∑考=人

そして今日も考える。

自主性のある人とは

近年、自主性の高い人材がありとあらゆる企業で求められている。しかし、自主性が一体何のことかわかっている人がどれほどいるだろう。多くの人は漠然としたイメージしか持っていないのではないか。

 

正直言うと、私は自分のことを自主性のある人間だと思っていた。就活のときもあまり深く考えずに自己PRで自主性を主張したこともある。もちろん、実際に自主性があると評価してくれた企業もあった。でも最近疑問に思っているのは、自主性のない奴なんているのか?ということである。

 

自主性のある人とは、自分で主体的に行動できる人間のことだ。大げさに言えば、自分の人生を自分で切り開いていける人だ。じゃあ自主性のある人がいつもいつも主役としての役割を果たすかと言えばそんなことはないだろう。これはあの人に任せようとか、こは場の空気に任せようとか、今回は自分は何もしないでおこうとか、そういった選択を取ることもある。そして、そういった選択を主体的に行っているという意味では、単なる傍観者にも自主性はあるということになる。実際、自主性のある人間だってそういう選択をすることはある。

 

じゃあ企業が求める自主性のある人間とは何なのか。それに答える前に、なぜ企業が自主性のある人間を求めているのかを知る必要がある。といってもそれも簡単なことで、教育に力を入れている余裕はないから主体的に学んでくれる人が欲しい、ということなのだ。研修に力を入れている余裕はないから、先輩を見て勝手に学んでくれ。さらに、企業のために自分なりの良いアイデアを勝手に考えて出してくれ。そんなところだ。

 

だから、ここに落とし穴がある。自主的に学んでは欲しいが、それは会社のためになること、業務のためになることでなければならない。また、自主性は欲しいが、与えられた課題をやるかやらないかの判断は自主的にされてはいけない。与えられた課題そのものをただやるだけではないけないという意味で自主性という言葉が使われるようになったが、それでも会社の目的や理念を超える自主性を発揮してはいけない。そういう意味では、自主性の高すぎる人も問題ありとされるのだ。

 

自主性を求められるのは企業に限った話ではない。ある組織に属すことになれば、何かしらボランティア的な活動が必要になることがある。ごみ捨て、掃除、連絡、など。そして、こういったことを義務化されてもいないのに積極的に行う人間はしばしば自主性のある人間だと言われる。

 

だが、それは別に自主性のある人間ではない。現に、そういった活動をしない人たちは、実に合理的かつ主体的にボランティア活動を行わないという選択をしている。みんなが困るのにやらないなんて何も考えていないからだと言う人もいるが、何も考えていないからやらないわけではなく、考えた上でやっていないのだ。根本にある価値観の違いだから、ある人にとってはありえない選択も別の人にとっては十分妥当な選択である。行動力と自主性には実はあまり関連がない。

 

集団の中における自主性とは、差し詰め、貢献意識のある人、献身的な人のことを意味する。企業が求める自主性という言葉にもこの性質が多分に含まれている。つまり、会社のために一生懸命になれる人=自主性のある人、ということだ。

 

そして、自主性という言葉は単独行動になるとその意味合いが変わってくる。単独行動の中での自主性とは、一人でも何かに真剣に取り組める性質のことだ。例えば、休みの日に一日中テレビを見る人は自主性がなく、資格の取得に向かって勉強できる人は自主性があるとみなされる。実際にはどちらも主体的に行動を選択した結果だ。ただ、置かれている環境や価値観が異なるため行動には違いがある。そして、その違いによってなぜか自主性の是非が決まる。

 

もちろんどんな行動でも勉強さえしていれば自主性があると評価されるわけではない。例えば、エンジニアとして就職したにも関わらず、絵が上手くなりたいと休みの日に1日中デッサンの練習をしていたとしても、それは企業にとっては自主性があるということにはならない。その努力が会社での貢献に直結しないからだ。一方で、技術セミナーに行ったりする人が自主性ありと判断される。つまり、単独活動においては、企業での貢献に繋がる努力を一人でもできる人=自主性のある人なのだ。

 

以上をまとめると、企業が求める自主性のある人とは、

  1. 会社に本気で貢献してくれる人
  2. 会社で貢献するために一人の時間も努力してくれる人

の両方を満たす人材のことである。これを一言で言い表す良い言葉がある。社畜究極的に企業が求めている人材は別に自主性のある人間ではない。社畜となって働いてくれる人を求めているのだ。