っていることになる。

 

それは適度に抑えられない人間が悪いのであって、お酒のせいではない、という人もいるかもしれない。ただ、お酒が生まれてから何百年何千年も経っているのにも人間が制御できないのであれば、それはもはや人間のせいにしている場合ではないだろう。アルコールにもタバコと同じように依存性があって、そもそも制御すること自体が難しいものなのだ。

 

ただ、お酒は周りの人の健康に被害は与えない、そういう意見も最もだろう。ただ、お酒が原因で周りの人に迷惑をかける人は沢山いる。それは小さなものから大きなものまで様々だ。タバコが与える影響はすべて微小量が積み重ねられていくのに対し、酒が与える影響は時にはいきなり人の死を招くレベルに発展する場合もある。これは種類の違いであって、どちらが良い悪いと押し並べて比較することはできない。

 

本質的にタバコは不要で、お酒は必要だと考えられてしまう原因は多数決の原理にある。だってお酒全く飲めないって人よりもお酒好きな人の方が多いでしょ。一方で、タバコを吸う人はタバコを吸わない人に比べて少ない。だから、論理性など関係なく、Yahoo知恵袋のような結果になるのは当然である。

 

お酒を飲めない人にとって社会というのは凄く生きづらい場所だ。皆が集まるコミュニケーションの場というのは必ずお酒が介入してくるし、お酒を飲んでいる相手と素面の自分ではテンションやノリが全く違う。気分を害したり疲れることの方が多い。かと言って飲み会を避けていると、人間関係はどんどん疎遠になっていき、仕事なんかでは最悪の場合、出世にも響くかもしれない。でも、子供の頃はお酒なんてなくても楽しいコミュニケーションが取れたのでは?と思っているに違いない。

 

タバコを吸わない人にとっての社会も同じことだろう。皆が集まると、必ずタバコを吸うやつがいるし、副流煙に晒され、当然健康を害されることになる。とは言え、集団を避けていると、人間関係は疎遠になる。タバコなんて吸わなくていいじゃんって思っていることだろう。

 

という風に、実は酒もタバコも本質的には何も変わらない。ただ、私がタバコよりもお酒の方が要らないと思うのは、酔っている時も翌日も全く人間として使い物にならなくて、生きている心地がしないからである。私にとって二日酔いの日は「死んでいる」のと同じ状態で、それはタバコが削っていく寿命と比べて、果たして少ないといえるのだろうか、と思うからだ。

異常者から見た世界

人間というのは社会の中で強制されていく生き物だ。ある組織の中に身を置くためには、その組織の価値観、考え方に自分を合わせていく必要がある。世間の常識からあまりにかけ離れた考え方・行動は納得されることはなく、相手の価値観で納得のいく理由が求められる。そういう権利があるものとされている。

 

普通は異常よりも偉いものとみなされる。例えば、30歳半ばまで恋愛経験がないとか、30歳半ばなのにアルバイトで生活しているとか。かと思えば、医学部の学生なら仕方ないとか、留年はダメだけど、浪人なら仕方ないとか。とは言え、3浪以上になるとやっぱりそれはやばい、みたいな。

 

世の中には「普通」という基準がどんな行動や考え方にもぼんやりと設定されていて、それに反するものは徹底的に理由を求められ、他人に干渉され、見下され、否定される。

 

私は結構昔から、他人(特に親)に自分の自由を侵害されないように生きてきた。勉強ができる人間であることをキープしていたのも、いい高校やいい大学にいるだけで、色んなノイズを減らすをことができるからだ。人は自分の能力に満たないと判断している人に対しては、偉そうにアドバイスをしたりと干渉してくるが、自分の理解を超えるものについてはほとんど介入してこないのである。

 

もちろん、全く干渉しないわけではない。人より優秀であるということも、普通に比べて異常であることと変わりはなく、その理由に土足で踏み込んでくる人は沢山いる。そして、皆が勝手に納得のいく理由を求め、納得できない理由は歓迎されない。

 

ただ、人に比べて無能だと判断されると、理由を聞かれた上で、こうした方がいい、こうするべきだと、聞いてもいない普通の価値観を押し付けられることになる。普通の人たちはこれを善意でやっているつもりなのだろうけど、相手からしたら迷惑でしかない。意図的にそういう異常な状態を選んでいる人だっているのだ。

 

でも、社会と繋がるためには普通でなければならないのである。ことのほか、民主主義のこの国では多数決が正しいからだ。

 

独創的なアイデアやカリスマ性が求められているというのは、机上の空論で、そんなものは日本では求められていない。真っ先に排除されるのがオチだ。リーダー不在を問題視しつつ、実はリーダーという異常な存在を忌み嫌っているのが日本人なのだ。 

 

最近のグローバル化の流れで多様な価値観がキーワードになっているが、多様な価値観だって、日本人の考える「普通」の価値観から大きくはみ出さない価値観でなければ多様性は認められない。外れすぎた人は全員から扱いづらい人のレッテルを貼られ、遠ざけられるのだ。 

 

本当に普通の人は、上記のような感覚を抱くことはないのかもしれないけれど、ミクロな場面では、自分が異常者側、ということもきっとあると思う。そんな異常者側から見たこの世のリアルがこの作品には表現されている。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

負債との向き合い方

近年の人々は刹那的に生きるようになったと思う。時代の変化が激しくなったこととも関係しているのかもしれない。何十年も先のことを考えるよりも、目先にある2、3年、あるいは今を大切にする生き方を志望する人が増えたのではないだろうか。

 

仕事をしていても思う。なんというか、「今の開発を乗り切ればいいんでしょ?」みたいな人が圧倒的大多数で、その後のことは後の人が頑張れば?みたいな感じに考えている。こんな設計にすると維持が大変になることはわかっているけれど、今大規模な修正が入るのは大変だから、今回は暫定対処としましょう、みたいな。

 

日本という国に生きていても思う。奨学金が、とか待機児童が、とか色々問題はあるのだけれど、それに対して施策をうつのであれば、お金がかかる。知っての通り、日本は借金大国だから、そんな財源はどこにもないのである。昔、ビートたけしがとあるCMで言っていたように、今日本が豊かに見えるのは将来の分を先に食いつぶしているだけなのだ。

 

なぜ、私たちがこんな風になったのかと言えば、たぶんそれは私たち自身がそうやって過去の負債を押し付けられてきたからだと思う。少し前に上がった消費税だって、本来私たちの世代が払っているのはおかしいし、年金を普通に払っているのに、将来はもらえないかも、なんてのもおかしい。

 

やっぱり仕事でもそういうことはよくある。なぜ過去の開発の時にこんなめちゃくちゃな設計にしているんだ、とか設計書に記載がないじゃないか、なぜソースがちゃんと管理されていないんだ、とか言い出すとキリがない。本来なら今回の仕事の範疇ではないはずの仕事が大量に潜在しているのだ。

 

しかし、国も仕事も過去が完璧であるはずがない、と思った方がいい。というよりも間違っていることの方が多いと言っても過言ではない。すなわち何かを始める時点で、既に一定量の負債を抱えているのである。

 

あくまで姿勢としては、過去の負債を背負いつつ、未来への負債をなるべく残さないようにしないと、いつまでたっても負の連鎖は断ち切れない。