∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

信頼されないのは自己責任

例えば、付き合っている人がいるとして、自分の知らない間に携帯をチェックされた場合、どんな気分になるでしょうか。相手の自分に対する不信感を察して、苛立ちを覚えるんじゃないですか。どうして、自分のことを信じてくれないのだ、と。

 

相手の携帯をチェックして浮気を暴いてしまった場合なんて、悲惨ですよ。チェックした人は相手に対する不信感を覚え苛立ち落胆し、チェックされた方は相手に不信感を持たれていたことに苛立ち、落胆する。だから、相手の携帯をチェックするのはタブーなわけです。臭いものには蓋をしておきましょう。

 

ただ、実際に浮気をしていた人が苛立ちを覚えるのは見当違いでしかないと思います。百歩譲って、浮気をしていないにもかかわらずチェックされたのなら怒る資格はあるでしょう。でも、実際に浮気をしていたのなら話は別です。信じるに値する行為をしていないわけですから。裏切りを行為をしているくせに、信じてくれないなんてひどい、という発想は被害妄想も甚だしいです。

 

「私を信じて」というのは詐欺師の常套句として知られています。少なくとも、信じてくださいとお願いしないと信じてもらえないようなら、相手にとってのあなたは信じるに値しない人間だということです。言動と行動が一致していないから、正確にはそう相手に思われているから信じてもらえないわけです。信頼されないのは100%自己責任です。

 

日本人は簡単に物事を信じてしまう国民です。例えば、旅行に言って写真取りましょうか?と聞かれれば、簡単に見ず知らずの人に携帯ないしはカメラを預けるでしょう。相手が信用に値する人間かどうかなんて瞬時に判断はできませんし、おそらくそんなことすら考えないでしょう。懐疑的な私ですら一々そんな思慮は働かせません。

 

実際のところ、海外ではそのまま盗まれてしまう事件が多発しているようですが、平和な国日本ではそのような事件は稀です。これは喜ばしいことです。無条件に相手を信じられる世界が少なからず実現されているのですから。ただし、このことは自分も無条件に信じられるべきだ、という誤った解釈も生んでしまっています。

 

こういった文化的な背景のためか、信じてもらえないのは相手の考え方がおかしい、という発想に陥りがちです。しかしながら、信じてもらえないのは、自分が信頼に値する人間ではないからです。

 

人間はしばしば本音を隠すことで信頼を勝ち取ります。なぜなら、人間本来の考え方は醜いものだからです。そんなものをさらけ出してしまえば誰からも信用されないのではないか、という不安があるからです。そして、本音を建前で隠した上で、信頼を勝ち取るのが当たり前になっています。

 

別にその行為自体は仕方がないのかもしれません。しかし、本音を建前で隠し続けた挙句、建前こそが自分の本音なんだと解釈していくようになります。自分で自分を騙しているのです。偽った自分こそが真実の自分なんだ、と。

 

真実の姿を相手から指摘されると、嫌な気持ちになります。なぜなら、建前で作り上げた自分こそが自分自身で、相手から指摘された自分は、本当の自分ではないと本気で思っているからです。

 

しかし、断言します。それが本当の自分だとわかっていれば、指摘されたぐらいで腹は立ちません。相手から本当の自分を指摘されたときに、自己矛盾が発生するため、負の感情が芽生えるのです。

 

相手から携帯をチェックされたときに感じる怒りも同じです。この時の思考回路としては、本来自分は信頼に値する人間なのだから、相手に信頼されないなんておかしい、という自分自身に対する矛盾があるわけです。自分は信頼されるほどの人間ではないと思っていれば、相手に信頼されないことは自然であり、納得に値するからです。

 

この事実を認めるか認めないかは本人の自由でしょう。ただ、認めない限り、些細なことに苛立ちを覚え、嘘を嘘で塗り固めていくことになります。自分自身に嘘をつくほど不幸な人生はありません。時に自分自身を繕う必要はあっても、その綺麗な姿こそが自分自身だと過信しても辛いだけです。