∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

文章に本当の感情は表れない

・文章から感情が伝わってこない

たまーにアマゾンで本の書評とかを見ていると、書いてあることは最もだけど、「感情が伝わってこなかった」みたいな批判が書かれていることがあります。一般的に、理路整然としすぎた文章からはあまり感情が伝わってこないのかもしれません。教科書などの固い本も同様です。また、合理的で冷静で客観的なことを述べようとすれば、やはり無感情な文章になってしまう可能性があります。文章に感情を込めるのは難しいものです。

・感情を込めなくてもいいのが文章の利点

私の書く文章も感情のあまりこもっていない文章に分類されるのかもしれません。もともと人間味のない人で評判ですし笑。そういうわけで、色んな表現方法を変えて感情を表現する練習(?)みたないこともやっていますが、実際のところはわかりません。それに、私自身の考え方として、感情を込めなくてもいいのが、文章最大の利点だと思っています。

・「話す」と「書く」の違い

私は人に話すよりも書く方が得意、というか好きです。その違いは、「話し方」を工夫するより「書き方」を工夫する方がはるかに簡単、ノンストレスだからです。例えば、感情的ではないにも関わらず、感情的に話そうとすると精神を消耗します。しかし、感情的でなくとも、感情的に書くことは技術的には可能です。

 

簡単な例では、メールなどで、「ありがとうございます。」と書くよりも、「ありがとうございます!!」あるいは「ありがとうございます(^o^)」などと書いた方が、コイツ本当に喜んでいるな、と感情を伝えることができます。そして、この文章を書く当人の感情はどうだったとしても文面からはそれが伝わることはありません。

・文章に込められた感情は実は読み手が勝手に作り出した感情

中学校の頃、深夜遅くまで遊んでいると、母親からこんな感じのメールが来たことがあります。「今何時だと思っているのヽ(`Д´)ノ?早く帰ってきなさいヽ(`Д´)ノ」。私はこのメールを見たとき、まさか母親が本気で怒っているとは思わなかったので、驚嘆しました。顔文字を使っていることから本気で怒っているわけではないと判断したのですが、それは私の勘違いだったのです。母は、まさに怒っている気持ちを表現するために怒りを表す顔文字を使っていたのでした。多くの人は本当に起こっていたら顔文字なんて使わないんじゃないですか。このように、相手の込めた感情と自分が読み取る感情には齟齬があるのです。

 

例えば、文章を書き言葉ではなく、話し言葉で書いた方が伝わりやすいと、よく言われますが、この理由は、話し言葉で書かれている方が読み手が感情をのせやすいからです。あまり文章に読み慣れていない人は、文章を読むときに、頭の中で一度音に変換してから、その音(話)を聞く、といったプロセスによって文章を読んでいると思います。私も精読する場合はそのようにしています。

 

しかし、その音への変換は読み手が勝手に行うことです。文章に適切なイントネーションを自分なりに割り当てています。そして、自分で作り出した音の抑揚が、感情的かどうかの判断軸となっています。感情の感じられない文とは、実は感情の載せにくいリズムで書かれた文章なのです。だからこそ、リズム感のある文章を書くことが書き手には求められるのでしょう。

・我々は所詮、抑揚ぐらいでしか感情を感じ取れない

実は私たちが何によって感情を評価しているかというと、8割方、抑揚やトーンなど音(声)の出し方です。そして、話す場合は、自分でそれを制御することができます。あるいは、自然と自分の感情が声の調子に表れたりもします。しかし、書く場合には、読み手が音の調子を制御することになります。そして、私たちは愚かにも、その自分が勝手に作り出しただけの感情を著者の感情として読み取っているわけです。

・結局、書き手の込めた感情と読み手の受け取る感情は別物

一つの文章を二人が読んだとして、一人にはすごく感情が伝わっても、もう一人には全く伝わらない、ということはあるでしょう。これは、書き手が感情を込めていないわけでもなく、読み手の感受性が低いわけでもありません。たまたま、一人は書き手の考え方にシンパシーを感じており、もう一人はそうではなかった、というだけの話です。国語のテストで○をもらえるかどうかは、模範解答としての答えに共感できるかの違いでした。テスト以外の場では模範解答はありません。文章を読む際には、共感できないからといって難癖をつけるのはやめましょう。