∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

正解を再定義する

本来、この世で起こる事象に、正しいとか正しくないといった概念は存在しません。結局それらは各々の人間の解釈に過ぎず、たいていの場合、多数決で何を正しいとするのか決まります。そこにあるのは何らかの出来事が起こったという事実だけなのです。

 

人間の行動や思考についても同じです。ほとんどの人は自分の行動や思考に何らかの正しさを見出そうとしますし、自分の正しいと信じている行動をとっていることでしょう。でもその自分の行動の正しさは、他人の集合知から導き出された平均値的なものに過ぎず、個々の人にとって必ずしも正しいものにはなっていないのです。

 

私はすべての物事には必ずメリットとデメリットが存在すると考えています。メリットばかりに囚われて、デメリットを考慮せずに自分の行動が正しいと信じ込んでいる人は少なくありません。そういう人ほど、正しいと信じていたことのデメリットを突き詰められたとき、あるいは間違っていると信じていたことのメリットを提示されたときに、考えさせられるようです。

 

すると、結局どれが正しいのかわからなくなって、どういった行動をとるべきなのかわからなくなってしまう人がいます。例えば、浮気をしてしまった場合、彼女に本当のことを話すべきか話さないべきか、という問題を考えてみましょう。

 

ほぼ満場一致で彼女に本当のことを話すのが正しい、という結論が導き出されそうです。それはなぜかというと「嘘をつくのはいけないことだから」という答えが返ってきそうですね。では嘘をつくのはなぜいけないことなのでしょう。それは他人を騙す行為であり、他人を傷つける行為だからです。

 

一方で、「嘘も方便」ということわざがあります。これは時と場合によっては嘘をつくことも必要である、という意味です。他人を傷つけないための嘘は悪いことではないと考える人は多いんじゃないでしょうか。よって嘘が絶対的に間違ったことではないということです。わかりきった本音を隠すための建前が、日本社会で驚くほど大事にされているのも、時に嘘をつくのは正しいことであるという認識があるためです。

 

では、話を戻しましょう。浮気をしてしまったという事実を彼女に隠すのは間違った行動でしょうか。単純化のため、浮気をしたことは100%悪いことだとします。でもその事実を彼女に打ち明けたとしたらどうでしょう。彼女を間違いなく傷つけることに繋がります。ならば嘘も方便、本当のことは言わない方が正しい、という考え方もできるんじゃないでしょうか。

 

ただ、実際に浮気をした人がこういった発言をしてしまうと、説得力に欠けてしまいます。なぜなら、浮気したことを彼女に話さない行為が、利己的な行動につながってしまうからです。このため、彼女のためというよりは自分のためであると認識されてしまう傾向が強く、正しいという言葉は不適切と判断されてしまいます。余談ですが、これも利他主義こそが正しいという日本の風潮のせいです。

 

こういった論理で、相手に本当のことを告白するのは正しい行動とされています。でも、私は思うんですよ。相手に全てを打ち明けてしまうという行動も利己的なのではないか、と。相手に隠し事をしているせいで、罪悪感を感じながら付き合っていくというのは時にしんどいものです。ならば、その罪悪感から解放されるために、相手を傷つけることがわかっていても本当のことを話す、というのは果たして正しい行動なのでしょうか。正しい行動であるという大衆の共通認識を利用しているだけタチが悪いとさえ思います。

 

実は、この問題には日本人が自らをおとしめている思想が表れています。浮気をしたことを言うべきか言わざるべきかという問題は、本質レベルに遡って考えると、「無実の人(浮気をされた人)を巻き込んででも罪を犯した人(浮気をした人)は裁かれるべき」なのか「罪を犯した人(浮気をした人)を許してでも無実の人(浮気をされた人)に害を与えないべきか」という考え方の違いなのです。

 

言わずもがな、日本人は、前者の視点こそが正しいという視点に立っています。その思想が、まわりまわって、自分には何の罪がないと思える場合でも害を受ける機会にしばしば出くわすことになるのです。

 

もちろん、それでいい、という人もいるでしょうが、それが嫌な人もいると思います。問題なのは、正しいか正しくないかよりも、好き嫌いを考えてみるということです。それは別に利己的なものでも構いません。というより、本来正しさなんて、誰かの利己的な理由で勝手に定義されたものなのです。

 

なので、何が正しいかわからなくなったなら、自分の好き嫌いで一度、正解を再定義してみることです。好き嫌いで正解を定義されたらたまらないと思うかもしれませんが、日本人の倫理感覚は十分すぎるほどに厳しいものになっています。社会的な正しさだけではなく、自分にとって何が正しいのか、を考えなくなってしまうと、正しい行動をとっているはずなのに、全く報われない人生を歩んでいくことになりかねません。正しさの基準は個人個人が持つべきなのです。