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そして今日も考える。

多様な価値観の何がいいのか

大昔から、「価値観を広げなさい」という言葉は、誰に対してというわけでもなく、言い伝えられている教訓だと思います。価値観を広げるために読書をしたり、旅行に行ったりする人もたくさんいることでしょう。価値観が広いことは不変的に良いものとして考えられているようです。

 

でも具体的に、価値観を広げるとどんな良いことがあるんでしょうか。自分自身価値観が広がって良かったと感じる機会はたくさんありますが、だからと言って何が良かったのか?と聞かれると、それはそれで返答に困ったりもします。

 

もちろん、「では3年前の自分と価値観が広がった今の自分とどちらが良いですか?」という質問を投げかけることで、広い価値観を持つことの正しさを主張することは可能なのかもしれません。でも、それは局所的な考え方でしかなく、例えば、3年前の自分よりは10年前の自分の方が良かったと感じる場合もあるでしょう。

 

実際、価値観が広ければ必ずしも良い、ということもありません。「知らない方が幸せなこともある」とも言われるように、認知していないからこそ余計な負の感情が生まれない、というのは価値観が狭いからこそのメリットです。幻想を真実だと信じきっている人の多くも、価値観が狭いからこそ救われているのです。その姿が他人から見ていかに愚かだとしても、本人がそれに気づきさえしなければモーマンタイです。

 

じゃあ、知らなくても良いことを知り、苦しい思いをしてまで価値観を広げていくことの意味や良さは、いったいどこにあるんでしょうか。結論から言うと、それは正当化力を上げるためです。価値観を広げると他人の行動だけではなく自分に対しての正当化力が格段にあがr

 

私たちは得てして、自分の行動や目標をまず、「良いか悪いか」といった軸で考えてしまいがちです。そしてその「良いか悪いか」の判断は、自分の思考ではなく、幼い頃から与え続けられた知識のみに依存することがほとんどです。日本は倫理感が強い国なので、倫理を尊ぶという意味では非常に良いのですが、結果的にこれが私たちの選択を狭めることにも繋がってしまっています。

 

これは私の経験に基づくものですが、「こんなことは絶対にやってはいけない」と感じる行動ほど、心の奥底では興味関心を持っていたり、自分もやってみたいと思っている場合が多いです(自分では到底認めなくない事実ですが)。善悪フィルターを通過した良い行動ばかりを心がけていると、人間的にまだ未熟な人は残念ながら幸せを感じることができません。

 

善悪なんて考えるな、と言いたいわけではありません。そうではなく、まず最初に考えるべきは「好きか嫌いか」であるということです。先にだれが決めたのかもわからないような善悪の基準を鵜呑みにして、選択肢を狭めてしまうと、大きな機会損失に繋がってしまいます。

 

例えば、「カップラーメンを食べるかどうか」を考えたとき、体に悪いものはダメという考えの人は一生カップラーメンを食べることはありません。しかし、まず最初に「食べたいか食べたくないか(好きか嫌いか)」で考えてみると、別の可能性が生まれてます。

 

判断軸の順番を変えたところで何も変わらないと思ったあなた。それは大間違いです。今の例で言えば、カップラーメンをいきなり「体に悪いもの」と考えれば、「食べるべきではない」という結論が容易に導き出されます。しかし、カップラーメンを「(私は食べたいけど)体に悪いもの」と考えたとしたらどうでしょう。

 

確かに同様の結論に至る人もいるでしょう。でも私ならこう考えます。「体に悪くないカップラーメンはないのか」「体に害を与えにくい食べ方(例えば粉末スープを少なめに入れるなど)はないのか」「そもそもカップラーメンはなんで体に悪いのか」「そもそも体に悪いことは悪いことなのか」「逆にカップラーメンを食べることで良いことはないのか」このぐらいは瞬時に思いつきます。

 

「体に悪いもの」という視点だけでは決して見えてこなかったものが、自分の感情を先行させることで見えるようになります。そして、広い価値観を持っていると、悪いものに対して正の側面を見つけることができます。こうして自分の本当の欲求にマッチした行動がとりやすくなるのです。

 

「正当化」というとあまり良い印象は受けないかもしれません。実際、悪いことをしているのに正当化してしまう人たちもたくさんいます(私も含めて)。ただ本当に間違っていることであれば、そのしっぺ返しは何らかの形で返ってくるし、少なくとも自分の中に善悪の基準は持つ必要はあるでしょう。

 

ただ、少しマイナス要素があるからというだけで「悪いこと」と決められてしまった基準に最初から合わせる必要はないのです。幼少期から散々刷り込まれてきた善悪の基準を無効化するために正当化力を身につける、そのための多様な価値観なのです。