∑考=人

そして今日も考える。

能力に付随する責任の不条理

長時間のフライトの中でとある乗客が急に心臓発作で倒れました。離陸まではまだかなり時間があります。そのため、フライトアテンダントが「どなたかこの中に医者はいませんかー?」と他の乗客に呼びかけます。映画やドラマなどでたまに見かけるシーンです。

 

不運なことに、医者が一人も名乗り出ず、その乗客が息を引き取ってしまったとしましょう。そして、後日その飛行機の中に実は医者が3人もいたということが明らかになったとしたらどうでしょう。多くの人はこう思うはずです。その3人が患者を死に追いやった、と。社会的な問題にすらなるかもしれません。

 

私もきっと第三者の立場ならそう考えるでしょう。しかし、仮に私が医者だったとしたら、これを不条理だと考えます。能力があるだけで、他人のために能力を使うことが義務として課せられるのは権利の侵害に他なりません。

 

能力があったとして、それを利用するかしないかの選択は許されるはずです。例えば、弁護士の資格を持っているから弁護士をやらなければいけないわけでもなく、二十歳になったからといって酒やタバコを飲まなければいけないわけではありません。

 

しかしながら、現実では能力を持っているだけで責任がつきまとうことがしばしばあります。上記の例においても、人を救う能力があるにも関わらず、その能力を利用しない選択をすると、何の能力も持たない人から責められるのです。つまり、能力には責任がつきまとうことになります。

 

こんなもの不条理でもなんでもないと言われるかもしれません。でも、これならどうでしょう。例えばアフリカの人達のように恵まれない子供達に私たちは募金することができます。つまりアフリカの子供たちを救う能力があるわけです。

 

ではその能力を使わない人、つまり募金をしない人は悪人でしょうか?社会的な批判を受けますか?募金をする人が善人として認知されることはあっても、募金しない人が悪人という解釈にはならないはずです。そんなこと言ってたらほとんどの人が悪人になってしまいます。

 

では、なぜ医者が飛行機内の人を救わなかったら悪人になってしまうんでしょうか。「命がかかっているから」というのが大きな理由の一つになっていると思います。でも募金についても、どこか遠くの子供の命一つがあなたの募金にかかっているのかもしれないのです。こう考えてみると、本質的に二つの問題は同じなのです。

 

募金がボランティアの範疇を超えないように、医者が業務時間内に人の命を救うというのもボランティアの範疇を超えてはいけないのだと思います。その能力を使い人命を救ってくれた人に感謝することはあっても、その能力を使わなかった医者を責める権利は本来は誰にもないはずなのです。

 

この手の責任が発生するのは人間の嫉妬心が原因でしょう。能力がない人が何もできない自分に対する無力感を他人を責めることで紛らわしているのです。そもそも自分が医者であれば乗客の命を救えたわけであり、できるのにやらなかった人を責めるのは個人的な感情でしかありません。

 

与えてもらうことばかりに慣れてしまうと、与えてもらえないことに苛立ちを覚えるようになります。それは逆に言えば、与えてもらうことに関して本当の感謝を感じることができなくなるということです。

 

子供の頃、母親に洗い物をすると喜んでもらえるのに、洗い物をしないと怒られる、ということがしばしばありました。これも論理的には同じことです。できるのにやらない人を悪い存在として認識することは、できるのだからやって当たり前という発想に繋がってしまいます。今となっては、親の子供に対するしつけとして考えれば合点がいきますが、親子関係ではない場合は、この論理は不適切です。

 

赤の他人に対して、そういう感情を当たり前に抱いてしまう人、私の考えが理解できない人は、与えるよりも与えられることの方が多かった弱者なのでしょう。そして、そんな人の方が多いからこそ、社会では、能力に責任が付随するのが常識になっているのです。