∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

当事者意識と寛容

はてなブックマークから→【炎上】ホリエモン、新幹線で泣く子供に対し「舌打ちもしょうがない」「睡眠薬飲ませればいい」と発言 - NAVER まとめ

あーどこにでもあるよねーこういう討論、って感じです。

 

とりあえず、最初のツイートをそのまま引用しておきます。

今、新幹線で後方の席の子どもが泣いてて、隣の席の女性がうるせーな、って言いながら舌打ちしたんだけど、そういう人は新幹線自由席じゃなく、車で移動すべきだ。公共交通というのは、老若男女、色んな人が乗るもの。公共圏は、我々が当事者意識と寛容によって生み出すものだと思う。 

 社会、特に公共の場は、個人個人の寛容さの上に成り立つという考え方です。赤ちゃんが泣いているぐらい我慢してやれよ、という話ですね。私もそう思います。

 

これに対して、ホリエモンは逆に、子供の(というかその親が)その考え方について甘んじていることに問題があると定義し、最終的に睡眠薬を飲ませろという話になっています。そんなホリエモンに対して、あんたが睡眠薬飲めよ!という主張は笑えました。

 

はい。どちらの意見にも学ぶところはありますね。ただ、こういった議論を見ていて感じるのは、当事者意識という言葉を使うには本当に注意が必要だということです。なぜかというと、相手に当事者意識を求めることは、自分自身が当事者意識を放棄することを意味してしまうからです。

 

順を追って説明しましょう。最初のツイートにおける当事者意識とは、弱い人達側に傾いています。子供は泣くのが仕事などとも言われているように、本来どんな場所でも泣いてしまうのが普通です。それに対してほとんどの親は苦労しているわけで、そんな苦労している人たちになったつもりで考えるのが、この駒崎さんの当事者意識です。

 

そして、対するホリエモンは当事者意識を持っていないわけではなく、むしろその泣き声に迷惑する人達の立場で考えているわけですね。当事者意識の持ち方が違うのです。皆が同じ価値観ではないことを踏まえれば、当事者意識を持っただけで解決する問題ではないのです。

 

同様に、寛容という言葉にも要注意です。他人に対して寛容さを求めることは、自分自身が寛容さを放棄することを意味するからです。

 

寛容であるとは、単純に許せる人、怒らない人とでもしておきます。例えば、最初のツイートの文脈からは、泣く子供を許すことが寛容さだと定義されていることがわかります。泣いている子供を持つ親の苦労を想像して、それを許してやることが大切である、と。

 

こういう考え方は非常に共感します。でも、それを他者に強制した途端、寛大ではなくなってしまうんですね。例えば、泣いている子供を持つ親をAさんとします。そして、その親や子供を許せる人、最初のツイートを支持する人たちを総称してBさんとしましょう。ホリエモン支持派の人たちを総称してCさんとします。

 

今、BさんはAさんを許すことが寛容さだと主張してします。でも、BさんはCさんを許すことができているか、というと全く許容できていません。つまり、BさんはAさんにだけ寛容なだけであって、Cさんに対しては全く寛容ではないのです。

 

そして、CさんはAさんを許すことができないため、Bさんから当事者意識を持てだの、寛容さを持てだのと批判をされます。ここで、子供の泣き声に迷惑している人たちを総称してDさんとしましょう。すると、CさんはAさんに対しては厳しいけど、Dさんに対して寛容ということになります。

 

このように単純化して考えると、寛容さや当事者意識の点では全く差はないことがわかります。違うのは、AさんやBさんに該当する人の方が現時点においては多いということであり、多数決だけで、それらしい正解が決まっているということです。

 

別に私はここで議論になった、"いわゆる"寛大でない社会を支持しているわけではありません。泣いている赤ん坊ぐらい許してやれよと思います。でも、泣いている赤ん坊すら許せないぐらいせっぱ詰まった人もいることでしょう。そういった人の気持ちを想像してこその寛大さではないでしょうか。結論から言ってしまうと、全ての人に対して寛大であることなんて不可能ですが。

 

議論において、こういった、綺麗で、曖昧な、最もらしい言葉を使うと思考が停止してしまいますし、議論で思考停止してしまったら議論する意味なんて皆無です。この議論も最終的にはただの喧嘩になってしますし、論点が全然掘り下げられていません。本気で社会に対して問題意識を持っているなら、相手を納得させることだけでなく、自分が納得できる考え方も探していくべきでしょう。