∑考=人

そして今日も考える。

心にコンパスを

「別プロジェクトに支援してほしい。」

 

先週の始め、事業部長からそう任命を受けた。社内標準の新規ソリューション開発に支援という形で参画して早約3ヶ月、ちょうど要件定義が終わりこれから設計、という段階ではあったが会社とは容赦がない。その発令の2日後から既に別プロジェクトに参画している。そう。わかってはいたが、サラリーマンとはそういうものらしい。課長レベルの意思決定であれば抵抗を示すこともできるが、それ以上ともなるとどうにもならない。

 

配属先のプロジェクトは超巨大プロジェクトである。既に総合試験(システム開発の最後のフェーズ)が始まっており、10月にカットオーバーを迎える。ウォータフォールのシステム開発の場合、終わりにかけて要員は減っていくのが通常であるが、それでもなおプロジェクトメンバ300人程度がいる、というこれまでの開発とは桁違いなプロジェクトである。

 

社内的には人気のプロジェクトの一つではあるが、正直モチベーションはあまりない。既に総合試験、すなわち上流工程が終わっていること。携わる業務の質、具体的には維持保守を見据えた泥臭く、作るものに影響しない仕事であること。

 

過去に一度一緒に働いた経験があり、決して一緒に働きたくはなかった先輩のチームに配属されたこと。元々同じ組織で働いていた人がやたら多いこと。(知っている人がいる、という意味ではやりやすい側面もあるが、新人の頃の私を知っている人との上下関係の構造が変わらなくやりづらい側面があるのだ。)そもそも大規模なチームで働くことに対する抵抗があるということ。長時間労働が定常化していること。あげればキリがない。

 

元々プロジェクトにいた人たちは、自分たちの仕事の魅力をたくさん伝えてくれるけれど、タイミングや前提条件が違う私にとっても同じとは限らない。もちろん、本格的なWebシステムで、しかも新規開発、という面白そうな要素もあるけれど、それを超える嫌な要素が多くて、結論としてそもそも私は2年以上前からそのプロジェクトには行きたくないという意志を持っていたのも事実であった。

 

もちろん、結果的に面白いという可能性もあるだろう。最近までやっていた仕事も気づけば面白い仕事に変わろうとしていたのだから。ただ、携わった仕事が結果面白かった面白くなかった、というのは本質的な問題ではなく、自分の人生を全くコントロールできない、ということに少し危機意識を抱いてしまった。

 

最近は、自分のキャリアに対する漠然とした不安を感じることが多い。というのも、私は常に職種やチームの短期的な変更が続いているからだ。私自身の選択が受け入れられたこともあれば、意図せざる結果としての変更も多く、非常に不安的になってきているのだ。

 

オールラウンダー・ユーティリティプレイヤーと言えば聞こえはいいけれど、「で、君は何が得意なの?」に対する回答がない。常にスキルゼロの中から地頭と勉強で目の前の仕事に対応している。決して楽ではない。先輩や上司からは評価されるけれど、果たしてこれは市場で評価されるのだろうか、と疑問に思う。

 

大きい会社に入って理想のキャリアを積み重ねていく、というのは到底無理な話なのかもしれない。会社の仕事に個人の意志を完全に反映させるなど、ほぼ運のみだろう。ただ、少しでも運に頼らずキャリアを切り開いていくには、自分の意志を明確に決めておかなければならない。

 

正直に言うと、私はこの会社の中でのキャリアというものをあまり深く考えたことがない。なぜならば、今の会社の仕事は何をやってもそれなりには面白いし、何をやってもそれほど面白くない、と思っているからだ。営業は絶対に嫌だけど、たぶん提案資料とか作るの好き(だとわかった)ので、やってみればそれなりには楽しめるんじゃないかと思う。

 

そして、サラリーマンをやっている人の99%はそうである。「こんなことやってみたいな」ぐらいの思いはあるけれど、結局やってみたら思っているほど楽しくなかったり、楽しい仕事だけができるわけでもなかったりと、「なんか違うな」、と理由をつけて、「これがやりたいことではない」とか言う。だからといって絶対に嫌なのかと問われればそんなことはなくて、その仕事もちゃんとそれなりに楽しんでいる人がほとんど。

 

だから、ほとんどの人は自分の意志を固めることを諦めてしまうのだ。なぜなら、自分の意志を持っていても、その通りに物事を運ぶことはできないし、何をやっても面白くてつまらない。むしろ、何のために意志が必要なのか?と思っている人さえいるかもしれない。

 

答えは簡単だ。それはいざとなった時に、辞表を出すためだ。多くの人は、意志を持っていないのではなく、「会社の意志に全て従います」という意志を持っているのだ。 会社の99%の人はそういう意志を持っている。会社の中で、「こんなことをやりたい」と語る人間はごまんといるけれど、本当のみんなの最上位の意志は「私は会社の意志に全て従います」なのだ。

 

私もそういう状態であることに気づいた。交渉のカードとしての意思表示はできても、意志を持っているわけではない。だから辞表が出せないのである。そして、会社の意志に従わざるを得ないのだ。それが理不尽なものであっても、みんな同じ、サラリーマンはそういうものだという理由で諦める。

 

新人社員研修の頃の講師を担当していた先輩がこんなことを言っていた。「会社と自分は主従の関係。でも自分が主で、会社が従である」と。「会社の意志に全て従います」は完全んい自分が従の状態である。自分が主であるとは、自分の意志に会社を従わせる、ということであり、従わない場合は切ると言う選択をする、ということだ。

 

心にコンパスを。

 

 

 

 

相対的に高いポジションを獲得せよ

バスケットボールをしていた頃に、何が一番イライラしたかというと、なかなか自分にボールが回ってこないことだった。特に、中学の頃はスリーポイントシューターだったこともあり、「決めてやるから早くおれにパスしろ」、みたいに思っていた。ボールがもらえないとやることがなくてつまらない。

 

スポーツなら上記のような考え方は当然なのかもしれないけれど、仕事も全く同じだと思う。例えば、アルバイトをしていた時も暇なコースに入るのが退屈で嫌いだった。どちらかといえば、めちゃくちゃ忙しいコースに入って仕事をする方が面白いし時間もすぐ過ぎるしやりがいがあって好きだった。

 

今、正社員として働いていてもその考え方は変わらない。あんまり優先度の高くない仕事を割り当てられたり、そもそも仕事が少ない状況というのが私は結構、堪え難いほどに嫌いである。暇つぶしに仕事をしているのに、仕事中に暇になるぐらいなら会社にいく意味などない。

 

ただ、仕事は少ないほどいい、と考える人だっていると思う。いや、もしかしたらそういう人の方が多いのかもしれない。特にスポーツはともかくとして、仕事の場合はお金のために働いているだけであって、働かずに済むならば、別に何かをやる必要はない、という省エネな考え方も納得はできる。

 

でも、そういう考え方は実は環境が作り出しているだけなのではないか。そんな風に私は思っている。

 

例えば、パスが回ってこないのが嫌いだと語ったバスケットボール。今になって私がとあるバスケットチームに混ざってバスケをやるとしたら、たぶん考えることは全く逆になる。「なるべくおれにはボールを回さないでほしい」と考えると思う。だって、周りの方が上手い場合は自分が関わるほど全体の結果が悪くなるから。

 

何もしない状態はもちろんつまらないけれど、自分が足を引っ張っている状態も同じくらいにつまらない。だから今、自分よりはるかに上手い人とのバスケットは基本的につまらないのでやらないようにしている。自分の力が発揮できないのならそのフィールドには立たない。

 

同じバスケットをとっても、昔と今でこれほどまでにマインドセットが異なってしまうのはなぜなのか。それは自信があったかどうかだ。自信があるからこそ、自分が何かをやりたい、という気持ちが大きくなる。より重要な役割に関与したくなるのだ。

 

では、その自信は何に支えられているか。文脈から考えれば、「相対的なスキルの有無」によってだとわかる。要するに、自分の身の周りの人間に比べて自分が優れていると感じるに値するスキルがあるからこそ、何の躊躇もなく「我が我が」と思うのだ。

 

仕事も同じである。よくよく思い出してみると、アルバイトを始めたての頃は忙しいコースになんて入りたくなかったのだ。しんどいし、回せなくてテンパるし、先輩に怒鳴られるし。もちろん、そういう経験があってこそ成長はするのだろうけど。

 

だが、そこで成長を諦めた途端、なるべく暇なコースに入るのが合理的になってしまうのだ。ただお金を稼ぎに来ている人の中にはそういう人もいた。なるべく仕事をしたくない人というのは成長を諦めた人の末路なのだ。もし私なら、成長を諦めたなら別のフィールドを探さないと気がすまないけれど。

 

そういう意味では自分の価値が相対的に上がるようなレベルの環境に身を移す、というのも実は重要だったりするのかな、と思ったりもする。確か、芸人の有吉が書いた本の中に、自分は村の王様がいい、みたいな記述があって。鶏口となるも牛後となるなかれ〜に近いけれど、極端にいえば、自分よりレベルの高い集団に入って落ちぶれるよりは自分が偉そうにできるレベルの集団に属している方がいい、みたいな主旨だ。

 

一般的には自分と同じもしくは上の人とつるんでいる方が成長するものと語られているけれど、実のところ自分が一番上、みたいな環境の方が純粋に挑戦意欲が沸き、結果成長する、というのが個人的な経験的には正しい気もしている。

 

これを踏まえると、大企業というのは、自分が上という状態まで到達するには程遠い環境である。自分よりキャリアの長い人たちが沢山いて、かつポテンシャル自体も同等以上の人たちが集まった集団で形成されているからだ。小さな組織単位でみればそれほど難しくはないが、基本的に雇用が極めて固定的なので、絶対的な能力は向上していても、相対的な能力は上がりにくい。

 

もし、アルバイトをしている時に、過去の先輩たちがずっと残っていれば、私はずっとつまらないアルバイト生活を送っていたと思う。先輩がやめ後輩が入ることで、自分の相対的なポジションが変わることによって、モチベーションは変化するのだ。

 

 ということで、まとめると、

・自分の能力が発揮できない状況はつまらない

・自分より相対的にレベルの高い集団の中では自分の能力を発揮できず、つまらない

よって、

・相対的に秀でられるような努力をする

もしくは、

・自分が上位に食い込める環境へ身を移すことが重要

 

だから「自分の強みを見つけろ」って言われるのか。

「勉強」に逃げるのはもったいない

そういえば、先日、大学院の後輩から飲みに誘われまして。3年ぶり?ぐらいに再会したんですが、会ってみると、平日にも関わらず短パン姿の後輩がそこにはいました。はて、ベンチャー企業にでも転職したのか?と思いきや、会社を辞めたとのことで。何でも医学部の再受験を目指しているらしいのです。

 

私は今の環境から飛び出す、という選択ができる人は素直に凄いな、と思っています。飛び出すことを「逃げ」だと考える人も多いですけど、本当は逃げ出す勇気のない人たちからの嫉妬、負け犬の遠吠えでしかないです。飛び出す方がはるかにリスキーだし苦しいし面倒くさい。だからそういう選択をした人を応援したいな、とも思っています。

 

ただ一方で、本当に「逃げ」と思える選択があるのも事実で、その最たる選択肢が「勉強」だと私は考えているんです。ん?目標に向かって勉強するのはいいことなのでは?と思われる方もいるかもしれませんね。でも、そういう考え方をする人が多いことが、勉強が逃げに思える理由の一つでさえあります。

 

勉強が逃げに思える理由は4つあります。1つ目は、「社会から降りる」あるいは「社会に入るのが遅れる」からです。つまり、価値創出を一時的に断念するという意味で、社会からの逃げを意味するところがあります。

 

別に、一時的に社会から逃げたっていいじゃないか。そう思う人もいるでしょう。私もいいと思います。社会から一定期間距離を置きたいとか、純粋にまた勉強やりたくなったから、という理由で学校に通ったりするのは、人生の選択としてアリですし、それが正しい。

 

しかし、高い目標を設定し、そのために勉強が必要だから勉強する、というスタンスで勉強することを選ぶのであれば、少し考え直しても良いと思うのです。例えば、職業の特性上、絶対に資格が必要で、その資格を取得するためには勉強しなければならないのであれば、その勉強は必要なものです。(上記の後輩の例もそれにあたります。)

 

ただ、そもそもその職業でなければならないのか、は考えるべきだし、もし資格とかが要らないのであれば、そもそも今勉強する必要があるのかは考えた方がいいでしょう。例えば、システムエンジニアになるから応用情報処理の資格が必要とかプログラミングスキルが必要、みたいなことはないですし、仕事をしている中で徐々に身につけていけばいいのです。

 

つまり、勉強に専念する、ではなく、仕事の中で勉強する、という形にできることが最良です。

 

2つ目の理由は、上述の通り、勉強は無条件に良いことだ、みたいな一般的な風潮があって、目標を設定して勉強している様は一般的に立派に映ってしまう、ということですね。こういった風潮は、大義名分を立てやすいこともあり、「勉強していること」自体に慢心してしまいやすい、ということです。もちろん、周りが皆社会人くらいの年齢であれば、劣等感も感じずにはいられないと思いますが、目標を高く設定することによってある程度緩和できてしまうのです。

 

3つ目の理由は、シンプルです。実は、「勉強するのは簡単」、ということ。たぶんほとんどの人は勉強が嫌いで、勉強するって難しいと考えていると思うんです。でも、一部の、それなりに勉強ができる人からすると、「勉強する」ってのはひじょーーに楽な方法なんです。

 

勉強がなぜ簡単なのか。それは、努力するだけで結果が出るから、です。勉強とは訓練みたいなものです。すなわちいかに反復練習するか、が大事なんですね。もちろん、生まれながらの記憶力とか、幼少期の勉強経験などによる伸び方に差はありますよ。しかし、基本的にはたくさんやれば必ず一定以上の効果が出るので、効率的に達成感を感じることができます。

 

ここで問題なのが、勉強で感じる達成感と目的に対する成長の大きさは比例しない、ということです。つまり、勉強で多くの知識や方法論を覚えたからといって、目的に大きく近づけるわけではない、というわけです。

 

なんでそうなるかというと、一つは抽象的な理論と具体的な実学には大きな乖離があるためです。そして、実学と理論を繋ぐためのプロセスを考えたり、そもそも理論をカスタマイズしたりと、ケースバイケースで新しいことを考えなければならないからなんですね。

 

で、それを調べたり、考えたり、人に聞いたりして構築していくのが価値創出に繋がる学びで、だからこそもっとも価値があります。また、実学から入ると、必要な理論というのは比較的絞られてくるので、ちょこっと勉強して習得しやすい上に実学から繋げるところとセットで考えているので、使える理論になっていることが多いものです。

 

少し前に私も初めてマーケティングをやったんですけど、その時に、STP(セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニング)とか4P分析とか基本的な知識は一通り勉強できました。ちゃんとマーケティング理論なんて学んだことはないですけど、次にマーケティングをやれと言われれば何となくは進めることができる、ぐらいにはなっています。

 

プログラミングとかも全く同じですね。Androidアプリのプログラミングの構文勉強するぐらいなら、具体的に作りたいものをイメージして、それを作るために必要な構文を順次取得していく方が結果的に効率よく使えるスキルを身につけることができる。で、一回できてしまうと、別にスキルなんてもってなくても作れるな、っていう感覚になる。これが意外と大事。

 

そして、最後の理由。

 

勉強って楽だけどつまんなくないですか?

 

私は割と勉強するの好きでしたけど、社会人になってから、勉強って結構つまんないなーって気づくんですよね。特に遠い目的のための漠然とした勉強がつまんなくて。日々の業務に役に立たない勉強って本当につまらないんですよ。

 

だから勉強だけに専念する、っていうのは今の自分には正直考えられないんですね。それよりはなんかよくわかんないことを考えた方が純粋に面白いな、と思って。

 

なので、社会人は「勉強」に逃げるのはもったいないなって思うんです。それでも、どうしても勉強したいのであれば、具体的な課題・価値創出に繋がるものをちゃんと考えてみて、それを考える過程で勉強しましょう。それが一番おすすめ。

「俺がやる必要なくね?」と思ったら

サラリーマンをしていると、しばしば

 

「俺がやる必要なくね?」

 

と思う瞬間にぶち当たることがある。

 

もっともわかりやすい一例をあげるならば、資料の印刷、とか。これらは誰でもできる仕事の代表例で、特に新人の頃などは課長からぽっと依頼を受けることがあった。プリンタのドライバさえインストールしていれば誰でもできる仕事である。(が、偉い人はわざわざプリンタのドライバのインストールなんて面倒なことはやらないのである。)

 

で、まぁ資料印刷なんてのは本当に誰でもできる仕事、なわけだけれど、例えば、「会議向けの打ち合わせ資料を作る」ぐらいのレベルになったとしても以外と構造は変わらないんだよね。

 

例えば、新人と5年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、それは新人には少し難しいし、5年目社員が作るのが適切だろう、と言う話になる。でも、これがもし5年目社員と6年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、ぶっちゃけどっちでもいいのだ。どっちが作っても多少の差はあれど、大して業務遂行に支障をきたすことはない。

 

つまり、自分が6年目社員だったとしてこういう仕事をしなければならない時にはきっとこう思うことだろう。

 

「俺がやる必要なくね?」

 

自分がやる必要のない仕事をやるのは一見時間の無駄に思える。巷の自己啓発本では、自分の得意なことに集中し、自分がやる必要のない仕事は他の人に任せるべきだという主張もある。

 

ただし、この思考に取り憑かれて、自分がやる必要のない仕事を削ぎ落とす前に考えて欲しいことがある。

 

「俺がやるべき仕事とは何か?」

 

そこに対する答えを持っていない人間に限って、これって俺たちがやる必要あるの?俺がやる必要あるの?と目の前の仕事に文句を垂らす様が散見される。で、そういう人たちには仕事が回ってこなくなり、窓際に追放される。

 

あるいは、楽な仕事、面白そうな仕事こそが自分がやるべきという謎の解釈をして、お粗末なアウトプットを出す人。「やりたい」と「やるべき」を混同してはならないのだ。

 

極論を言ってしまうと、サラリーマンの中に、「自分がやるべき仕事」なんてものはない。幻想である。なぜなら、誰が仕事をしても回るようにできている仕組みの中で働いているのがサラリーマンだからだ。私たちにできるのは、せいぜい自分がやった方が他の人がやるよりも良いアウトプットにできる仕事だ。自分がいなくても仕事は回るが、自分がいた方が少しは良い結果を出せる。この考え方はサラリーマンの生命線だ。

 

敢えて言うならば、その仕事に自分が取り組む必要性を付け加えることが重要である。自分がやりたい仕事に大して、自分がやるべき理由を付加する。これが重要。

マリオメーカーは革命

Youtubeで「明日香チャンネル」というマリオのゲームをひたすらクリアする動画チャンネルがある。ただ遊んでるだけじゃん、って話なんだけど、チャンネル登録ユーザ数がなんと40万人を超えているという驚き。

 

で、見てみるとこれが結構面白くて。40万人の人を魅了するのも頷けるというか。で、その面白さは何から来るものなのだろうか、と少し考えて見た。

 

もちろん、当人のプレイ中の解説とかも面白いんだけれど、やっぱり決定的なのは、「マリオメーカー」というゲーム自体の革命性、というが私の結論。

 

一応知らない人のために補足すると、マリオメーカーとはその名の通り、誰もが一度はやったことのあるであろうマリオのゲームを自分で作ることができるゲームだ。このゲームの何が凄いって、要はみんながゲームプログラマーになれる、ってことであり、つまりは消費者から創造者へ変わったと言う点が革新的なのだ。

 

創造市場というのは、近年は確実にマーケットとして拡大している。おそらく、大量消費の時代に多くの人が飽きを感じ、創造を新しい娯楽として捉え始めているからだ。近年成長するサービスの多くは人の創造性を駆り立てている。

 

LINEスタンプ・Instagramなど、あるいはメルカリとかもそれに該当する。そして創造する人たちに支えられたサービスは、アップデートのスパンが非常に早いため、消費に新しさが生まれる。結果的に利用者にとっても面白いものになる、という好循環が生まれるのである。

 

マリオメーカーの場合も、同じで、①マリオメーカーにて多くの人が娯楽としてゲームを創造する。②新しいステージをクリアする(消費する)人が増える、と言う流れで利用者が増えている。

 

ただ、マリオメーカーが他のサービスと決定的に異なっているのは、「消費の仕方」自体に対する面白さがあることだ。つまり、「人が難しいステージをクリアしている様」も一つの作品になる、ということ。

 

それはゲームのスポーツ性というか競技性によって達成される性質なのだろう。例えば、Lineの非常に作りこまれたスタンプやInstagramに投稿された美しい写真は万人が平等に楽しむことができる。そこに競争原理が存在しないからだ。逆にいうと「消費の仕方」に差異はなく、よって価値もない。

 

しかし、ゲームはプレイする人によってその結果に差異が出る。昔、神動画というサイトでゲームを最速でクリアする動画とかが流行っていたけれども、これらが人気が出るのは、普通の人にはできないことをできる希少性があるからで、それはプロ野球が人気なのと全く同じ理屈である。

 

大げさに言えば、マリオメーカーは、「誰にでも簡単に新しいスポーツを作るためのプラットフォームを作った」のである。スポーツ観戦に踊らされている人口数を鑑みれば、どれほどの影響を起こしているかは計り知れない。

「能力が高いこと」と、「パフォーマンスが高いこと」は完全に別である

今日は課長から夏のボーナスの評価を聞いた。結果は、

 

「期待通りの働き」

 

であった。つまり、普通ってこと。

 

「役職が着いた初年度は全員一律最低の評価をつけられる」という謎の社内規定によって、昨年は全く自分の働きが客観的にどうなのかがわからなかったので、ようやく純粋な評価がもらえると、ほんの少しだけ期待していたのだが・・・。世の中はそれほど甘くはなかった。

 

冷静に考えれば同じ役職内の相対評価で決まるので、年次が最も低い私の評価が低いのは当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、ここ半年くらいは自分の成長を割と実感できていた。若干の手応えがあっただけに残念である。例のごとく、課長からはエラい人へのアピールが足りないのでは、とだけ言われた。

 

私はエラい人に媚び諂ったり、過度なアピールをするのが得意ではない。というか嫌いだ。わざわざ社外で交流することは皆無に等しいし、仕事上で、必要な時だけ伝えたいことを言うだけ。それが私の最大限のアピールだし、そのスタンスで今のところ問題はないと思っていたものの、もしそんなことだけが原因で他の人に比べて本当にパフォーマンスが低いと思われているのは少し癪だなーとは思う。

 

でも、事実ベースでアピール云々ではなく、それほど高いパフォーマンスを出せていない、とも私は考えている。

 

そもそもパフォーマンスとは何なのか?資料を作るのが早い、成果物のクオリティが高い、プレゼンが上手い、そんなことを考えている人ももしかしたらいるかもしれない。確かに現場レベルであれば、そういう人はパフォーマンスが高いと考えられる傾向にあるだろう。

 

しかし、部長、事業部長、などレベルが上がってきた時にそんな話はどうだっていい。全て手段でしかないのだ。その結果チームとして何を成し遂げたのか?が重要で、その結果に対する貢献度が個人のパフォーマンスなのだ。

 

学生の頃は、「能力が高いこと」と「パフォーマンスが高いこと」は同じであった。試験で100点を取れるやつは勉強において能力が高い。そして、100点という結果自体がパフォーマンスである。二つは全く同じなのである。

 

しかし、社会人の場合は、この二つは完全に別物だと考えた方が良い。なぜなら、仕事によってパフォーマンスのレベルが左右されるからだ。たとえるならば、100点満点の試験を実施するのか、1000点満点の試験を実施するのかを仕事によって左右される。そして、ほとんどの仕事は人事によって左右される。

 

もし、仮に同じくらいの能力を持った二人だったとしても、解くテストの上限が10倍違えば、満点の働きをしたとしてもパフォーマンスも10倍の差が開く、ということなのだ。そして、評価というのは基本的に「能力」に対してではなく「結果」に対して下される。

 

良い仕事を自分から取りに行くことがいかに重要であるかがわかる。

生きていくって

ドラマ半沢直樹の最終回で、主人公である半沢が、自分を裏切った近藤に語りかけるシーンがある。

 

生きてくって大変だな。ときどき思うよ。なんで銀行員なんかになっちまったんだろって。・・・

 

社会人になってこのシーンを見ると、妙にじーんとする。この「生きていくって大変だな」って言葉に非常に共感してしまう自分がいるのだ。私も時々思う。なんで今の仕事なのか。なんで今の自分なのか。

 

私は収入も安定してるっちゃ安定してるし、労働時間だって極端に多いわけじゃない。仕事だって別につまらなくはない。警備員みたいに単調な仕事に比べればずっと面白いはずだ。それでも、毎日大変なのだ。そして、これからずっと今ぐらいの大変さは続いていくのだろう、と考えるとやはり憂鬱である。


では、子供の頃は楽だったのだろうか。そうではない。考えてみれば、楽な時なんてのはほとんどなくて、常に切羽詰まっていた。夏休みの宿題は終わらせなければいけない、毎日部活はしんどいし、バイトもしんどいし、学生を全うするためには勉強も必要で、研究しないといけない。決して楽ではなかった。さっさとシンプルに社会人になりたいと思っていた。

 

ただ、学生の頃に比べて暇になった感覚はあるけれど、楽になったという感覚は正直あんまりなくて。一方で学生の頃よりも楽しくなった、という感覚もない。はて。学生の頃に思っていた社会人はもう少し面白いものだと思っていたけれど。

 

慣れてくると結局飽きてくる。業務に飽きるというのはもちろん一つあるとして、人間関係に飽きる、というのもあるし、毎日目にするものに飽きている、というのもあるかもしれない。

 

考えてみれば、大学院で別の大学にいったのも、5年も同じところに所属していると、もうさすがに飽きたな、と思ってしまうのだ。

 

今の私も5年目なので、たぶんそういう頃合いなのだろう。そもそもそんなに気の合わない人たちとずっと一緒にいても楽しいわけもなく。限界が見えていて、ほとんどのことが飽和状態になっているのだ。

 

ただただ飽きない何かを見つけたい。

ホンモノの要件定義

システム開発プロジェクトにおいて、まず最初に行う工程が要件定義である。要件を定義するわけであるが、ざっくり言うと、「何を開発するのか」を決めること、である。対照的に、設計工程では「どうやって実現するのか」を決めることも合わせて覚えておきたい。

 

要件定義は、作るものを決める工程であるが、それはお客さんからの要求を元に作る。だからこそ、システム開発の中では最も重要な工程だと言われている。だって、「作るもの」を間違えたら、どうやって作ろうがどれだけ美しく作ろうが全く価値のないものになるからだ。

 

例えば、テレビが欲しい人に対して、カメラを売ったって何の価値もない。それがいかに精密に作られていたとしても、だ。これから開発プロジェクトを進めるチームメンバ・ステークホルダーの仕事を無駄にしないためにも要件定義は確実に抑えたい。

 

ただ、一方で要件定義というのは非常に難易度の高い仕事でもある。難しい所以の一つが、お客さん自体が何がほしいのかを把握していない、ということである。これはシステム開発に限らずだけれど、いかに潜在的なニーズや課題意識を引き出せるのかがポイントだと言われる。

 

先ほどの例で言えば、テレビが欲しい人に対してテレビを提供しても満足してもらえない場合があるのだ。なぜなら、お客さんは、「何かを達成するための手段としてのテレビ」が欲しいのであって、本当に欲しいものはその「何か」であるからだ。その「何か」を提供するために必ずしもテレビが最適だとは限らない。むしろそうではないことの方が多いかもしれない。

 

もっとも厄介なのは、特に受注型であるSIの場合は、要件定義がミスっていても開発プロジェクトとしては成功、と判断されてしまうところだ。お客さんがすごく満足したわけでもなく、売上増加に貢献できたわけでもないが、お客さんからお金をもらってシステムを納品できればプロジェクトとしては御の字になってしまうという構造的な問題がある。

 

すると、ホンモノの要件定義を理解することもなく、「要件定義とはこういうものだ」みたいな誤った認識がまかり通ることになる。

 

話を戻すけれど、要件定義の難しさはお客さんとのコミュニケーション・ヒアリングによって答えを導き出していくことにあるのでは?と考えた人もいるかもしれないけど、実は企画型案件の場合でも同じ、もしくはそれ以上の難しさがあったりする。

 

企画型案件とは、ある課題に対してこういうことをしたい、そしてそれを実現するためのシステム開発のことである。お客さんの要求を元にシステムを作るのではなく、自分たちの理想を元にシステムを作る。だから、内部だけで進めることができるので一見すると簡単そうに見える。

 

しかし、「自分たちがやりたいことは何なのか?」を本当の意味で突き詰めて考えていくことに難しさがある。

 

一つは、理想を明文化・言語化するプロセスは難しいということ。お客さんが自分たちの欲しいものがわかっていないように、私たちも自分たちが欲しいものが実ははっきりとわかっているわけではない、ということだ。

 

特に、それが組織としての理想である場合、各々が考える理想像は微妙に食い違っていたりしてそれらの方向を合わせるのも一苦労である。また、変に理想を追い求めすぎたりして、青い鳥症候群のような、あるはずのない構想だけを描き、結果絵に書いた餅になる可能性も孕んでいる。

 

二つ目は、先ほどの話と少し逆で、地に足のついた発想をしてしまいがちであるということだ。どういうことかというと、つまり設計や実装のことをわかっているが故に、技術的な制約から理想を逆算して考えてしまうのである。まず、「やりたいこと」を考えてから「できるのかできないのか」を判断・検討すべきなのだが、頭の中で「できない」と判断してしまうと、そもそも「やりたいこと」として挙げられない。

 

目的から考えるべきなのに、まずツールや製品ありきで、あるいにニーズから考えるべきところをシーズありきで考えてしまう、というのはよくある話なのだろう。今の私たちもそんな感じで割と要件定義にハマってしまっている気がする。これらの点にはぜひご注意いただきたい。

Low-code開発とは

最近、「Low-code(ローコード)開発」というキーワードを耳にするようになった。具体的にはプログラミングが必要ない開発のことだ。そして、それはローコード開発用のプラットフォームによって実現される。

 

例えばどういうことか。通常であれば、html, css, javascriptなどの言語を用いてWebページを作成する。このはてなブログのテーマなども、誰かがそういったプログラム言語で記述したものだ。

 

しかし、ローコード開発プラットフォームでは、Webアプリケーション(ホームページ)などをドラッグ&ドロップなどの直感的な操作によって作成できる仕組みが提供されている。つまり、プログラムの知識がなくとも画面のデザインができるということだ。

 

他にもデータベースを簡単に作れたりする。もちろん、設計項目を考える必要はあるけれど、それをsql言語を使って記述したり、Webフォームとデータベースへの挿入を関連づけるのも直感的操作でできるので、プログラミング言語を使う必要がない。

 

ただ、これらの技術は最近になってできるようになった、というわけではなく、結構前からある統合開発環境Android Studioなど)でも提供されてはいた。ただ、なんというか技術者目線で考えれたときに、「コードを書かないのに開発と言えるのか?」といった葛藤や「技術習得を怠り甘えているやつのやること」みたいな風潮があったのだと思う。

 

私もAndroidアプリを作った時は全てコーティングで作った。GUIだと微調整ができない、という機能的な問題もあったが、やはり開発=コーディングという考え方があったからだ。

 

しかし、ローコード開発というキーワードが浮上してきたのは、世間にこのような開発が受け入れられ始めた背景が存在するからだ。考えてみれば、アセンブラに始まり、C言語、htmlなどプログラミングは時代を重ねるごとに簡単になってきている。それらも当初は技術者の甘えなどと揶揄されていたかもしれないが、今では当たり前になっている。それらを踏まえれば、今後も普及していくのは間違いない。

 

言うなれば、英語を必死で勉強して外人と話すよりも、翻訳アプリを使って話すのが当たり前になっていくようなものだ。確かに英語を話せるのはかっこいいかもしれないが、外国人と話すという目的達成のために必ずしも英語を勉強しなくても良いならみんなそうする。英語はただの手段だからだ。

 

プログラミングも全くもって同じで、要するにサービスを提供するための手段でしかない。だからわざわざ複雑で難解なことに時間をかけなくてもいいし、その方がビジネス的には合理的なのだ。プログラマーの時代が終わりを迎えつつあると思うと少し感慨深い。

 

ただ、誰でも使えるほど簡単なのか、というと正直そうではない。今、私も現在の開発案件でこのローコード開発プラットフォームを使って開発をしているが、使っていて思うのは、結局システム設計のスキルは必要だということだ。

 

本当に優秀なプログラマーであれば、何を使うにせよ、良い設計で勝負していくことを目指して欲しい。

ディスカッションバカになってはいけない

会社の中に一人や二人はいるのではないだろうか。ディスカッションになると饒舌に話をし、自分の意見をいけしゃあしゃあと発言する人。「議論で発言しないやつに価値がない」という意識が根付いた人間が陥りがちなパターンだ。

 

無論、会議の場で何も発言をしないよりはマシかもしれない。ただ、発言だけをひたすら繰り返すことにそれほど大きな意味はない。しかし、発言にある程度慣れてくると、自己顕示欲が出てくるのか、自分の思考に陶酔してしまうのか、なんなのか、そういう”ディスカッションバカ”になってしまう人がいる。

 

議論というのは基本的に2パターンしかない。一つは結論を出す場であり、もう一つは気づきを得る場だ。これらが意味することは何だろうか。それは決して「思考を深める場ではない」ということだ。なので、どんなテーマであっても、長時間議論をするべきではない。

 

もちろん、議論によって思考が深まることもあるだろう。だから、議論はどんどんしていくべきだ、と考えている人もいるかもしれない。でもそれははっきりいって生産性の低下を招いている。

 

気づきさえ得れば、各々がそのインプットを元に情報収集を行い、思考を深めることは可能である。次は結論を出す場で、再度話をすればいいのだ。その方がはるかに生産性は高い。

 

一般的な会議であれば、大抵の場合が時間が決まっているので、それほど無駄話に終わることは少ないかもしれない。しかし、休憩程度の小話のような、ちょっとした相談のような、それも割と立場の近い人同士の会話がこのような議論に発展していくケースも多いのではないか。

 

当の本人達は沢山話して頭の中はスッキリしているかもしれないが、それはたぶん一人でやるべきだったし、必要以上の時間を掛けている、場合が多い。たとえ会議の場ではなくとも、「結論を出すために」あるいは「気づきを得るために」という意識を持っておかなければ、ディスカッションバカに認定されることになるのでご注意を。

世界に希望はあるのか

会社が嫌で自殺してしまう人がいる。


そんな人に対して多くの人は「辞めればいいじゃん」と考えているだろう。私もどっちかと言えばそんな風に考えている。たかが会社だし辞めればええやん、と。

 

 しかし、「辞める」というのは問題解決ではないこともまた事実である。たとえ今の会社をやめたって別の会社に勤めなければ生きてゆくことはできない。あるいは、会社に勤める必要なんてない、という人もいるけれど、何かしらの手段でお金を稼ぐ必要はあるわけで。

 

つまり、「辞めた」代償に「始めなければならない」、という負債を負うことになるのだ。しかもその返済期限はそれほど長くはない。そして、「会社なんてどこも同じだろう」と推測で結論付けてしまうと、世界中に希望がない、だから命を絶つ、という判断になってしまうのだと思う。

 

私は別に会社がめちゃくちゃ嫌、というわけではないし、労働環境についての不満はそれほどない。ただ、すごくやりたい仕事をしているわけではないし、正直最近は退屈を感じることも多い。人との調整にもうんざりだ。そして何よりこんな仕事が一生続くのかと思うと、会社を辞めたくなることも当然ある。

 

しかし、辞めてどうするのか。でも何らかの労働は始めなければならない。では、別の会社を選んだとして、何かが変わるのだろうか。きっと何も変わらないだろう。こういった憶測で答えを出した瞬間、世界に希望がなくなるのだ。

 

だから私たちは実験をしなければならない、のだと思う。

自動化の先にあるもの

合理化・自動化の先に新しい価値は生まれるのだろうか。

 

自動化や合理化は大抵がその効果を定量的に測ることができる。例えば、自動お掃除ロボットルンバを使えば、掃除にかかる時間が丸ごと削減できるので、当然人がやるよりも明らかに良い、という判断がつく。こんな風に何かが自動化されるというのは効果が単純で価値が明白ではある。

 

他にも、高性能化、というのも価値が明白だ。テレビで言えば、画素数は高い方がいいに決まっている。CPUなどの性能も同じである。他にも定量的に測れる価値は必ずどっちが良いのか判断がつく、という単純明快な特徴を持つ。

 

しかし、そこに対するコストは発生する。そして、定量的に良いと判断できるものは必ず費用も嵩む。すると費用と効果のバランスを考えなければならない。つまり、必ずしも良いものを皆が選ぶわけではない。

 

また、一定の高水準を満たすようになると、それ以上のコストをかけたくない、という心理が働く。SHARPの亀山モデルが失敗に終わり、韓国メーカーのテレビが売れたのはそのためだ。ある程度高水準になると、単純に数値が高いだけでは「価値」として認定されなくなる。

 

現代に求められているのは、「数値が向上すること」ではなく、「数値が向上したことによってどんなことが実現できるのか」を示すことだろう。例えば、CPUなどの技術は今もなお性能という数値的な改善が求められている分野だ。CPUの性能が上がることそれ自体にはおそらく価値はない。

 

しかしながら、AI、ディープラーニングなどの演算処理に今のコンピュータスペックでは不十分であるという課題があるから、CPUの性能向上には価値が認められるのだ。さらに言えばAI技術を使うことによって、世の中のこれまで解決できなかった課題が解決できると信じられているからこそ、なのである。

 

などと考えていると、自動化や合理化もその先に何かに繋がる価値があるのでは?と思ったり。あるいは、自動化や合理化を最終目的にしてはいけないのでは、という懸念。今では〇〇自動化、みたいなキーワードは、それ自体が一つの価値であるように語られているけれど、もうそんな時代ではないのでは、という懸念。

 

実際、自動化されたからこそ生まれた新しい価値、というのはあるはずで。例えば、自動車。自動車が生まれた頃の自動車の価値というのはきっと、「より速く移動できる」ことだったはず。でも、自動車の価値はそれだけではないはずで。

 

例えば、「宅配サービス」なんてのは自動車の仕組みなしには考えられなかっただろう。自動車があったから「物を速く届けられる」という価値が生まれた。そして、物が速く届けることができるからこそ成り立っているサービスやそれを提供する価値が必ずある。

 

では、システムオペレーションが自動化されると、どうなるか。システムオペレーションが自動化されたからこそ実現できる価値とは何か。

 

その答えが見つからない。

幸せの方程式とは

 幸せの方程式とは何なのか。そんなことを考えると、大抵語られるのは、「良い人間関係」とか、「生活の保証」とか「家庭」、そして「お金」などだ。他にも、「他人からの承認」、「達成感」、「自己実現」みたいなものも候補には上がるだろう。

 

これらは多分正しいのだと思う。もちろん、年収が2000万以上になっても幸福度は上がらない、みたいに多ければ多いほど幸せなわけではないけど、やっぱりこれらが多いほど幸せと考えるのが妥当だ。

 

ただ、私は幸せとはもっと動的なものだと思っていて。つまりは幸せな状態が続いたとしても幸せではない、という矛盾した状況が起こり得るのでは、と考えていて。要するに、時間微分値で定義するのが正しいのでは、ということだ。

 

何を言っているのかわからない、という声が聞こえてきそうなので、もう少しわかりやすく。

 

例えば、すごく欲しい車があったとする。そして、必死に働いてお金を貯めて、その欲しかった車を購入できたとしよう。すると、どうだろう。すごく嬉しいはずだ。そのまま数週間はドライブに出かけるのが楽しみでならないはずだ。そういう状態は幸せと呼べる。

 

しかし、そのままさらに数ヶ月、半年と時が経った時に同じ気持ちが続いているだろうか。物を購入したことのある人ならば誰でも共感していただけるはずだが、その幸福感は決して続かない。その幸せの状態が普通になってしまうからだ。

 

絵にするとこうなる。車購入時の幸福度は高い。そして、車を手にいれたらその幸福度は変わらないはず。なのに、幸福度が異なるという矛盾が発生する。

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なんでこんな現象が起こってしまうのか。その答えが、幸せとは動的に定義されるものだから、である。具体的に言うと、幸福度の時間微分値、つまりは上の絵で言う矢印の傾きが幸福度を決定している、っていうわけ。矢印の傾きが横ばい、すなわちゼロなので、車を購入して少し経てば、特別な幸福感は感じないというわけだ。

 

逆に、幸福を感じられるのはどんなときか。それが下記。

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未来に今より幸福度の上がる状態が手に入る見込みがあると、人間はそれだけで幸せだったりするのだ。例えば、さっきの例でも、実は「あと6ヵ月頑張って働けば車が買える!」と考えている時が実は一番幸せだったりするのだ。恋愛で片思い中が一番楽しい、みたいなのと同じ理論。

 

なんとなく、読者のみなさまに私の意見は伝わったのではないかな、と勝手に思ってる。今の説明のまま終わると、数学的には、こんな式になってしまう。

 

d(幸福度)/dt = 幸福度

 

受験数学をよーく勉強した人とかが見ると、「幸福度=e(ネイピア数)のt乗で表せるのか!笑」みたいな誤解を招くことにもなりそう。

 

なので、ちょっと補足をしておく。結局、さっきの絵の縦線は「幸福度」という言葉で表すべきではない、という話。じゃあ、どう表すか。理想値、理想像、目標値、目標、そんな概念っぽいものではなかろうか。

 

「でも、理想って結局幸せな状態をイメージするんじゃないのか?」と問われればもうノーアンサー。今の日本語では、その両方の概念を幸せと呼んでしまうけれど、多分概念としては本当は別なんじゃないか、というのがギリギリ出せる答え。「憧れ」とかが近いのかも。ほぼ理想と一緒だけど。

 

ということで、最後まとめ。

 

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今でも何かに憧れてますか。 

分担する技術

仕事を適切に分担するのはそれなりに技術がいる。

 

もちろん、どんな組織でも仕事は分担して進めているとは思うが、分担して進めただけの効果が果たして得られているのかが大事であって、分担したけど何かそんなに速く終わらなかったね、みたいなシーンは多々見かける。ということはつまり、適切に分担できていないと考えるべきなのだ。

 

分担する上での障害は大きく三つだ。

 

まず一つ目。超基本だが、ちゃんと分担できるレベルに作業をブレイクダウンすること。システム開発プロジェクトの場合は、WBSという階層構造で作業分解を行うが、ちゃんと分担可能な範囲に分解することが重要だ。

 

ちなみに、WBSを考えるためのツールは無料で公開しているので、ぜひインストールしてほしい。

play.google.com

 

ただ、このWBSを作る、とか、計画を立てるみたいな作業はそれなりに時間がかかる場合もある。少なくとも計画が立たないと他の作業が進められない、みたいなことになってしまっては意味がない。つまり、分担を考えるまでの時間はできるだけ短くしなければならないのだ。

 

どうするかというと、ざっくり分担できるレベルの粗い計画を立てる。そこから先の作業分解は分担を決めてそれぞれで進めてもらう。あとは各々で作成した計画のパーツを積み重ねれば全体計画となる。他にも例えば、計画と平行してもう見えている直近の作業に着手してもらう、でもいい。

  

そして二つ目。殊の外、日本企業においては人に対して仕事を割り当てる、みたいなやり方が取られるため、誰が何の仕事をやるのが適切なのか判断がつかないシーンが毎度毎度訪れる。特に、チーム内での検討事項は、「誰が」「何を」するのかを決めるということがよく必要になる。

 

ここで、大事なのはみんなで相談して決める、みたいなやり方はしないことだ。もちろんリーダーによってはそういうやり方を選択するもいるが、私に言わせればその時点で一歩意思決定が遅れている。セオリー的にはスキル適正、経験、稼働量などで決めるべきだろうが、適当でもいいからまず決めることが大事だ。別にスキルが足りなければ、それはむしろ成長のためだとも言えるし、稼働量の問題は進めてみてから再度調整すればいい話。

 

そして、最後。分担したら、ちゃんと任せること。特に、みんなよくわかっていない仕事をすることになると、なるべく多くの人が一緒になって考えようとしてしまうことが多い。これはここ半年間新規ビジネスの検討をしていたのでよくわかる。やたらとみんなで考える時間が多くなってしまうのだ。

 

 これはある意味良いアイデアを生み出すためには必要なアプローチにも思えるが、「みんなで考える時間」を作りすぎると生産性は極端に落ちる。みんなでやるのは「ブレスト」の場だけでいい。例えば、ブレストの結果をまとめる、みたいな仕事は一人でやろうが数人でやろうがほとんど大差はない。日本人の生産性が低いのは打ち合わせが多いのももちろんだけど、「みんなで考えましょう」が多すぎるのではないだろうか。

 

資料のレビューをむやみやたらにやるのも、ちゃんと任せきれていないからで、これも生産性が落ちる。レビューをすればするほど品質は上がるという幻想に取り憑かれている人は非常に多いが、たかがコミュ二ケーションツールである資料にそこまで過度な品質はいらないし、そもそも初めからちゃんと作れる人が作ればいい。

 

分業をちゃんと効率化するためには、必ず分担する技術が必要なのだ。

人はギャップを認識することしかできない

私たちが「これはおかしい」とか「間違っている」と判断する時、頭の中で行われているのは「比較」、それだけである。よく、変化に機敏に反応したり、違和感を検知できる人は感性の鋭い人と言われたりするが、感性の実態は、比較対象となる「答え」を頭の中に持っているかどうかが全てである。

 

例えば、以下の数式を見て欲しい。

 

1+1=5

 

ほとんど全ての人がこの数式をみると間違っていると考えるはずだ。そして、「間違っている」と判断した理由はたった一つ。頭の中で出した正しい結果と違うからだ。きっとほとんどの人が頭に下記の式を思い浮かべたはずだ。

 

1+1=2

 

すると、自分の前にある情報と自分の頭の中にある情報が違う。よって間違っていると判断するのである。つまり、自分の頭の中にある情報、すなわち”答え”と比較することによってのみ「間違っている」、「おかしい」などの疑問を抱くことができるのだ。

 

 なので、下記の例のように、少し複雑な式になった途端に判断が難しくなる。

 

1983726578÷24998378=924

 

この式は正しいか?否か。もちろん、適当に作った数列なので、電卓を使って実際に計算してみれば間違っていることは判断できるだろう。ただ、もう一度やって正しさを検証する、というのは、仕事をする上での良い方法論ではないし、少なくとも分担して仕事を進める意味がない。というわけで、この数式を見た瞬間に「何かがおかしいな」と違和感を抱けなければ確認者としては失格である。

 

ちなみに上の式は、複雑ではあるが、ちゃんと違和感はある。まず、結果の一の位が4になるのはあり得ない。なぜなら、4×8=32なので、少なくとも…2÷....8=となっている必要がある。逆のアプローチで考えても、...8÷....8という数式でありえる選択肢は1か6だけだ。だからやっぱりありえない。よってこの数式は間違いだ、と計算し直さずとも判断できる。

 

 

もし、一の位が1だったとしても、オーダーがおかしかったり、先頭の数字だけ計算して見てもおかしいということがわかる。いずれにせよ、「これが正しいはずだ」という知識をすでに持っているか、「こうすれば確からしき答えを瞬時に出せる」という方法を事前に知っておかなければ、妥当性を測ることができないのだ。

 

仕事の場合は、唯一の正解というものはないので、ざっくりでいい。また数式の例をするなら、

 

1983726578÷22998378=91

 

ぐらいであれば、何となく合っていそうだと判断して良い。(もちろん、誰が計算したのか、とか何の数字かによってはもう少し慎重に判断しなければならない場合もあるが。)実際に計算してみても、86.25…ぐらいなので大きく外れてはいない。数字の場合はこんなに外れるとよくないかもしれないが、「大きく外れてはいない」という状態を維持するのは仕事を進める上では非常に重要だ。

 

 もちろん、この考え方は自分が管理や確認をする側になれば当然求められるとしても、別に自分が作業者であったとしても、自分の頭で妥当性を判断する癖をつけるためにも「正解らしきものは何なのか」を事前に考えるようにしておくことをオススメする。慣れてくると、「何となくこれが正しい」という答えにたどり着くまでの時間が短くなっていくことだろう。