∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

一人暮らしの恐怖

一人暮らしに慣れてしまうと、一人で生きていくことって案外簡単なことかもしれないなと思います。そりゃ面倒なことはたくさんあります。今まで母親が当たり前のようにしてくれていた、食事、洗濯、掃除などを自分がしないといけないのですから。全ては自己責任、というわけです。

 

同時に、全ては自分次第。何をするにも自分自身でタイミングは選べるし、何をしてもいい。この自由度の高さを知ってから、私は一人暮らしって最高だなーとずっと思っています。多少の義務が増えても、これだけの自由を手に入れられるなら、メリットと言えるでしょう。

 

ただ、たまに思うんですよね。今私が死んでしまったら、誰が最初に気づいてくれるのだろうか、と。果たして誰かが気づいてくれるのか、と。

 

気づく可能性があるのは、私の家族、親しい友人、そして、私が現在所属している研究室、バイトをしている会社、来年から働くことになっている会社ぐらいでしょうか。日常的に連絡をとったり、会ったりする友人関係なら、それが途切れることで少なからず不審に感じるはずです。

 

ただ、なんというか、音信不通から死、あるいは病や事故などをいきなり連想する人は少ないように思うんですね。逆の立場で考えても、メールの返信がなかったり、電話をかけ直してこないくらいで、まさか死んでいるのでは、とは思わないですよね。

 

日常的に会う場合もそうです。例えば、研究室に2週間ぐらい行かなくても、その人が死んでしまったのではないか、と考える人はいないと思います。特に、私の研究室はさっぱりとした人間関係なので、何かしらの事情があって来ないだけだろうと考え、連絡すら取らないでしょう。実際、過去にドクターの先輩が1ヶ月ほど音信不通になったときもありましたが、生死を確認しようとした人は教員も含め誰もいませんでした。もっとも彼の場合は、盛んにツイートしていたので、生きていることは確認できていましたが、そうでなくても、行動が変わったとは思えません。

 

バイトもそうです。特に、パチンコ屋のアルバイトは、飛ぶ(連絡もなしに辞めてしまう)人が結構いるので、音信不通になったぐらいで、命に関わる出来事に巻き込まれたとは考えません。あーあいつも飛んでしまったのか、ぐらいの認識で片付けられるでしょう。

 

最近では、ソーシャルな繋がりもあります。しかしこちらも同じで、フェイスブックやツイッターなど、SNSを盛んに利用していた人がパタッと利用しなくなったとしても、死に結びつける人はいません。忙しくなったのだろう、とか飽きたのかもしれない、ぐらいにしか思わないはずです。私が2週間ブログを更新しなくても、その人が死んでしまったなど疑いもしないでしょう。

 

音信不通から死を結び付けないのは、ある意味当然とも言えるでしょう。今日会った人が明日には死んでいるなんて、そういう場面に直面した人でないと考えられないでしょうから。ほとんどの人は突発的な知人の死に出くわすことはありません。明日死なないという保証はどこにもありませんが、それでも、私たちは、明日も当たり前に生きているだろうという確信を持っています。なぜなら、それは多くの人にとっては経験則だからです。論理性はなくとも、今までがそうだったのだからこれからもそうだろうと考えてしまうのが人間です。

 

これは結構怖いことですよね。家の中で死んでしまったとして、その事実を自分の身近な人達に気づいてもらえないのははっきり言って恐怖です。そして、実際に死んでから発見されるまでにいったいどれだけの期間がかかるのか、なんて考えただけでもゾッとします。

 

百歩譲って、既に死んでしまっている場合はいいとしましょう。葬式のタイミングが遅れるくらいです。ただ、家の中で突然病が発症し、意識不明の状態に陥ってしまったときなんかは最悪です。早期に発見されれば助かるかもしれないのに、誰にも気づいてもらえないのですから。助かる命も助からなくなってしまいます。

 

風邪を引いたりすると、こんなことをよく考えます。今、私がしんどくなっても誰にも助けてもらえないんだろうなー、と。若いうちは自分から助けを求めるくらいは普通にできますが、歳を取り助けすら求められなくなった時、一人で住んでいる状態は割とリスキーなのかもしれません。自分の存在をちゃんと認知してくれる人が必要なんでしょうね。