∑考=人

そして今日も考える。

それでもコミュ力があると言えますか?

就職活動において、もっとも評価されるのがコミュニケーション能力(以下コミュ力)というものです。毎年のごとく、企業が学生に求める能力ランキング上位に食い込んできます。仕事はチームでするものがほとんどですから、人とまともに会話ができることは必要最低限の能力かつ最も大切な能力である、ということでしょう。

 

このコミュ力についてですが、どうも未だに様々な誤解があるようです。コミュニケーションとはご存知の通り、日本語に訳すと「意思疎通」を意味します。企業側も、「相手の話をしっかり聞き、自分の意見をしっかりと伝えることのできる人」をコミュ力の高い人と定義しているはずです。

 

まず、この段階で勘違いをしている人もいます。流暢におしゃべりができることがコミュ力だと思っていたり、ボケやツッコミなどの笑いの技術を駆使して楽しくおしゃべりができる能力こそがコミュ力だと考えている人もいます。敢えて言うならば、それは雑談力でしょう。私自身、ノリがよければそれでOKみたいなことを謙遜のつもりで他人には公言していますが、ノリがいいこととコミュ力が高いことは全く別の能力です。

 

自分は他人と意思疎通のはかることができる、と考えている学生さんも沢山います。しかし、彼らの多くは自分のコミュニケーション能力について過信しています。これは私の主観的な意見ですが、アルバイトをしていない人、あるいは家庭教師系の個人アルバイトしかしていない人に顕著です。

 

少し考えてみててください。あなたが誰かに面と向かって「お前はコミュ力がないな」という言葉を発したことがありますか?おそらく陰口として言うぐらいでしょう。私たちがコミュ力がない人に対して取る行動は、「あなたはコミュ力がありませんね」と提言することではなく、あまり関わらないようにすることだからです。

 

逆に考えてみれば、あなたがもしコミュ力のない人間だったとしても、あなた本人に忠告してくれるような人はおそらく周囲にはいません。あなたの知らないところで、陰口を叩かれるくらいです。また、キャンパスなど、誰とつるむのも自由な場においてあなたの周囲に集まってくるような人間は、少なくともあなたがコミュ力があると考えている人が多いはずなので、やはりコミュ力がないことを指摘されることはないでしょう。

 

つまり、友達が一人もいない人は別として、大多数の人は特定の誰かからはコミュ力があると思われています。すると、どういう現象が起こるかというと、みんな「自分にはコミュ力がある」という勘違いを起こすのです。実体験として、就職活動全盛期においては、友人同士で「お前はコミュ力があるから大丈夫」、みたいな励まし合いが繰り出されます。

 

確かにそれも一つのコミュ力という考え方はできますし、誰とも意思疎通をはかれない人間に比べれば数段マシです。しかしながら、企業が求めているのは、特定の(すなわち似たような価値観を持った)人ではなく、全く異なるバックグラウンドを持っていたり、興味関心がある分野が違う人たちと意思疎通ができる人材なのです。

 

コミュニケーション能力というと、なんとなく手軽に身につけることができる印象を受けてしまいがちですが、本当は「洞察力」と「表現力」からなる極めて崇高な能力です。どうでしょう。自分に洞察力と表現力が備わっていると自信を持って言えますか?

 

少なくとも、自分には圧倒的なコミュ力があると思っている人のほとんどは、それが自分と同質な特定のグループに認められているだけ、という認識がない証拠でもあるので、洞察力があまりないことを裏付けていたりします。

 

このようにコミュ力は、社会構造的に(?)適切なフィードバックを得ることが難しい能力になっています。「おれはあーいうタイプの人間とは分かり合えない」みたいな考え方に囚われて極度に付き合いを制限していると、本物のコミュニケーションをとるために必要な洞察力と表現力は衰えていきます。自分の行動を振り返ってみて、それでもコミュ力があると自信を持って言えますか?