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そして今日も考える。

評価経済社会と友人関係

評価経済社会とは、既存の貨幣経済社会に対して最近使われるようになった言葉です。金さえあれば何でも手に入る時代が、他者からの評価が金以上の力を持つ時代に変わったことを意味します。

 

この原因として述べられているのは、情報の無限化です。今、ネット上にはありとあらゆる情報がリアルタイムで生み出されています。そして、多くの場合、単に「事実を伝達するための情報」ではなく、「何らかの意図を持った情報」であることがほとんどです。事実に対して発信者が解釈を付け加えることによって、情報が意図を持ちます。

 

そういった複数の意図がネット上では複雑に絡み合っています。意図というのは、事実に対する価値判断、すなわち評価のことです。キュレーションなどが人気になっていることからもこれらの情報が主流になってきていることが伺えます。そして、民衆はこういった「(不特定多数の)誰かの評価」を基に行動を選択します。現代のメディアにおいて、他人の影響だけを排除して、事実だけを得ることはできないからです。

 

これはすなわち、実態よりも評価の方が大切になるということです。「先入観に囚われずに客観的に判断することが重要だ」というのはよく言われることですが、もはやあらゆることに対して、「先入観を持たない」ことや「客観的に判断する」ことなどはできません。

 

それが何をもたらすかというと、クラウドアイデンティティです。すなわち、自我や価値観といった、自分を定義する考え方そのものを、ネット上に求めてしまうのです。これまで自我は内面にこそあるものと考えられてきたものを、(そのつもりはなくとも)外界に見出してしまう現象が起こります。

 

既に、私達は少なからず、アイデンティティアウトソーシングしてしまっています。価値観は自分の中で形成していくもの、というよりは、色んな人達の価値観の中から複数を選択してコーディネートするのが主流ではないでしょうか。多様化を推奨される時代への変化が、自分唯一の価値観を作り上げるのではなく、複数の価値観を併用する生き方を多くの人に共用してしまっている気がします。

 

ネットの発達によって、コミュニティが複雑化した今、たった一つの組織にしか所属していないという人は少ないでしょう。複数の組織に所属するためには、複数の組織の価値観を適宜使い分ける必要があります。そして、価値観の使い分けを習慣的に行う人が増えた今、自分を明確に定義する一つの価値観は必要ない、という認識が高まっているように思います。(むしろ、一つの集団に固執することが間違いだという主張が多くなっています。)

 

これを良し悪しで判断することではないでしょうが、少なくとも友人、組織などに対して、一蓮托生の精神が希薄になっているとは感じます。例えば、私が子供の頃なんかは、仲の良い友人とだから楽しくないことでも一緒にやる、ということがよくありました。それによって、楽しくないと思っていた色んなことを楽しいと感じられるようになったとも思います。

 

しかし今は、仲の良い友人とだから楽しくないことでも一緒にやる、という考え方は風化しているように感じます。どちらかと言えば、楽しいことを一緒に楽しめる人を友人と定義する、という感じです。仕事においてプロジェクトベースで組織化するのと同様、私生活においても、遊びベースでグループを形成することが主流になってしまっている気がします。

 

私はこのことについて個人的にすごく残念に思っています。例えば、バイトの友人と大学の友人は会話の内容も遊び方も異なります。そして、そういった違う価値観を無理やり合わせようとしても、何だか面白く無い方向に向かってしまうものです。昔であれば、それを我慢して受け入れるほかなかったのかもしれませんが、今はやりたくないことを強制されれば、簡単に別のグループを友人として定義できるようになっているため、楽な方に逃げやすくなっています。(私自身、つまらない遊びや会話を避けるようになってしまいました。)

 

すると、「オールマイティな友人」というがいなくなってしまうんですね。だから私は多分孤独を好むようになったのだと思います。自分の価値観が多様になって興味関心が増えるに従って、逆に相手に自分と同様の価値観を求めるのは極めて難しくなっています。多様の価値観の弊害ですね。

 

といっても、この流れをせき止めることはできないのだと思います。こういった評価経済社会へのパラダイムシフトは、私的な人間関係の構造にも大きな変革をもたらします。しかし、今までの人間関係のあり方を絶対視するのではなく、新しいカタチの人間関係のあり方の良い点、悪い点を見つめて受け入れる勇気を持たなくてはならないのかもしれませんね。

 

 

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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