∑考=人

そして今日も考える。

安定は自分の中にしかない?

終身雇用が破綻した今、「この世に安定などない」、「自分の中にこそ安定を求めるべきだ」、という主張があらゆるところで出現しています。にも関わらず、むしろそれでも何か巨大なものに頼ろうとしている人が増えている傾向にあるのも事実です。公務員を目指す男性、金持ちとの結婚を望む女性、はその一例です。この事実に、著名人の多くは度肝を抜かれてしまったようです。私もはっきり言って自分の中にしか安定はないと考えていますし、自分の生活全てを誰か他人の手に委ねてしまうほど愚かなことはないと思っています。



ただこれは一つの考え方に過ぎないんですね。実際のところ、多くの人にとっては、自分以外の何者かに安定を委ねることは極めて合理的だったりします。順を追って説明しましょう。まず、安定は自分の中にこそ求めるべきだ、という考えに至るプロセスは以下のような論理展開になっています。

事実1:終身雇用が破綻しつつある

解釈1:巨大組織に入っても定年まで働けない

主張:自分が能力をつけて安定するしかない

これに対し、安定を他者へ求める人の論理展開は以下のようなものだと推測できます。

事実1:(上に同じ)

解釈1:少し大きいぐらいの大企業では定年まで働けない

主張:別の安定した企業(あるいは組織)に頼るしかない


事実は当然ながら同じです。両者の事実認識もそれほど変わらないと思います。問題は解釈です。前者の解釈は一般化し過ぎています。巨大組織に入っても定年まで働けるとは限らないだけで、必ずしも定年まで働けないわけではありません。後者の解釈は逆に近視眼で捉えています。大企業でも安定して働くことはできないけど、より安定した組織ならば大丈夫だ、という発想です。



何をやっても100%安定はない、ということは多くの人が気づいています。それでもできるだけ不安定を取り除きたいと思うのが人間でしょう。
なので、なるべく安定できる方法を模索します。



自分の中に安定を求めるタイプの人は、不安定な世の中に任せるなら、むしろ自分がやった方が安定するだろう、という自信がある人の思考回路です。例えば、車の運転で考えてみます。友人に運転を任せていたら、平気で信号無視をして、平気で標識を無視します。こんな運転をするぐらいなら、私が運転をした方がマシだと思うことでしょう。これが、会社に安定がないなら自分の中に安定を求めよう、という心理です。



これに対し、巨大な組織に安定を求めるタイプの人は、不安定な世の中であっても、自分がやるよりは安定するだろう、と考える人です。友人が平気で信号無視していても、平気で標識を無視していても、自分が運転免許を持っていなければ、それでも友人が運転している方がマシだと思うでしょう。これが巨大組織に頼る心理です。極めて自然ですよね。



車の運転の場合は、そんな危険な友人の車には乗らない、という選択ができるわけですが、人生の運転(働くこと)を放棄するとは、死ぬことを意味します(厳密には働かなくても生きていく方法などいくらでもありますが、多くの人はそんな風に考えています)。なので、できるだけ安全な車を探します。自分自身が安全に運転するスキルをつけようとは思わないし、あるいはそんなことはできない、と考えてしまっているからです。



自分の中にある安定は長期的に作り上げていくものだと私は考えています。現時点での自分の運転が安全でないなら、他人の車に運転してもらうのも良いでしょう。でも、できるなら、自分が他人よりも安全な運転をできるようになるために練習することも必要です。ついつい、運転の上手い人が近くにいると、自分は車の運転の練習を一切しなくなってしまうため、成長スピードは遅くなるかもしれません。かと言って、自分でいきなり運転し始めても、成長スピードは速いのかもしれませんが、どれだけのものを犠牲にしてしまうかもわかりません。最悪の場合、運転などできない状況になってしまいます。そして、どこまで自分をブラッシュアップしたとしても、自分の中にも100%の安全はありません。



自分の中に安定を求めるのが大切というのは、既に失敗した時のことを想定した考え方です。誰かに頼って失敗するのと、自分に頼って失敗するのとどっちがいいですか。失敗したときに後悔するのはどっちですか?より後悔しない方がきっと正しい選択です。