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そして今日も考える。

変革期には被害者がつきもの

日本人は変化を嫌う、保守的な民族だと言われています。東南アジアの国々がガンガン変革を起こしてきた一方で、日本はグローバルの波にやっとこさ追いつこうとしていますが、時すでに遅しといったとことでしょうか。詳しいことは知らないので、この辺にしておきます。

 

本来、日本人に限らず、変化を嫌うのは自然なことだと私は思います。なぜならば、変化は必ず犠牲を伴うものだからです。特に国家レベルの変化は、国民に多大なる犠牲を強いることになります。そして、その犠牲は何の責任もない人達に降りかかります。このために、国民全員が幸せになる道を探す日本は、中々変革へと踏み切れないのでしょう。

 

例えば、年金制度が廃止されるとしましょう。少子高齢化が進む今、現実としてありえない話でもないです。まだ働く前の私たちは、ある意味無駄金を払う前に廃止されてラッキーというだけの話です。しかし、今まで真面目に年金を払ってきた人、特に年配の人にとっては大打撃ですね。若者の支払いがストップするので、政府の保証だけでは賄いきれないでしょう。このように理不尽な目に合う人が必ず現れます。

 

実際にこんな変革もありましたね。かなり前の話になりますが、大阪の桜宮高校のバスケ部のキャプテンの自殺によって、体育科の入試が橋本市長によって中止された、というやつです。あれも一般人の感覚では理解できない決断でしょう。体育科の受験を目指して頑張ってきた子供たちがかわいそうですね。傍目にはどう見ても理不尽でしかありません。

 

初めは橋本市長の意図がよくわかりませんでした。だから私も純粋に子供たちに同情しました。ただ、主張に目を通してみたところ、橋本さんはあの自殺問題をかなり深刻に捉えていたんじゃないかと思いました。もっと根本から、そして今すぐに変えないといけない問題だという危機意識があったのでしょう。だからあんな冷酷な判断はできませんよ。

 

で、橋本市長のような決断ができないのが日本人のダメなところなんだろうな、とも思いました。危機意識が全然ないんですね。現状を維持を目指し、理不尽な犠牲を出さないために変革を拒む。で、その結果どうなったのでしょう。理不尽な目に合う犠牲者が続出です。それは何故かというと、変革を拒んでいるうちにも状況は変わっていくからです。

 

で、本当にどうすることもできなくなってから変革を起こし、さらに大量の犠牲者を生む。消費税で搾取される私たちもそんな犠牲者の一人です。もっと前の世代で歯止めをかけておくべきだったのだと思います。そして、その歯止めになる行動は、橋本市長のように非情な決断からしか生まれません。

 

でもその決断によって理不尽な目に合う人はやっぱり可哀想だと思うかもしれません。でも、理不尽な目に合う人にも、全く責任がないわけでもありません。一言で言うと、「想定外のことを考慮していなかったから」です。年金制度が破綻する可能性を考えていたら、年金を払わずに自分で貯金しておく方法も取れたはずです。桜宮高校の体育科が今年入試中止になるかもと考えていたら、別の高校を視野に入れたり、普通科に向けた勉強をすることもできたはずなのです。

 

私が滅茶苦茶なことを言っているように感じる人が多いと思います。その通りです。そんな可能性を視野に入れることはほぼ不可能だし、そんな確率の低いリスクを想定して行動する人もほとんどいないでしょう。

 

でも、原発事故が起こったとき、何を思いましたか。東電が「あの津波は想定外でした」と言った時、どんな気持ちになりましたか。想定外で許されることか!そう思ったはずです。つまりそれは、「想定外を想定していないのが悪い」、そういうことです。すると矛盾しますね。相手には想定外を想定できなかったことに対しては怒り、自分が想定外を想定できなかったことは仕方がないで片付ける。これは理不尽そのものです。

 

人間はみんな理不尽だし、自己矛盾だらけです。被害に合うということは必ず、自分の中にも小さな責任はあるものです。もちろん、だから理不尽なことをしてもいいということにはなりませんが、極端に他者に対して理不尽な扱いをすることを恐れていては何の変革を起こすこともできません。理不尽を0にするのではなく、理不尽を最小にとどめるために何ができるか、国を引っ張る人たちには考えて欲しいですね。