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そして今日も考える。

仕事場における教育とは

本気で社員の教育を考えるのであれば、”どういう人材に教育していきたいのか”を明確に定義した上で、その人材像になる上で大きなプラスにならない仕事は与えないことだ。私はそう思う。

 

例えば、雑用という仕事がある。誰もやりたがらないが、誰かがやらなくてはならない、そして誰にでもできる簡単な仕事であるがゆえに大した価値はない仕事だ。主に新人のうちは担当することになるだろう。

 

ただ、雑用の価値を説いてくる会社はおそらく非常に多い。おそらく、今の上の世代の人達も自分たちの若いころに雑用をやらされた経験から、雑用の重要さを語っているんじゃないか。

 

確かに、雑用をするときにも自分の頭で考えて工夫を凝らすことで、作業に意味を持たせる余地は十分にあるだろう。また、雑用のこなし方一つで評価が変わってきたり、信頼を得ることができたり、より責任ある仕事を任せてもらえるようになったりする。そういうサイクルが会社の中で回っていることは確かだ。こういったプロセスが当たり前に存在しているため、「どんな経験もいずれは役に立つ」という考え方が定着している。

 

しかし、肝心なのは”どの程度役に立っているか”、すなわち費用対効果の観点である。将来の人材像が決まっていて、3年間雑用ばかりをやってきた人間と3年間将来の人材像へと向かうための業務に取り組んで来た奴のどちらが成長しているか。考えるだけバカバカしいとは思わないだろうか。

 

はっきり言って別の会社にアウトソーシングしてしまった方がいい。コスト面で検討した結果、派遣を雇うと高く付くから、自社内でやりくりする、という判断をしてしまう会社は多いが、それは短期的な効果しか見ていない。

 

付加価値の少ない仕事をアウトソーシングする(BPO)のは今では当たり前の考え方になっているし、そもそも長期的にみれば、付加価値の高い仕事をさせること自体は売上の増大や社員の教育にもつながってくるはずだ。

 

とは言え、初めから新人に責任のある仕事を任せるのはちょっと、、、と考えるのが普通だろう。でも、それははっきり言って上司や先輩の能力不足、稼働不足の側面もあるんじゃないだろうか。仕事を任せたとしても、うまくリスクをマネジメントした上でフォローする能力があれば、大きな失敗は防ぐことができる。

 

外部から高いお金を払って講師を呼んでくるぐらいなら、初めから新人に責任のある仕事を任せて、フォローに回る先輩や上司の負担を減らすことにコストをかけるべきだ。

 

余談だが、DeNAには研修制度がないらしい。プロフェッショナル仕事の流儀でDeNAの社長が、「社員を育てるのは研修制度ではなく、良質な仕事だと考えています」とその理由を述べていた。この言葉には非常に共感できたのを覚えている。

 

「教育する」というと、さも他者を直接的に成長させるようなイメージを彷彿とさせるが、せいぜい出来るのは「本人が学習できるための環境を整えてあげること」でしかない。

 

これは別に会社でも学校でも同じ話である。ただ単に良い授業をたくさん聞いていたって、偏差値の高い生徒は生まれない。良質な問題と、その問題を解くために必要となる材料をいかに上手く提供できるかがポイントなのである。

 

本当に社員を教育させたいのであれば、まずは良い仕事を沢山与えることだ。私はそう思う。

燃え尽き症候群にどう対応するか

明日からリリース対応で地方へ出張することになった。念のため補足しておくと、「リリース」とは開発したシステムを市場へ初めて投入することを指す。つまりは、システム開発プロジェクトの終焉、というわけだ。同時に、私たちの仕事が全て完了することを意味する。

 

考えてみれば、社会人になってからは一度も足を止めたことはなかった。こなしてもこなしても様々な角度から生み出される仕事、降ってくる仕事。目の前の仕事を捌くのに必死だった。もちろん、休みはキチンと取れるのだが、私は抱えているタスクがあればついつい休みの日にも仕事の段取りなどを考えてしまうタイプだ。

 

抱えているタスクがたくさんある、という状態はあまり健全だとは思っていなかった。なぜ休みの日にまで仕事のことを考えなければ、と思った時もあった。しかし、いざ抱えているタスクが全て無くなってしまうと、結構退屈で、無気力状態になる。嫌なことからやっと解放された!という感覚は驚くほどに少ない。

 

俗に言う、燃え尽き症候群という奴だ。私は人生の節目節目で何かを頑張ってきた後は必ずこう言った精神状態に陥る。バスケを引退した時もそうだし、最初のバイトを辞めた時もそうだった。

 

大学受験時なんかは特に顕著で、大学合格が既に決まっているのに、無性に勉強したくなる時があった。まだ自分の中での自分が勉強した結果に納得がいっていなかったのである。とは言っても、目的がないのだから勉強する意味もなく、結局何も手につかなかった。たぶん私は何かにハマると、誰かに「ストップ!」と言ってもらえなければ、ひたすら完璧を目指し続けてしまうタイプなのだろう。

 

燃え尽き症候群というと、なんだかたいそうな病名っぽいけれど、私にしてみれば、一生懸命打ち込んできたことに打ち込めなくなったのだから、喪失感を抱くのは当たり前じゃないか?と思っている。慣れ親しんだ親友と絶縁して落ち込まない奴なんていないはずだ。逆に言えば、燃え尽きるということはそれだけ精一杯やったことの証でもある。

 

ただ、いつまでも燃え尽きているわけにはいかないのが人生である。特に仕事は会社がある限り会社員である限り永遠に続いていく。学生の頃は受験終わったから春休み、とか、期末テスト終わったから夏休み、とか、何かやり遂げた後のリフレッシュ期間みたいなものがあった。

 

しかし、社会人にはこの、「ちょっと休憩」、という概念が存在しないのだ。私も今週のリリースが終われば来週からは別のチームで、全くやったことのない仕事をやらなければならない。燃え尽きている暇なんてないのである。

 

では、急激に下がったモチベーションをどうやってあげればいいのか。

 

私の経験から言うと、低いモチベーションのまま、燃え尽きた状態のまま、何かに取り組め、という回答になる。もちろん、世間にはモチベーションを上げるための方法論がたくさん出回っているし、それらを試してみるのは一つの方法としては悪くないかもしれない。

 

ただ、個人的にはモチベーションなんてものは後からしかついてこないものだと考えている。そもそも、モチベーションなんか無くたって何かに取り組むことはできるのだ。「モチベーションがないので何もできません」、と全てモチベーションのせいにする人は、モチベーションがあれば全く苦しまずに何かに取り組めるという幻想を抱いているのである。はっきり言って、生きていて苦痛が伴わないことなどない。

 

やる気のない中、新しい情報を得たり、新しいことに打ち込み出すのは確かにしんどい。成長率もそれほど高くはないだろう。しかし少しずつ着実に今までの自分の中に変化を生み出すきっかけとして残っていく。理解度が高くなると、人間はその事象に少なからずハマっていくものである。何かにハマっていくと、それがモチベーションにも繋がるのだ。

 

モチベーションなんてなくても行動はできる。