∑考=人

そして今日も考える。

コンビニの24時間営業どうなる?

コンビニが24時間営業じゃなくなったら、果たして今の人たちはそれを「コンビニ」と呼ぶのかね。

 

business.nikkeibp.co.jp

 

私は別にコンビニを24時間続けるべきか続けないべきかというのは正直どっちでもいいんだけど、こういう議論を考える時に意識しておくべきは、どの立場で考えるべきのか、ということなんだよね。

 

例えば、「消費者」の立場で考えると、24時間あった方がいいのは明白なわけ。別にほとんど深夜帯にコンビニを使わない人からしても、深夜に空いている方が便利だし。元々のコンビニって実は一般家庭にある「冷蔵庫」の代わりを目指してた、なんて話もあって、いつでもどこでも使えることの価値はやっぱり消費者にとっては大きい。

 

コンビニ近辺の住人と言う立場で考えてみると、例えば、深夜にコンビニにたむろする輩が迷惑だからやめてほしいと考える人もいる。あるいはコンビニの店長(フランチャイズの加盟店側の人)からすると、従業員が集まらないとか、売り上げが上がらないとかそういった課題もあってやめたいと思っている人もきっと存在する。

 

私は社会的にどうなのか、というのを考えるのだけど、コンビニってもうこれ以上いらないし、別に24時間営業である必要もない。深夜に限らずだけど、コンビニで働いているオッサンとかをみると正直可哀想だし、虚しい。だってその仕事って意味あるの?って思うから。誰でもできるし。何の価値もないって言ったら怒られるかもだけど、ただだの物流のチャネルでしかないわけで。

 

実際、最近のコンビニの店員ってほとんどが中国人とかインド人とか海外の人で日本人なんてほとんどいない。これって要するに、コンビニ競争が激化しすぎていて、日本人を雇っていたら売上を確保できないことと、別に海外の人でも何の悪影響もなく営業が回せる、という二つの事実を証明しているのである。付加価値の低い仕事は人件費の安い国にアウトソーシングされていくのが世の常なので、つまりはそういうことなのである。

 

最近、仕事柄、「価値のない仕事をいかにして無くすのか」ということを考えている身としては、コンビニ店員もやっぱりなくなっていくべきだと私は考えている。でも、それをただ24時間営業を無くしましょう、という方向は明らかに時代に逆行してるんじゃないかな。少なくとも、コンビニが「社会インフラ」を掲げてこれまでやってきた理念とは逆行している。ただの営利活動だ。

 

どちらかといえば、テクノロジーの力で解決してほしい。少し海外に目を向ければ「無人コンビニ」みたいなものは既に運用されていて、それらが実現できれば、別に夜間帯に開けていても、利益としては若干のプラスにできる見込みは十分にある。そういった取り組みを推めていくべきだ。

 

とは言うものの、「価値のない仕事」を無くすというのは現実、すごく抵抗を受けるのも事実。これまで価値のない仕事をやってきた人はこれからどうすればいいの?、という主張だ。こういう人は可哀想だけれども、テクノロジーを進化させる人やビジネスを生み出している側の人たちは容赦なく切り捨てていく。だって、自分たちが勝てなくなるから。

 

コンビニは無人化して、24時間営業は継続するべき。

地方創生のカギは

まだ、人増えるのか、東京。

www.sankei.com

 

都会への人口一極集中が目立っている。福岡を除けば転入が転出よりも多いのはほとんどが東京、もしくはその近隣の都道府県という結果だ。私もつい数年前に上京して来た身ではあるけど、これ以上東京に人は増えてほしくないと思ったり。

 

まぁなんでこんなに東京に人が集まるんや?という一番の原因はやっぱり東京に仕事がたくさんあるから。東京への憧れ〜とか、都会は便利〜とかももちろんあるんだろうけど、昔ほど東京に拘る必要もないご時世じゃないだろうか。私も大阪と京都で暮らしてたけど、別に東京の方がすこぶる便利とも面白いスポットがたくさんあるともあんまり感じていない。

 

じゃあそんな私がなんで東京に来たのかっていうと、たまたま行こうと思った今の会社が東京にあっただけで、それ以上でも以下でもない。というわけで、一般的に見ても、仕事の数がキーファクターなのかなと。

 

そもそも桁違いに新卒を採用しているような大きい会社はやっぱり東京に本社を構えているのが普通で、その求人数のうちほとんどが本社勤務になる。と考えれば、少なくとも、大企業の採用人数の合計値の5〜7割ぐらいは東京に流れ込む計算になるのだ。ざっくり毎年300人ぐらい採用する会社が東京に100社ぐらいあるとすると、それだけでも2万人ぐらい。意外と全体の2割しか占めていないのが引っかかるけれど。残りの層もやっぱり仕事目当てなんだろうか。

 

こういう背景もあって、最近はやたらと「地方創生」というキーワードを聞くようになった。要は、東京ばかりに人を流出させるのではなく、地方の人たちを増やしましょう、ということだ。増やすために何をやるのかは大きくは2つ、地方で育った人が地方に留まるようにする、都心部から地方に来る人を増やす、というのが私の理解。

 

でも、なんで地方の人を増やさなくちゃいけないのか。この点はちゃんと説明されているのかね。

 

一般的な意見を要約すると、「地方に住んでいる人が困るから」という理屈みたい。そりゃ困るでしょ。地方に人がいなくなるということはそこに市場としての魅力がなくなるということ。例えば、コンビニを設置しようとしても商品が売れない、利益が出ない。そんな状況が続くとどうなるか。企業としては撤退せざるを得ない。

 

すると、ますます不便になって、人がより便利な都会へ移り、さらにビジネスは縮小し、と負のスパイラルが生まれることはもちろん、新しい価値を創造していく人たちすらいなくなってしまい、詰んでしまう、というわけ。残った人は否応無しに生活水準の高い都会に行かざるを得ない、という現象が起こる(というか既に起こりつつある)。

 

上記のようなことをマズいと政府は判断しているわけだが、これって実はビジネスとは対極にある考え方。つまり、ビジネス的に考えるとマズいとも言い難いのだ。

 

ビジネス思考で合理的に考えると、地方の人がいなくなった方が実は効率的だし、物流コストも移動コストも下がる。人の数に比例してイノベーションの起こりやすさも上がるので、ビジネス的には良いことの方が多い。そして、何よりビジネス思考では、弱者が淘汰されることで全体としての価値は上がるという思想が根底にあるので、衰退は仕方のないことだという割り切りがある。

 

一方で、地方創生を考える人は全く合理的ではない。(別に合理的じゃないことが悪いと言いたいわけではなく。)例えば、地方特有の文化がなくなってしまうことを懸念する声もあるけど、単純に「文化に触れたい人」よりも「生きるために仕事をしたい人」の方が多いという結果が現代社会なのだ。

 

つまり、文化に価値を感じている人って割合で言うとそんなに多くないってことでは?という話。資本主義が加速する中で昔のようなゆとりは持てなくなってきているのだ。文化はなくても困らないけど、仕事はないと困る。

 

ってなわけで、地方ならではの産業創出を支援する施策なんかが進められているみたいだが、正直に行って地方単体で創出する産業が東京に勝てるとは到底思えない。まず情報量が違うし、スピード感も違う。東京のフィールドで地方が戦うのはどう考えても難しいんじゃないだろうか。

 

ではどうすべきなのか。

 

地方が何をすべきなのかは一旦脇に置いておくと、私が地方創生にとってもっとも良い対策と考えているのは、「超大企業が地方に移転すること」である。なぜなら、上述の通り、結局は企業の求人数によって大方の人口は決まるから。例えば、大企業だと、本社が移るだけでも、数千人、下手すれば1万人規模の人たちが地方に転入することになる。

 

もし、デカい会社が「来年から本社を地方に移します」という宣言をすれば、それをビジネスチャンスと捉える企業群は確実に存在する。周辺に食べるところがないのであれば、レストランを出店しようとか、そもそも住むところがないから都市開発を進めようとか。そうすると、それらの将来の市場に群がる人たちも地方に移ることになる。企業に群がって人が東京へ行くのだから、企業を地方へ移せばいい。というのが私の答え。

 

ネックなのは、どの会社も本社を地方に移さない、というところにある。少なくとも今時点では高い土地代を払っても、やはり会社は都会にあった方がメリットが大きいのだ。

 

しかし、これを進める一つのポイントになるのが、これまた注目を浴びているリモートワークという働き方である。これが今よりはるかに進むと、「本社を東京におく意味あるのか?」ということに疑問を持つ人は確実に増える。

 

どのくらい進めば良いのか。というと、対面の打ち合わせが完全になくなるレベルだ。会議は全てテレビ会議、仕事の指示はメール、ライン、スカイプ、スラックなどのツール。「もう対面で一緒に仕事をする必要がない」という実績が積み重なれば確実にそうなる。

 

地方としては大企業でリモートワークが推進されるのをただひたすら待つしかないのか。逆に大企業の動きを逆手に取れるのが一番理想的だと私は思う。つまりは、地方発信でこういったリモートワークの仕組みを構築するのだ。

 

理論的にはできないことはない。今やネットワークで全世界と簡単につながることができるわけだし。北海道が青森と協力してもいいし、大分と協力してもいい。地方単体では数の利で完全に東京に及ばないが、複数の地方が連携できれば、それほどイノベーションの質は遜色ないレベルに引き上げられるのでは。

 

地方に仕事を創るのであれば、今の便利すぎる東京ではできない、地方だからやらざるを得ない新しい働き方の叩き台を創ってほしいと私は思う。

電子書籍のデメリット

私ごとではあるが、最近は紙の本を買う機会はほとんどなくなった。世論的にも20代、30代など比較的若い層の人たちはすでに紙の本よりも電子書籍をたくさん利用しているというアンケート結果すらある。実は購入されているのは漫画がほとんどだったりするのだけれど・・・。

 

電子書籍はカバンがかさばらないし、いつでもどこでも読めるという非常に便利な点が良い。ちょっとした待ち時間とかにサッと情報にありつける。そういった理由で電子書籍を購入する人も多いと思う。

 

ただ、個人的には本格的に読書を電子書籍に切り替えてから、感じているデメリットも存在する。

 

1.読破率の低下

電子書籍で購入した本は、購入した時に一気に読み切る、くらいの気持ちで読まないといつまでたっても読まれない積読本としてSDカードの容量をただ逼迫していく。下記のリンクでも、読了のプレッシャーがないとして紙の本に劣っていることが紹介されていた。

 

 

紙の本であれば、読みかけの本は家の中のすぐに目につくところに置かれるので、今まさに読まれていない本がそこにあること(臨済性)を感じやすいのだが、スマホの中に入ってしまうと、読んでいない本がリアルに感じられないのだ。よほど楽しみにしていないと読むことを途中で放棄してしまう。

 

2.記憶に残らない

電子書籍で読んだ本はあまり長期的な記憶として定着しない。本に書いてあったことを覚えていない、というよりはどんな本を読んだのかを覚えていないことが多い。なので、この本面白そうだと思って購入しようとすると、実は一年前に買ってました、みたいなことがままある。

 

電子書籍というのは全てが視覚情報として覚えているために記憶が定着しにくいと私が思っている。例えば、紙の本であれば、本のデザインはどうで、厚みや大きさがどのくらいで、ハードカバーなのかソフトカバーなのか、などといったことを触れて感じることができたりする。だから、「どんな本か」を考える時に「その本」のイメージを描きやすいのだ。

 

しかし、電子書籍は「本」を「Kindle上のデータの一つ」に変えてしまったのだ。もちろん、まとまりはあるのだけれど、そこに対するイメージのほとんどは文字情報だけでデザイン性が失われているために、どんな本読んだっけ?となるのだ。

 

電子書籍で本を読む際はこういった点に注意しよう。

両面性を持つ人たち

たまーにツイッターとかを見ると、未だにツイートをしている昔の友人たちがいることに驚いたりする。こんなの何のためにやってんねん、とかいつまでやっとんねん、みたいに思うこともあった。

 

でも、実は未だにツイッターを続けている人って、たぶん思考能力の高い人なんじゃないかなー、というのが私の仮説だったりする。正確に言うと、オフィシャルな場で生きる時の自分と、プライベートな場の自分が乖離している人たちが多いんじゃないかな、と感じたりする。

 

というのも、もはやほとんどのツイートには、返信もリツイートもついていないわけで。SNSと言えばコミュニケーションツールというイメージがあるけれど、ほとんどコミュニケーションは成立してないわけで。今、コミュニケーションツールなんてLINE使っとけばいいわけで。

 

ということから考えるに、彼らはおそらく、誰かにそのツイートを見てもらうことを期待しているわけでもなく、ただ自分の思考の軌跡を残しておく、という感覚に近いのだ。なぜ、そんなことをするのかというと、人間は本能的に自分が生きた証を何かしらの形で残したいと思っているからだ。

 

もちろん、自分が考えたことを残したいとか、そういう本能は全ての人に宿っていると私は思っているんだけど、自分の考え方や関心のポイントが社会とある程度一致している人はオフィシャルな場である程度発信できたり共感されたりする機会が多いので、そういう欲求が満たされる。よってわざわざ別に文字にして起こしておく必要がなくなる、というか。

 

で、社会とある程度一致できる人って、思考をあまり働かせなくてもできる浅い会話だったり、すごく一般的に受け入れられやすい話題で頭の中がいっぱいな人、とかあるいはすごく狭い世界の中で生きていて他に関心のない人、と私は思っている。彼らは知識はあるかもしれないけど、思考力はそんなにない。

 

逆に、思考力が一般に比べて高いと、自分の思考を吐き出す先がなくなってしまう時がある。だから、人にぶつけるのではなく、データとしてプラットフォーム上に残す、と言う行動を継続する人は思考力が高い、というのが私の論理。

 

闇雲にツイートする人たちをディスの視点で見ていたけれど、実は私がブログを書いているのと本質的にはほとんど変わらない。

 

では、私がツイッターで自己発信をするではなく、ブログを書くのはなぜなのか、というとやっぱり匿名性みたいなところ。例えば、フェイスブックとかにひたすら自分の考を投稿する人とかもいるんだけれど、あーいう人は昔の自分っぽくて好きになれないというか笑。「あいつ何かイタイよな」みたいに思われながら生きるのはまだしんどいと考えているんで。

 

あとは、別の側面の自分をオフィシャルにぶつけた時に、実は自分の共感者が友人の中にいて、より良い人間関係みたいなものを構築できる可能性は確かにあるんだけれど、そういう「ブログ」の私だけで共感されるのはそれはそれで困ったりもする。例えばだけど、一緒にパチンコ行ったりできないだろうし。

 

私は常に両面性を持つことは結構意識していて。つまる話がブログに書いている私が私を構成する100%の私ではないわけで。語弊はあるかもしれないけど、二重人格みたいなもの。関西弁でバカな事を考えたりしょーもないことをする私はこのブログにはほとんど登場することはないし、思考力を働かせて標準語で考えたり書くことは、仕事の時とブログ書く時ぐらい。どっちが本当の自分なのか、という論議にあんまり意味はない。

 

要は、人間誰しも色んな面を持って生きているってことで、その乖離が大きい人ほど、ネットに発信するんじゃないかなーという話。

優秀な人とそうでない人のシンプルな違い

「やり方を教えてもらっていないのでできません。」

 

「まだその業務は引き継がれていません。」

 

すぐにこんなことを言う人があなたの会社にもいないだろうか。私はこの手の人たちが苦手、というかはっきり言って嫌いだ。私だってやり方を教えてもらったことはないし、全ての業務をちゃんと引き継いでもらった覚えもない。それでもやっている。

 

新入社員ならまだいい。けれど、年配になってもこういうスタンスから抜けきれない人たちが驚くほどに多いのが実状である。そして、責任者になった時ですら、引き継がれていないことを嘆き、過去の担当者の愚痴を吐いたりする。

 

私は年齢関係なく、彼らのような人を無能だと思っている。なぜ、無能と言えるのかというと、自ら学ぶ気が全くないからだ。もし学ぶ気があるんなら、自分でやり方を調べていただろうし、それでもわからないならやり方をわかる人に聞いている。そして、自分ができるために必要な情報を手に入れる。これが勉強する、ということだ。

 

そして、優秀な人は例外なく勉強している。

 

もちろん、立場によっては必ずしも自分が理解することを求められないように感じられる場合もある。特にSIerと呼ばれる我々のような業種では、技術的なことは下請けのベンダがやってくれるので、特に仕事のアウトプットに自分たちの理解は必要ないと錯覚することもある。「丸投げ」と揶揄される、ただの伝書鳩のような人であっても、意外と現場の人の頑張りでチームとしては成果が出たりするから尚更だ。

 

しかし、こういう環境に甘んじて何もしない人はやっぱり無能である。理解するべきポイントは異なっていても、自分が理解しなければならないポイントは必ずある。それを見つけなければならない。それがないなら、その人の存在価値はない。

 

そういう人は、ビジネスに対して貢献する余地が全くないので、何も勉強する必要がないと勘違いしているのだ。結果的に何にも成長しないし、誰の役にも立たない。せいぜい労働力の足しになるかならないか、そんな程度だ。

 

他にも、今自分のやっている仕事が将来役に立たない、とか自分の関心と違うから、と学ばない人もいる。このケースは年齢にもよるだろうし、どこまで極めるのかという話もあるけれど、やったことがないならやってみた方が良い。私はどんな仕事でも人並みにできることを目指している。飲み会の幹事はやらないけれど。

 

関心がなくてもやった方がいいのは、結局「勉強」自体を勉強することにつながるからだ。

 

学生の頃、「こんな勉強が何の役に立つんだ?」と思って勉強してこなかった人と、「いつか役に立つかも」と思って勉強してきた人。10年、20年後、この二人どう違っているのか。

 

微分積分ができる、化学式を覚えている、英文法が使える。もしかすると、そういう違いも多少はあるかもしれない。でもそんなのは微々たるもんだし、日頃使っていない知識は月日とともに必ず忘れていく。私ですら、もう積分の公式とかほぼ忘れた。

 

では、本質的な違いは何か。それは、「勉強の仕方を体で理解している」こと、しかも、「目的達成のための勉強法を知っている」ということだ。勉強で学んできたこと自体はたいして重要ではない。

 

逆に「おれは学生時代勉強してきたから優秀なはず」という考えも捨てた方がいい。というのも、学生時代の勉強は正解をいかにして早くインプットするか、が重要であったのに対し、社会人ではいかにして正解を定義し、アウトプットを作るのか、が重要になるからだ。当然、勉強の方法論も結構違う。

 

 だから、社会人ならではの勉強法は社会人になってから身につけなければならないし、そのためには日々の中で勉強する姿勢が必要なのだ。それが、後々成果を出せる人と出せない人の差につながる。

何がAIの価値を決めるのか

前回、AIの進化に伴って、言われたことだけをやっているサラリーマンはいなくなる、というエントリを書いた。もう少し言えば、抽象的な指示を具体的に落とし込む(今ではそれなりに優秀だと考えられている人)たちの仕事が奪われてしまう、という内容にしたつもりである。

 

もっとも今時点で世の中に存在するAIは、ここまでのレベルには遠く及ばない、と言っても良い。最近のAI化の流れに沿って、様々なAIソリューションが紹介されているが、ほとんどのものは”弱いAI”である。人間っぽい認知とか反応ができるだけで、基本的には作られたロジックの中で動作しているのだ。

 

一方で、中にはディープラーニングという技術を活用したものもある。IBMのWatsonやGoogleのAlpha Goなどがそれに該当する。このディープラーニングを本気でやろうとすると莫大なコンピュータリソース(サーバ1000台分とも言われる)が必要になるという課題は残っていたりするものの、これらの技術が実用化されれば、本当にサラリーマンにとっては脅威的な存在になると思っている。

 

さて。そういう将来が到来したとき。すなわち色んなところで強いAIが使われるようになったとき、AIが当たり前に普及したときを少し想像してみてほしい。

 

果たしてAIの価値は何によって決まるのだろうか。

 

今であればマシンラーニングなのか、ディープラーニングの技術を使っているのか、によってある程度の優劣をつけることができるのではないかと思う。

 

マシンラーニングは特徴量(どういう値に着目して情報を分類すれば良いのかの観点)を人が逐一定義してやる必要があるが、ディープラーニングであれば、膨大なデータから特徴量を自律的に見出すことができる、という違いがあるのだ。よって、マシンラーニングはより自律的に学習することができるため、強いAIだと言える。

 

ただし、ディープラーニングが当たり前になった時にどうなるのか。

 

過去で言えば、コンピュータの登場は今のAIの登場ぐらいにインパクトがあったはずである。コンピュータを導入することが業務に対して革命的であったはずだ。しかし、コンピュータという存在も今でははっきり言って差別化の要素にはなっていない。

 

システムの世界ではメインフレームがクライアントサーバモデルに置き換えられた頃から、すなわち大衆に普及した頃から、システム自体が優位性を示せるものではなくなっていったのだ。

 

今システムを作っている我々にできることといえば、どれだけお客様の課題を引き出せるか、いかに早く作るのか、いかに品質を高めるのか、これらに尽きる。ただ、システムを作ることに価値がない、ということは単にシステムを導入することに価値がないのと同義である。

 

同じように、AIにおいてもディープラーニングが当たり前になった時、ただ単にAIを使っていることが必ずしも他に比べて優位である、ということにはならないはずである。ディープラーニング技術の中にも色んなアルゴリズムがあったり、その中での局所的な優位性はあるのかもしれないが、間違いなく使う側の意見としてはどれを使ってもそこまで変わらないレベルへと均質化されていくと私は踏んでいる。

 

一つ、AIの価値を決める要素としては、「テストデータ」の数と質が答えにはなると思う。ディープラーニングでは、膨大なデータを投入することによってAIが色んな知識を学習するが、これは人間でいうところの教育に非常に似ている。正しいことを沢山教えこめば、正しい人間に育つし、間違ったことを正しいと教えこめば、間違った人間になってしまう。AIのテストデータもおそらくは同じで、いかにして適切なテストデータを食わせられるかがAIの質を左右するたった一つにして最大の要因なのである。

 

人間の場合であれば、生まれ持った遺伝子によって学び方や学び取る事柄が異なってくるかもしれないが、AIであれば、遺伝子を担うアルゴリズムが同じなので、テストデータが全て、ということになるのだ。

 

では、正しいデータとは何なのか。この少々哲学性を帯びた質問に答えられる人はいるだろうか。一概には答えられない。

 

じゃあ人間で考えてみる。正しい知識とか正しい教訓とは何なのか。正しい知識は教科書に書いてあること、どっかのオフィシャルな機関が発信している情報などだろうか。正しい教訓とは何だろう。松下幸之助が言っていることなら正しいのだろうか。あるいは、みんなが言っていれば正しいのだろうか。

 

実は「正しい」というのは単に「正しいと信じている」だけにすぎない。正しい知識もをたどれば、人間が定義したことにつながるので正しさは存在する、と言えるかもしれないが、絶対的に正しい教訓はない。例えば、「善は急げ」と「急がば回れ」は相反する意味だが、どちらも正しい教訓として現在まで語り継がれている。どっちを信じるか、どういう場面で使うのが適切かを経験の中で決めているだけだ。

 

経験の中で決める、とはすなわち、それを活用した結果、「うまくいったのかいかなかったか」という結果をインプットにして再学習している、ということだ。つまり正解の定義に終わりはない。人間は常にこういった自分が今信じている教訓に沿って行動し、うまくいかなければ、その教訓を見直して生きていく。そして、永遠に完全な正しさの体現者にはなりえない。

 

AIもきっと同じである。もちろん、成人ぐらいの知識や一般教養を身につけるのは、大量のデータがあれば、数日もいらないだろう。しかし、その先の完全性を身につけることは永遠にできないと私は思う。テストデータを常に収集し、そのFBサイクルを回し続けることで人間よりも反省を生かし、エラーパターンをより正確に分類できるようになるためのテストデータ供給の仕組みが大事になってくるんではなかろうか。

AIの本質、一億総経営者社会

AIは49%の雇用を喪失させるという衝撃の予測が発表され、しばらく経つ。まだまだ先の話になるのかもしれないけれど、三菱UFLが1万人の業務量削減の方向性を示したりと、そう遠くない未来に様々な仕事は喪失していくことになると私も思っている。

 

まだまだ、人間こそが労働力の要だと本気で思っている人もいるかもしれないが、今の自分の仕事が将来残るのかを不安に思っている人もいるのではないか。もしかすると、「AIに奪われないような仕事」を見つけて、その分野で頑張っていこうと考えている人もいるかもしれない。

 

ただ、すでに長いキャリアを積んできている人がいきなり、AIに奪われないことを理由に全く別の職種にスライドする、というのはどうもナンセンスな気はしている。

 

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色んなメディアで、AIが奪う仕事とAIに奪われない仕事の分類を示されているが、実はAIが奪う仕事のたった一つの共通点は、「使われる側の仕事」である、という点である。端的に言うと、サラリーマンの仕事は奪うけれど、経営者の仕事は奪わない、ということだ。

 

「いやいや、サラリーマンの中でも奪われない職種もあるはずだ」、と考える人もいると思う。これは半分正解で半分間違い。たしかに営業など、奪われにくい職種はあるし、逆に奪われやすい職種もある。でも、職種が全てを決めるわけではないのだ。

 

営業であっても、契約などの事務手続きばかりをやっていたり、アポ取りやヒアリングばかりがメインの仕事であれば、簡単にAIに奪われる。たとえ、営業戦略やマーケティング企画を立案するようなポジションにいたとしても、上から降りてくる方針を本に単なる情報収集、加工などをやっているようではAIに奪われる。

 

AIに奪われるのは職種如何で決まるのではなく、スタンスが受動的かどうかなのだ。つまり、「これさえ決めてくれたら、やります」みたいな人は要らなくなる。逆に「こういうことをやったらいいんじゃないですか(価値があるんじゃないですか)」と言える人が残る。これって、優秀なビジネスパーソンなのか否かの違いと全く同じ。

 

これまでは受動的でも優秀、という人が社会に認められていた。抽象的なことを具体化できる人だ。例えば、すごく優秀なプログラマーとかは仕様が決まりさえすれば、それを動くソフトウェアという形にすることができる。

 

当然スキルも必要だし、誰にでもできることではない。ただこういう仕事は残念ながらAIに置き換えられていくことになる。AIも受動的だけど、抽象的なことを具体化するポイントにおいてはすごく優秀(になっていく)だからだ。

 

だから、例えば、プログラマーは価値あるサービスを考えられる人間になれなければならない。つまり、「経営目線でどうやったら儲かるか」の命題に答えなければならないということなのだ。誰しもがこういうことを求められる時代が来る。一億総経営者社会だ。

 

すごく厳しい時代が来るように感じる人もいるかもしれないが、裏を返すと経営の難易度はすごく下がる。これまでは、人を沢山雇ったり、色んなスキルのある人を集めないと、組織として価値を提供できるレベルで機能しなかったものが、一人+AIでできるようになるかもしれない。

 

今は、AIに経営はできない、という前提で話をしているが、もし仮にAIが経営をできるようになれば、「OK Google!会社作って今日中に1億儲けて!」とか言えば、何もしなくても1億稼げる、みたいな話にもなるかもしれないのだ。使う側にとってはAIはすごく便利なものなのだ。

 

職種を変える前に、価値を作るために何をどう使えばいいのか、を考える訓練をするのが先である。

そのお金は人生を変えうるのか

気がつけば、仮想通貨の含み益が100万ぐらいに膨れ上がっていた。これを利確してしまう、というのは一つの選択肢ではあるのだけれど、なんというか、今100万円を手にしたところで、今の私には使い切れないなぁと思うと、売却に気が乗らない。

 

まさに「100万円あったら何に使う?」という質問を突きつけられている気分である。考えつくのは、家電製品、ファッションアイテムの購入、あとは旅行ぐらいだ。これらはどれも浪費といっていい。一時的な幸せを買うには一役買ってくれるかもしれないが、その後の人生に影響を与える要素にはなりえない。ここにお金の限界がある。

 

逆に100万円を浪費ではなく、投資に使う方法を考えてみる。何を隠そう、仮想通貨を始めたのが、そもそも余剰分をただただ貯金していくのが嫌で、投資に回した結果なのだ。ただ、結局これも資産が増えていくだけで、自分の人生の質を向上させる点に寄与しているとは思えない。(もちろん、資産運用の勉強になるという点は意味があるが、正直お金に興味がないとあまり面白くない。)

 

なので、自分の能力にできれば投資をしたいと思うわけだが、自分の能力への投資に一番必要なのは、お金ではなく時間なのだ。確かに、海外留学、MBA取得、医学部受験など、前提条件としてお金が沢山かかる教育投資はたくさんある。けれど、これらはお金さえあればその能力を手に入れられるわけではない。お金があって、かつ時間をかけるからこそ手に入るのだ。

 

なので、お金だけがあったところで、時間を捻出できなければ意味はない。

SIerのデジタル化への対応とは

最近、「デジタル」という言葉をあらゆるところで耳にするようになってきた。デジタルトランスフォーメーション、デジタルビジネス、デジタル時代などなど。これは最近になって登場したキーワードだけれど、考え方や概念のようなものは結構前からある。

 

いわゆる「攻めのIT投資(SoE)」とかフロントビジネスにITを活用していく、という意味合いで使われていることが多い。が、個人的にはUberとかAirbnbなどに代表される「ディスラプター」と呼ばれる存在がデジタルビジネスと関連付けて話されることが多いと感じる。なので、あえて違いを述べるとすれば、IT企業が直接市場へサービスを投入する時代になった、ということだ。

 

元々のITといえば、バックヤード系の業務の効率化がメインだった。いかにしてコストを削減するかに主眼が置かれていた。会計処理など、それ自体がビジネスとしての価値を生み出すわけではない業務がシステム化の対象だったのだ。

 

そして、時代とともにITをサービスに活用しようとする動きが主流になっていった。要するにIT技術を前提としたビジネスモデルを構築する、という考え方だ。少しレガシーなものだとオンラインショッピングなんかも一つの事例である。Webブラウザからの決済を前提としたシステム構築をすることで売上の増加を目論むものだ。攻めのIT投資というとごく最近のような気もするが、実はかなり前から存在していたこともおわかりだと思う。

 

ただし、オンラインショッピングという仕組みであれば、基本的には商用をエンドユーザに提供している企業(事業部門やユーザ企業)がSIer(IT部門)にシステム開発を依頼することによって開発されていた。

 

もちろん、業務知識がなければ本当にユーザによって良いシステムを作ることはできないので、SIerは業務知識を持つことを求められていた一方で、事業部門もSIerに丸投げするのではなく、共にサービスについて考える姿勢が求められていた。つまり、事業部門とIT部門がコラボして進めていく必要があったものの、あくまでもサービスの提供者は事業部門でIT部門が事業部門にシステムを提供する、という役割に分かれていた。

 

しかし、UberAirbnbはどうだろう。彼らはITを活用し、自らがサービスを提供する企業として君臨した。これまでのSIチックな商売であれば、タクシー会社と連携してサービスを検討し、タクシー会社を顧客とするシステム販売モデルとなったってよかったのだ。Airbnbだってホテル業界に対してシステムを販売するモデルになってもおかしくはなかった。けれど、彼らはCtoCの仕組みを活用することで、サービス提供会社の資産力を不要にしてしまったのだ。

 

SIerで働いていると、こういう未来がくることは何となくわかっていた。というのも、お客さんから入ってくる声は「もっと、こちらの業務を理解した上での提案をしてほしい」というものがほとんどだ。はっきり言ってお客さん以上にお客さんのビジネスや業務に対する理解を求められる。もちろん、SIerとしてはそういう方向にいくしかないこともわかっていた。一方で、「では、そうなったときに果たしてお客さん企業は必要なのだろうか?」という疑問を常に持っていた。

 

もちろん、その会社にしかない資産や商品などがあって、それらが外部調達不可能なものであれば、それでもなお手を組む意味はあるのかもしれない。でも、業務に対する知見をユーザ企業に期待しているだけであって、それすらも自分たちが理解しなければビジネスを創出できないほどITと絡み合っている現代において、SIerから見たときのユーザ企業の存在価値なんてない。

 

 

そして、真逆のケースもある。ユーザ企業が自分たちでITを活用することでサービスを強化するパターンだ。その代表格は誰もがご存知アマゾンである。今でこそ、アマゾンというとIT企業のイメージが根強いけれど、元々は単なる本屋さんだったはずである。彼らはITを外部に委託せず、自分たちの強みとして取り込むことでIT企業としてはもちろんのこと、物流企業としても大成功を収めている。

 

近年、Fintechに始まり、Edtech、Agritech、Medtechなど、〇〇techというキーワードの出現が後を立たない。おそらく数十種類ぐらいある。これの本質も、もはやITだけでは何の価値も生み出せないし、サービスを提供する会社が自らITを駆使していかなければならない時代に本格突入した、ということが示唆される。近い将来、「IT企業」とかtechみたいな造語すら使われなくなっていくことが予想できる。

 

こうなってきたときに、SIerというのは本当に実態のよくわからない組織である。すでに、今うちの会社は何の会社なのか、私はよくわからない。雑にいえば、信頼だけは高いただのベンチャー企業群である。(ただし、ベンチャースピリットは何もない。)

 

もうユーザ企業は要らない、という話をしたが、BtoCビジネスに比べて、BtoBビジネスはリスクが小さいので、その緩衝材としての役割を果たす存在としてユーザ企業に期待している側面もある。SIerは工数ビジネスなので、ぶっちゃけシステムを導入した結果、ビジネス的な成果が得られなくとも開発さえすればその稼働分は売上を生み出せるぬるゲーなのだ。そして、これこそがSIerが今だにユーザ企業相手にシステムを売るモデルを採用している理由だと思う。

 

しかし、これに甘んじていられる時代もそう長くはない。資金余力が残っている会社であれば、いつまでも無駄金をはたいてくれるのかもしれないが、IT投資はかなり業績にインパクトがある。事業化につながらないシステムを開発し続けたところで、ユーザ企業がジリ貧になって転げ落ちていくときは、SIerも一蓮托生だ。開発案件がなくなって、売上が取れない。かくいう私の担当も今開発案件は0で、どうやって組織を残していくのかに必死になっているが、ぬるゲーに甘んじていた人たちは今更何もできない。

 

そして、お客さんの事業を成長させられるほどの、業務知見があるならば、もはやSIという形態ではなく、自分たちで直接BtoCサービスを展開していくのが最も良いと思う。はるかにビジネスを展開しやすいし、顧客のレベルによって自分たちの業績が決まることもない。これがSIerとしてのデジタル化への対応なのではないかと思っているが、どうもSIerではデジタルビジネスを活用した提案をしていく必要がある、などとまだSI形態にこだわっているから残念である。

ZOZOSUITというアイデア

ZOZOTOWNが現在無料で配布しようとしている「ZOZOSUIT」という商品がある。着るだけで自分の体のありとあらゆるサイズが計測できる、という優れ物だ。洋服の9割はZOZOTOWNで購入する私は当然注文予約をした。

 

私はこの発想に少し嫉妬した。というのも、私はかれこれ10年ぐらい前からほとんどオンラインで洋服を買っていたので、自分のサイズを完全に正確に把握する必要性を理解していたからである。

 

今でこそサイズを間違えて購入することはなくなったけれど、初めの頃は、MかLかぐらいのざっくりとしたサイズで購入していたがために、よくサイズを間違えて、最悪の場合は同じものを買い直したりすることもあった。おそらく、いきなりオンラインで買わない人もサイズ感がわからないことをもっとも懸念しているのだと思う。

 

だから私は、自分の全身の基本的なサイズデータを保持している。加えて、インナーかアウターなどによってどのくらいのサイズがベストになるのか、または素材によってどのくらいのプラスサイズが必要になるのか、ということもある程度は情報として記録していた。

 

ここまで正確に自分の数値を把握していれば、ショップサイトの数値と体へのフィット感が大きく異なることはない。よってサイズ間違いによる返品などのリスクはほとんどないのである。逆説的に考えると、リアル店舗と同じように自分にぴったりの商品をオンラインで選ぶためには正確に自分の体のサイズを把握する必要がある、ということである。

 

ただ、私個人としてはサイズへの対策はできているので、正直なところ、私自身はZOZOSUITを必要とはしていない。しかし、無料とは言え、この製品がランキングで1位になるほど売れる、ということは、意外にも自分のサイズもロクに把握していない人が沢山いた、という状況証拠になる。過去の自分みたいに自分のサイズを知らない人が沢山いる前提で、対策を考えていれば、ZOZOSUITという発想は決して出てこなかったわけではない気がして嫉妬したのだ。

ゲームに学ぶ無駄の価値

今色んなゲームがあるけど、ゲームがあれほどに色んな人に愛されているのは、「無駄」にも関わらず「真剣」に取り組む人が沢山いるからだ。

 

私も実はスマホのゲームを結構やっていた時期がある。パズドラとかグラブル、みたいな一生終わりのないゲームは決してやらないけれど、やり切り型のRPGゲーム(ドラクエとかファイファンみたいな)は割と好んでやっていた。

 

ただ、RPGゲームをやっている時に「面倒臭さ」を感じるようになった。例えば、戦闘時に攻撃するのか魔法を使うのかを選ぶ時、宝箱を探すために全マップを網羅的に歩き回る時。装備を一々買い替えたり、レベル上げのために沢山戦闘をする時。そして、これらは結局同じことの繰り返しだよな?と感じる時。

 

逆に私がRPGゲームで面白いと感じていたのは、「自分が強くなること」と「より強い的を倒せること」だけだった。そして、これらのスパイラルこそがRPGゲームの醍醐味だと思っていた。つまり、それ以外の要素は不要だと思った。

 

そうして、無駄を省いていくと、クリッカーゲームというものに一旦落ち着いた。簡単に言えば、連打するだけでレベルが上がって、連打するだけでボスと戦える、特にマップなどの要素はないので歩き回る必要もないし、宝箱を探す必要もない、というゲームである。実に10000回ぐらいタップしていると思う。

 

ただ、このゲームを続けているうちに、「ボタンを連打する」という行為自体がめんどくさくなってきた。そして、行き着いたのが「放置系ゲーム」である。放っておいても主人公が歩き回って、ボスと戦い続けて、勝手に強くなって、勝手にさらに強いボスを倒すようになる。

 

最初は少し楽で良いと思っていたが、ここでふと疑問が生まれた。

 

「あれ?おれ何にもしてないんじゃ・・・?」

 

放置系ゲーム、というのは、単なる「監視ゲーム」であった。見ているだけだし、ゲームに縛られたくない私はもはや見てすらいなかった。「他人のやっているRPGを見ているほどつまらないことはない」とはよく言ったものだが、まさにそういう気分だった。その後、私はそのアプリを起動すらしなくなった・・・。

 

このエピソードの興味深い点は、ゲームから徹底的に「無駄」を排除すると、「面白さ」が何一つ残らなかった、という点である。

 

ゲームに関してはこれでもいいと思う。

 

ただし冗談抜きで、人生も全く一緒だ。

 

無駄を排除しまくっていくと、「面白み」が何一つ残らない。

 

別に嫌いなことを一生懸命やる必要はない。でも、「どうせ無駄だから」みたいなことだけを理由にやらない選択を続けていくと、ゲームと全く同じ状況になってしまう。

むしろ休日の方が辛いという

最近、休日がつらい。というか極めて退屈だ。

 

社会人になってしばらく経つと、仕事の限界、みたいなものが見えてくる瞬間がある。それは産業形態だったり、会社の方針であったり、組織内での地位だったり、簡単には変わることのないルールを前に自分の無力さを知るのだ。そうやって誰もが仕事に対する夢や希望を少なからず諦め、折り合いをつけているのだと思う。

 

また、苦痛な仕事や役割を急遽与えられることだってある。そんなこんなで、仕事ってつまんないなと思うようになり、休日を欲するようになるのだ。「早く休みになること」をひたすら望みながら日々の仕事をこなしていき、日曜日の夜になると、仕事にいくのが嫌で憂鬱な気分になる。ブルーマンデー症候群だ。

 

私も社会人になるまでは、ブルーマンデー症候群になんて絶対になりたくない、自分の好きな仕事をするんだ、と軽く意気込んでいたものの、現実の前に消沈し、しばらくは憂鬱な休日の夜を過ごしていた。

 

ただ、最近はむしろ「休みがくる」ことに対して、楽しみを感じなくなっていた。もしかすると、しばらく前からそうだったのかもしれない。

 

休日にできることといえば、友人と遊んだり、ゲームしたり、動画みたり、美味しいものを食べたりと、なんというかもうほとんど根本的に飽きてしまったことしかできないし、大して新しい発見もなく、まぁどちらかといえば面白いけど別にやらなくてもいいならやらない、ぐらいのことしかできないからだ。

 

こういうことを一生楽しみにして生きている人はきっとごまんといるんだろうけど、私はやっぱりそれだけを望みに生きていく、というのは辛い。逆説的に考えると、実は今の仕事は相対的に結構面白いのだとも思う。仕事が本気で辛かったり面白くない時は、少なくとも何もしなくても良いこととか、友人と話している時の方がよっぽど面白く感じられるから。

 

正直、今の仕事は私がやりたいと考えていることとはかなり違っているけれど、面白いと感じる根っこの部分は包括されているのかもしれない。昔就職活動をした時に、「具体的な興味・関心は時代とともに変わるからそれだけで仕事を選ばない方がよい」という話を聞いたことがあったが、まさにこれに近い感覚なのだろうと思った。

 

あとは、たとえ無駄でも何かやってみることは大切だ、ということは再認識した。ゲームとかクソつまらないけれど、ちゃんとやってみると以外とはまるし、今こうやって書いているブログも正直何の役にも立たないけれど、考え出してみると、少しずつ面白くなっていく。

 

希望学」の観点からも、無駄なことをやってみるのは大切だそうだ。時間や余裕がなくなると、どうしても無駄を排除してしまいたくなるけれど、逆に退屈や暇を感じたら無意味なことを改めてやってみる、でもいいかもしれない。

 

 

希望のつくり方 (岩波新書)

希望のつくり方 (岩波新書)

 

 

「もったいない」の呪縛

上司に、「開発がやりたいです」とか、「技術的な仕事がしたい」とか、言ってみると、返ってくる言葉は「もったいない」という言葉だ。

 

今私がやっている仕事は新規ビジネスで利益を創出に直結する上流の仕事なので、開発に変わるのはもったいない、今の仕事をやっていくべきだ、ということである。上流の仕事ほど価値があり、優秀な人こそ上流をやるべき、という会社、世の中の風潮があるのだ。

 

要するに、学校教育の中では「偏差値こそ全て」という画一的な基準だったのが、経済社会に出てみると、「利益こそ全て」というこれまた画一的な別の基準に差し変わっただけ、なのだ。

 

会社が窮屈に感じられるのは、誰しもがリーダー役になることを求められ、出世することを求められ、利益を最大化することを求められることだ。学校教育において「偏差値より大切な何か」がなかったように、社会において「利益よりも大切な何か」もないみたい。

 

もったいない、という呪縛にいつまで苦しめられるのか。と思いつつも、本当に嫌になるまではやってみる、という生き方の私。

仮想通貨投資を始めて思うこと

数ヶ月前から仮想通貨の投資を始めた。キッカケらしいキッカケがあったわけでもないけれど、インベスターZという漫画やFXをやっている友達の影響などもあって、投資をやってみたいと思っていたことに加え、新しいことの渇望および、4年も働いているとはっきり言ってお金が銀行に眠ってしまっていることに対する不甲斐なさ、イケハヤブログなど、色んな要素が絡み合って始めることにした。

 

最初なので、とりあえず10万円ぐらい元本に、どちらかと言えば長期的にやろうかと考えていた。ビットコインというのはマイニングされればされるほど、供給量が少なくなっていくし、今後仮想コインの需要が高まっていくのは自然の摂理だと思うので、間違いなく価値は上がっていくと思ったからだ。

 

ただ、仮想コインはかなり曲者で、上下幅がかなり大きい。ただ、どちらかといえば、今はまだ上昇方向にブレることの方が多い印象である。私がビットコイン購入時の価格はだいたい1コイン40万円ぐらいだったけれど、今では120万円を超えるほどにまで高騰している(かつ、いまだ上昇傾向が止まっていない)。100万円買っとけば300万円になってたなぁ、、、なんていう後悔が常にある。

 

仮想コインはビットコインだけではなく、何十何百種類のビットコインがあるそうな。ビットコイン意外の仮想通貨のことは「アルトコイン」という。中でも「モナコイン」という2ちゃんねる発祥の仮想通貨は私が始めたころはまだ30円ぐらいだったのだけれど、これがいきなり300円ぐらいに高騰した。10倍である。しかもこの時はマイナーなコインに対する投資は全く視野に入れていなかったので、度肝を抜かれた。ここでも、100万買っとけば1000万円になってたなぁ、、、と後悔した。

 

と、このタイミングで軽いノリで1万円分購入しておいたが吉で、今まさに2000円を超える額にまで高騰している。いつ暴落するかヒヤヒヤものではあるが、こんなに簡単にお金が増える光景を目の当たりにすると、パチンコやスロットはなんて費用対効果の悪いギャンブルなのだろうかと思えてくる。次は投機を見て10万ぐらい入れてみるか、という感じに今はなっている。

 

あれ。

 

短期の投資になっていないか。

 

ということに気づいた。最初にビットコインが2倍ぐらいになった時も、利確のために大半を売却してしまったのだ。その後、また別の安いコインを買い足したりして、今のところ含み益10万くらいは出てはいるが、そもそも売却しない方が利益は出ていた、という事実があったり。

 

何より、毎日のように取引所のアプリを開いて一喜一憂するのが少し面倒だな、と感じてしまう時が多々ある。よく投資はゲーム感覚で、とかいうけれど、ゲームというほど面白くはないし、そのために動向とかを日々チェックすることが億劫である。私は短期集中型タイプなので、毎日何かを定常的に続けることが苦手なのだ。

 

一時期、「デイトレーダーになりたい」とか言っていたけれど、これが仕事だとしたら退屈以外のなにものでもないな、とそんなことに気づいた。

 

でも、もう少し続けます!

そのビジネスに夢はあるのか

今、新規ビジネスを起こそうと踏ん張っております。前開発プロジェクトの実績紹介による広報活動および、コンサルティングという形でいくつかの案件は一段落がつき、これから開発に向けての支援の依頼がかかるかどうか、という感じです。私が提案に行った担当も、正式に依頼してくださる方向で進んでおり、何よりです。まだまだ社内向けのビジネス、という感じですが。

 

こういった、新規ビジネスとかコンサルティング、というキーワードを出すと、羨望の眼差しで見られることが結構ありますが、やっていることはそれほど華やかな仕事でもありません。(もちろん、”SE”に比べれば「どや!」と言いやすい肩書きではありますので最大限活用はしてます。)

 

一般的な戦略コンサルタントであれば、業界が沢山あったり、戦略もいろんなパターンがあったり、と幅があって面白いのかもしれませんが、私たちがやっているのは、システム運用に特化したコンサルタントなので、分析する情報も似通っていれば、対策案も基本的には自動化がメインになってしまうので、たぶん一般的なコンサルほど複雑ではありません。

 

また、システム運用の改善が進んでいない大きな原因は、無関心と政治的要因が支配的なので、自動化の技術的難易度はそれほど高くありません。技術的には可能だけれど、やりたくないとかやりにくいとか、そういう人たちの背中を押してあげるための説得材料を用意することが一番の価値であることが最近わかってきました。価値があるので、正直今後ビジネスとして進めていくことはできる、という感触も掴めてきました。実際、社内でのプレゼンスも高まっており、連携の話も出てきたり、と追い風が吹き出しているところです。

 

ただ。

 

周囲の期待や流れとは裏腹に、自分自身の気持ちがそこまで今のプロジェクトにのっかっていないことに気づきました。自由で裁量もあるけれど、下手したら、普通に開発をやっていた頃よりも、あんまりテンションが上がっていない自分がいる。その原因をなんとなーく考えていると少しずつ理由がわかってきました。

 

と、その前に。

 

ビジネスって突き詰めると、「人ができないようなことをやる」のか「人がやりたがらないことをやる」の二つしか形はないと私は思っています。例えば、プロのアーティストやアスリートがお金を稼ぐことができるのは、「誰にもできないようなことをやっている」からで、家事代行がビジネスになるのは、「誰もやりたがらないことをやっている」からです。

 

もちろん、「やりたいことをやって稼ぐ」人もいます。でも、それはやりたいことを「人ができないレベルで」やっているだけです。逆に言えば、人ができないレベルまで昇華させた要素(アイデア、実行スピード、リスク許容度、品質、規模など)が一つもなければ、やりたいことで稼ぐのは不可能です。

 

ちなみに、ほとんどの仕事は「人がやりたがらないこと」で成り立っています。サラリーマンはより顕著かもしれません。人がやりたがらないだけの仕事に対して希望も持てる人が果たしてどれくらいいるんでしょうか。私はあんまり希望を持つことができていません。

 

そうなった時に必要になるのが、「ビジョン」とかとういうものになると思います。まぁ極端に言えば、こういう世界にしたい、とかこういう状態にしたい、とか。ただの作業もビジョンに対する共感があれば、モチベーションを持って取り組めることも知られています。しかし、ビジョンよりも目先の利益追求が必達という空気感のもと仕事をしているため、金儲けにつながりそうならどんな風に形を変えてでも食らいつく。そんな感じです。

 

そんな感じこそが今の私のモチベーションが上がらない理由。「結局、お金になることが正義」っていうビジネス界の風潮が好きになれませんな。