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そして今日も考える。

資格があるとかないとか

他人に対して批判や苦言を呈するとき、「資格」というものを求める人がたくさんいます。口喧嘩の最中であれば、「あなたにそんなこと言う資格あるの?」と言われ、本の著者であれば、「一度読んでから批判してください」みたいな発言も目立ちます。

 

批判をするのは(おそらく)楽しいものなので、何にもわかっていないけどとりあえず憂さ晴らしに批判したい、みたいな人がたくさんいます。こういった無益な批判を防ぐために、ある程度発言する資格を求めたい気持ちは非常に共感できます。

 

なので、私も基本的に、自分が経験0の事柄についてはあまり批判しないようにしています。逆の立場で考えればあまり喜べることではないし、「あんたに何がわかるんだ」とも言いたくなります。

 

しかし、そうやって発言に対して資格を求めてしまうと、あなたに対して発言できる人は究極的には誰もいないことになります。だって、自分と他人は持って生まれてきたモノも違えば、環境も違い、人生の歩み方も違う。じゃあいったい誰が他人に対して発言する資格を持っているんでしょう?

 

自分が何かの批判をする際に、一通り勉強しておくのは大切なことだと今でも思っています。しかし、これを他者に求めるのは完全なる間違いです。もし仮に、ブログを書いたこともないような人から、私のブログについて批判されたとします。さらに、実は私のブログ自体は全く読んでいなかったとしましょう。ではその批判意見は全く聞く耳を持つ必要がないか、というとそうでもないです。

 

もちろん、腹は立つでしょうし、耳が痛いかもしれません。せめて中身を「読んでから批判しろ」と言いたくなると思います。でも、ストイックに考えるのであれば、「やってみる価値すらない」と判断されただけなのです。それだけが決して揺るがない事実です。その事実は受け入れなければなりません。

 

このフェーズを飛ばしてしまうと、どんなに良質な意見であったとしても、「資格がないから」聞く必要がない、ということになってしまい、他ならぬ自分にとっての損失になってしまう、というわけです。前回のエントリで述べたように、聞くに値する意見かどうかはその人の立場や経験だけではなく、その意見自体の論理性から評価するべきだと思います。

 

例えばマッキンゼーでは、新人で何の経験も持たない社員にもバリューを出すことが求められるそうです。実際のところ、何の経験もないからこそ言える意見にも、それなりに有益性とか貴重性があり、吟味するに値するものもあります。裁判員制度が施行されたのも、資格がある人の意見が必ずしも正しいとは限らない、という懸念があったからでしょう。

 

人の意見を聞くか聞かないかというフィルターは個々の人が必ず持っていると思いますし、それをとやかく言う気はありません。しかし、資格があるとかないとか、そんなザックリとしたフィルターで分けてしまうと、色んなものを見過ごしてしまいます。自己の向上なんかどうでもいいから批判だけはされたくないと思うならそういったスタンスでもいいのかもしれませんが、安易に資格のあるナシで決めてしまうと、何も考えられない人間になってしまいますよ。