∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

因果応報

 

私たちは社会に対して、便利さや豊かさをずっと求めてきました。今でも便利で豊かな暮らしが幸せであるという認識があるからこそ、科学技術は進化し続けているのでしょう。

 

ただ、考えてみて欲しいのは、その便利さや豊かさはいったいどんな犠牲の上に成り立っているのか?ということです。私たちはただ何もせずに暮らしていても、快適な生活が提供されるような錯覚を抱いていますが、そんなことはありません。

 

例えば、たった一人だけで楽をしようとすると、必ず知恵を使う必要があります。科学が発展し続けているのは、少しでも楽をしたいと考える人間のお陰なのです。そして、知恵を使うためには、考える時間、そして、知識を詰め込む必要があります。逆に言えば、その犠牲を払わなければ、楽さや便利さは手に入りません。

 

これは国家レベルで考えても同じことです。ただ、個人の場合とは異なり、誰かを犠牲にすることで、別の誰かが快適な暮らしを得ることができます。今はどこにでもあるコンビニが良い例です。私たちは、コンビニのお陰でとても便利な生活ができるようになりました。ただ、その快適さは、深夜みんなが眠っている間に働いてくれる人がいるからなのです。コンビニで働く人の犠牲の上に私たちの暮らしは成り立っているのです。

 

ではコンビニで働く人が不幸で、コンビニを利用する人だけが幸せなのかというと、そうではありません。コンビニで働いている人は、深夜に働くという行動を犠牲にする代わりに給料という形で幸せを得ています。そして、その給料は、コンビニを経営している側の負担、犠牲です。

 

では、コンビニの経営者が不幸で、コンビニで働いている人が幸せなのかというと、そうでもありません。もう説明はいいですね。世界を単純化すれば、Aさんの幸せはBの犠牲の上に成り立っており、Bさんの幸せはCさんの犠牲の上に成り立っている。そして、Cさんの幸せはDさんの犠牲の上に・・・と永遠に続いていくわけです。これが本来のあるべき世界です。もちろん実際の社会では、多少の格差が存在しますし、犠牲や幸せを定量的に測ることができないので、体感する格差はずっと大きなものになっています。

 

しかしながら、私たちは就職氷河期、終身雇用の破綻、年金問題、デフレ、ブラック企業、強制的グローバル化、など様々な困難に陥っています。で、なんでこんな時代に生まれてしまったのかと思う人もいるのかもしれませんが(私の周りにはいませんが)、これは結局私たち自身のせいです。

 

例えば、競争社会、資本主義が加速し、強制的にグローバルかを余儀なくされているのも、もともと私たちがもっと便利な世界、さらに言えば、良いものを安く買いたいといった快適さをひたすら求めたからです。そして、そのために自らの何かを犠牲にする覚悟を誰も持たなかった。恩恵は無償に与えられるべきものであり、代償など必要ない、そういう考え方で育った人があまりにも多かったため、国全体にそのしわ寄せが今になってやって来たのです。

 

パチンコ屋で働いていると、年末年始ぐらい店を休みにしろよ、と毎年思います。でもそれを望んでいる人が多いからパチンコ屋は年末年始も営業するのです。望みが簡単に叶えられてしまう世界は顧客にとっては理想なのかもしれませんが、労働者にとってはひどく厳しい世界になっていくということです。私たちはただの消費の専門業者ではなく、労働者という側面を持っていることを決して忘れてはいけません。

 

ギブアンドテイク。与えてもらえるということは、必ず別の何かを与える必要があるのです。与えてもらえることでしか幸せを感じられない人は、別のところで色んなものが犠牲になっていきます。この世は因果応報であることを心に留めておく必要があるでしょう。