∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

理想論を現実的に

半沢直樹の最終回の視聴率が40%を超えて久しいが、私も先日見終わった。主人公の半沢は、弱者の立場で社会の不条理に抗う正義のヒーローで、視聴者の多くもスカっとする気分になったことだと思う。私自身、爽快感を感じ、自分の中にもまだ苛立ちという感情があったことを最確認できた。堺雅人の演技もグッド。

 

今は堺雅人繋がりでリーガルハイを見ている。個人的にはこっちの方が面白い。コメディ要素が多いのはもちろんだが、主人公である弁護士の古美門が悪役として描かれていることがミソだ。人格が破綻した主人公だが、なぜか裁判には負けない。

 

半沢直樹は理想主義であり、許されるべきではないことに裁きを与えていく。これに対し、古美門研介は超現実主義であり、時には許されてはいけないことをも許す。常識で判断すれば、明らかに間違っていることの正しさを主張する。理想主義に対するアンチテーゼである。

 

リーガルハイを見ていると、正義と悪に本質的な違いはないことを再確認できる。例えば、現在放送中の第二シーズンで登場した羽入は、絵に書いたような理想主義者である。皆が幸せになることこそが最善だと信じ、その理想を胸に古美門と法廷で争う。しかし、未だに勝った試しはない。そして、徐々に悪である古美門を倒すために手段を選ばなくなってきている。

 

悪に勝つためには手段を選ばなくならない正義はもはや正義とは呼べないだろう。皆が幸せになることが1番という考え方は、残念ながら絶対的に正しい判断ではないからだ。和解こそが最も良い、というのはただの決めつけでしかなく、別の誰かにとってそれは悪でもあるのだ。その上、汚いやり方まで使ってしまったらそれは悪に等しい。正義か悪かなんて考えるだけ時間の無駄なのだ。みんな誰かにとって正義だし、誰かにとって悪。で、勝った方が正義になるから、民主主義国家では支持者が多い方が正義になる。それだけのこと。

 

私が気に入らないのは、誰かのためとか、皆のためとか、あなたのためとか言って正義感を振りかざす人。別に表現としてそういう言い方をしている分にはいいんだけど、どうもコイツ本気でそう考えているな、と思うと腑に落ちないところがある。誰かのために行動するのは正義、みたいな風潮があるから、それ自体が絶対的に正しいと信じているのかもしれない。

 

本気でそう考えている人達は、「誰かのため」、じゃなくて、「誰かのせい」にしているだけ。大切な家族を守るためにお金が足りないから、で銀行強盗したら、その人は正義と呼べるだろうか。誰かのためをモチベーションにしているから、失敗したとき、他の人に迷惑を掛けたときに結局誰かのせいにしてしまう。これは本当に気を付けないとヤバい。善はどこまでいっても偽善なのだ。

 

中学の頃、友人に宿題の答えを見せたことがバレて怒られたことがある。先生からは散々友人のためにならないという旨の説教をされた。クラスが少し荒れていた頃も、クラスを荒らしている友人ではなく、なぜ友人に注意してやらないのか?と怒られたことがある。間違っていることがわかっててなぜ注意しないのか、と。

 

考えてみれば、このぐらいの時期から私の中の善悪の基準は分かれていったように思う。社会的に正しいかどうかとは別に、自分が正しいと思うかどうか。確かに、友人に宿題の答えを見せてやることは相手のためにはならないかもしれない。ただ、それは長期的に考えた時の話であり、少なくともその時の友人のためにはなる。だから、本当のことを言うと、今でも宿題を見せる行為自体それほど悪いことだとは思っていない。

 

私が仮に長期的に相手のためになることが100%正しいと信じていたとしよう。それでも私は宿題を見せてやると思う。どうせ私が見せなくても、他の誰かの宿題を見せてもらうことになるからだ。要するにやっても無駄、という結論づけだ。

 

そんなものは言い訳だ、やってみなければわからない、と言われるかもしれない。その通り、言い訳である。やってみて友人が変わる可能性も0ではない。ただし、何か大きな勘違いをしている。私は神様ではないのだ。私が宿題を見せないことで、私がその友人に嫌われるリスク、私がその友人にいじめられるリスクだってあるわけだ。そのリスクをとってまで、宿題を見せることを拒むべきなのか。そんなことはない。社会的な善を優先させ過ぎると自分自身が破綻する。我々は所詮、ただの人だからだ。

 

正しいことを主張してもいじめられても誰も助けてはくれない。いじめられている状態とは、残酷な言い方をすれば、その場で悪と認知されている状態なのである。正義を貫いて全員から悪者にされるリスクを負うことは並大抵ではない。可能性の低いことを実現するためにそれほどのリスクを負うなんてカッコイイけど馬鹿げている。覚悟のある人だけやって下さい。皆にそういう行動を求めるのは見当違い。

 

さしづめ、「誰かのため」というのは、「誰かのために自分が何かしたい」という自分自身の欲求でしかない。誰かのためなんて媒介に過ぎないのだ。そうすれば本当に大切な人が見えてくるし、何か悪いことが起こっても相手を責めずに済む。現実的に理想を考えればいい。