∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

偉さは常に限定的

人間の偉さは何によって決まるんでしょうね。私のバイトの友人が、私へのあてつけのように、「その人の知識の量で偉さは決まる」と述べていました。そして、「672年に何があったか知ってる?」と私に問いかけ、私がわからないと答えると、そんなことも知らないならおれの方が偉いと言わんばかりの態度でした。はいはい、私はどうせ偉くありませんよ笑。

 

反論の余地はいくらでもあります。知識があっても知恵がなければ意味がない、社会で役に経たない知識があっても意味がない、などなど。むしろ今まで私は、散々反論されてきた側ですからね笑。別に知識をひけらかしたつもりもないんですが。しかもその反論自体について私は賛成しています。持っている知識の量なんて測りようがないですし。

 

では、偉い人と偉くない人を分ける基準はどこにあるんだろうか、というのが一つの疑問ですね。私はいまだに「偉そうにするな」とか言われてしまうことがありますが、私に対してそういった発言をする人はどのポイントで人間の偉さを判別しているんでしょうか。少なくとも私のことを偉いとは思っていないからこそ「偉そうにするな」と言っているのは間違いないでしょう。一度ちゃんと聞いてみたいものです。

 

考えてみると、「偉い」には色んな意味合いがあります。一つは、親が子供の行動に対して褒めるときの「偉いね」。ちゃんと服を汚さずご飯食べたときとか、友達にちゃんと謝ることができたときなんかの掛け言葉に該当すると思います。これは真面目というニュアンスに近いです。真っ当な行動をする人に対して「偉いね」という言葉をかけるのは大人になってからも一般的に使われます。

 

そして、この「偉い」という言葉の裏には、「良い人」と同じように、「都合の良い人」、「自分の思い通りに動いてくれる人」というニュアンスも含まれています。だとすれば、私は偉い人だと思われたくありません。

 

次は、「賢い」という意味での偉い。小学生の頃は成績一つで偉さが決まってしまうようです。実際、辞典の意味にも、「優れているさま」と示されているように、賢い人に偉いという言葉を使うのは正しいようです。

 

しかし、それ以降を境に、周囲の嫉妬心からか、賢い人に対して偉いという言葉をかける風習はなくなっていったように実感しています。思春期ぐらいには、賢いことと偉いことは全く別物になり、大人になってからは、むしろ賢くないほうが偉いという認識にまですり替わっているような印象すら受けます。

 

最後は「どこどこの偉いさんが~」みたいな表現で利用されるやつです。おそらく、こういった使い方をすることが1番多いんじゃないでしょうか。社長さんとか専務とか、政治家といった、社会的地位が上の人も「偉い」と言われます。そこには少なからず多額の収入を得ている人という意味合いも含まれているはずです。

 

それでも、社長だから偉いとか、政治家だから偉い、という考え方に納得のいかない人は多いのではないか、と思います。所詮、皆人ですからね。

 

強いて言えば、多くの人から認められている人が偉いのかなーと私は思ったりします。要するに、多くの人から偉いと思われている人が偉い、ということです。偉さなんて人々の主観的な感覚の平均値でしかありません。

 

だから、社長は偉いのです。その会社の社員はみんな社長が偉い人だと思い込んでいます。でもその社長が全く別の場所にいった途端、その偉さは無くなります。社長というのはその人物の一つの側面に過ぎないのです。娘の尻に敷かれる社長もいることでしょう。

 

偉さは常に限定的なものです。誰しも経験があるでしょう。中学3年になって部活で1番偉い立場になったと思ったら、高校一年になってまた部活で1番下っ端になる。アルバイトも同じです。別の場所にいけば、偉い人間もただの人なのです。つまり、人の偉さをいちいち測ろうとすることが馬鹿らしいのです。