∑考=人

そして今日も考える。

弱みを見せてもいいことはない

私は弱みを見せるのが大嫌いです。弱みを見せると舐められるし、バカにされるし、カッコ悪いし、自分が惨めになってしまう。そこまではまだ許せます。一番問題なのは、自分が本当に弱くなってしまうことだと思っています。

 

一方で、「弱みを見せるからみんなが助けてくれる」、「弱みを見せることで分かり合える」、こんな良い言葉もありますね。確かに強がってばかりの奴は何となくいけすかない感じがするし、壁を作られている感じがするのは事実です。少なからず私をそういう目で見ている人もいることだと思います。

 

でも、私も昔は明らかに弱い人間でした。小学校のときは、何もかもが思い通りにいかず、それが悔しくて毎日のように泣いていました。将棋で父に負けたら泣き、兄とゲームをして負けたら泣き、母親との口喧嘩に負けて泣き、友達と喧嘩して負けて泣く。弱みを見せまくっていたわけですね。

 

すると、父は私が勝てるまで駒を減らして勝負してくれたりもしました。兄とゲームに負けた私を母が励ましてくれ、母と口喧嘩に負けた私を兄が励ましてくれたりもしました。友達と喧嘩して負けた私を別の友達が慰めてくれました。弱みを見せるとみんな助けてくれるみたいです。

 

当時はそれを救いの手だと思ったこともありました。でもそれは決して助けてもらったとは言えないんですね。自分は何一つ変わっていない。簡単に言うと、周囲が補正をかけてくれていただけなんですね。

 

鬼ごっこをする時に、「ごまめ」というルールがありました。たまに、足が遅くて、鬼になると誰も捕まえられなくなって泣き出す子がいるんです。すると、どうするかというと、その子だけ特別扱いするんです。なるべく狙わないようにする、それが「ごまめ」です。余談ですが、私は足は速かったので鬼ごっこでは泣いていません笑。

 

で、「ごまめ」扱いされている子を周りから見ると、ただひたすら惨めでした。「なるべく狙わないように」がそのうち「狙わないように」に変わっていく。すると、どうでしょう。それってもうその子は鬼ごっこに参加してないのと同じですよね。一緒にいるようで別世界にいるんです。「ごまめ」になった本人も薄々気づいていたかもしれませんね。これは「ごまめ」ではなく「いじめ」だと。

 

当時はあまり自覚していなかったと思いますが、彼と私は同じようなものです。弱みを見せても状況は良くならないのです。そして、弱いもの扱いされることで、それに甘んじさらに弱くなっていくのです。

 

例えば、辛い出来事があって、あなたが誰かに弱みを見せたとします。すると、優しい誰かがあなたを助けてくれることでしょう。するとあなたはハッピーになります。助けた相手もあなたに喜んでもらえてハッピーになるかもしれません。

 

また、辛い出来事があります。すると、あなたはまた誰かに弱みを見せたくなるでしょう。なぜなら、前回の体験によってあなたの頭の中には、「この人は辛いことがあったら助けてくれる人だ」あるいは「辛いことがあったら人に頼ればいいんだ」という辛い出来事の対処法がインプットされているからです。

 

これに慣れると、昔ならそんなに辛くなかったことでも、簡単に人に頼るようになります。そして、相手の許容範囲を超えたら最後、助けてもらえなくなります。ゆでガエル現象と一緒で、徐々に弱くなっていくと、いかに自分が弱くなっているか、いかに相手に迷惑をかけているかに気づけないのです。

 

だから弱みを見せてもいいことなんて何一つないと私は断言します。一人で弱みを抱え込んで迷惑だという意見もありますし、矛盾しているようですが他人に対しては私もそう言います。それでも、お前は一人で抱え込みすぎだ、と言われる方が断然マシです。誰かに言われてから、ガス抜き頻度を調節すればいいのです。

 

また、弱みは「見せる」ものではなく、「見える」ものです。強がっていても弱さが見えないなんてことはありません。どこまでいっても人間は弱い生き物であり、弱み自体を己の中から消し去ることも隠し通すこともできないからです。そして、「弱みが見えるから助けてくれる」し、「弱みが見えるから分かり合える」のだと思います。見せびらかされた弱みではなく、勝手に見えた弱みを知って助けようとしてくれる人こそ、等身大の関係を気づくに値する人物のはずです。