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そして今日も考える。

偏差値教育を問題視する前に評価指標の不完全さを理解しよう

脳科学の茂木さんが予備校を痛烈に批判していたみたいですね。予想外の言葉遣いに舌を巻きました笑。根本的には偏差値教育に異を唱えるツイートだったようです。というわけで、私も偏差値教育について色々と考えてみました。

・偏差値教育の弊害

偏差値教育には昔から色々と批判されています。というのも、人間の多様性を軽視した指標であり、多くの(勉強に適性のない)人間のポテンシャルを開花させることができないからです。例えば、アインシュタイン本田宗一郎松下幸之助などの優秀な人材はおそらく偏差値教育の中では生まれてこなかっただろうと解釈されています。

 

さらに、偏差値教育は常に他人との比較される環境にさらされています。私のように偏差値という指標のおかげで自信を確立させる者もいれば、偏差値で比較され続けたことにより人間としての自信まで失ってしまう人もいるかもしれません(個人的に勉強が出来ないぐらいで自信を喪失する人はそう多くないと感じていますが)。

・なぜ偏差値ができたのか?

偏差値教育の是非を議論する前に、偏差値が登場した背景について考える必要があります。Wikipediaによると、旧日本陸軍の砲兵の訓練時に各自の得点を比較するために作られたのが起源、という説があるようです。他にも、偏差値に置き換えることで、生徒の学力を直接比較することが可能、との記述がありました。要するに、生徒同士を比較するために作られたのが偏差値ということです。極めてシンプルかつ当たり前の理由ですね。

・本質的に問題があるのは偏差値ではない

本来、人間(特に日本人)は他人と比較されたくない生き物です。他人と比べることは悪いこと、という価値観があるからこそ、「国民みな平等」の幻想を掲げたがりますし、「国民みな平等」という思想が根付いているからこそ、他人と比べることを嫌う傾向にあります。

 

しかしながら、人間は合理性も兼ね備えている生き物です。そして、合理的に考える上で外せないのが比較というプロセスです。それが物であっても人であっても。偏差値も人と人を簡単に比較するために作られました。つまり、偏差値とは一人一人の人間が持つ合理性、比較欲求が顕在化したものに過ぎないのです。

 

”偏差値のせいで18歳が苦しむ”という茂木さんの発言は本質的ではありません。諸悪の根源は、合理性と平等思想を同時に抱え込むことによる矛盾、葛藤が原因です。ここにランキング重視、他人の評価を鵜呑みにする日本人の国民性がプラスされることによって、偏差値が評価指標としての効力を持ちすぎていることも問題です。

 

なので、一人一人が不公平についてよく考えることが最も良い解決策だと思います。ですが、「一人一人が〜」的な解決策はほとんどの場合全く意味を成さない馬鹿丸出しの発言です(私はよく使いますが笑)。そのため、現状を打破するための1つの提案として、偏差値を無くすべきだという主張が現れています。

・偏差値が無くなったらどうなるのか

偏差値が無くなれば、人と人を単純に比較することはできなくなります。そのため、勉強が出来ない人の苦しみは低減するでしょう。でも、勉強が出来る人からすれば、当然比較優位が失われてしまいます(そもそも既得権益みたいなもんですけどね)。一番のメリットは勉強はできないけど別の才能のある人が成功する可能性が上がることでしょうか。

 

一番の問題点は、客観性が無くなってしまうことです。極端に言えば、完全に好き嫌いで判断されてしまう可能性だって否定できません。意見も価値観もバラバラな人たちのバラバラな主観的な判断によって優秀かどうかが判断されてしまうんです。それはある意味社会の縮図的でいいとは思いますが、それだと同じく社会の縮図的に無能だけど処世術のある人が高みに登っていく、という事態を招く危険性も孕んでいます。

 

要するに、偏差値が無くなれば、嬉しい人がいる反面悲しい人もいて、才能のある人が評価されるようにするはずが、今まで以上に才能のない人までが評価されてしまうことにもなります。結局、誰が勝者になるかが変わるだけであって、才能を開花させられる人の割合がいかほど増えるのかは疑問です。

・偏差値は無くならないし無くすべきではない

結論から言うと、偏差値は無くならないと思います。結局、偏差値の高い人ってなんやかんやで凄い人が多いんですよ。将来的に結果を出しているんですよ。最近はその結果が(主にアメリカと比べて)しょぼいから問題視されているだけであって、日本国内で考えれば、偏差値の高い人の方が大きなことを成し遂げる傾向にあります。もちろん、偏差値が低いけど大きなことを成し遂げる人もたくさんいます。でもそれは割合で言えばやはり少ないのです。だから、偏差値は無くなりません。

 

で、こういうことを議論する前にもっと大切なことがあって、結果自体の凄さをどうやって測るのか?ということです。例えば、総理大臣になる方がお笑い芸人として成功するよりも社会的価値があるとか、プロ野球選手になるより大企業の社長さんになる方が偉い、みたいな解釈を当たり前のようにしてしまいませんか。そういった偏見がなぜか私たちにはやんわりと植え付けられています。

 

先ほども軽く触れましたが、偏差値教育を否定する人の多くが、創業者になることこそが最も優れた結果だ、という前提に基いて発言している気がしてなりません(彼ら自身も創業者であることが多いですし)。偏差値教育だから日本ではスティーブ・ジョブズは生まれないんだ、ってやつです。別にいいじゃないですか。スティーブ・ジョブズは生まれなかったけど、イチローは生まれたよ?それじゃダメなの?って疑問に思える人が圧倒的に少ないことが問題なのです。

 

このような、ビジネスでの成功こそが最も良いという思想は、偏差値の高い人こそ良いという考え方と実は大差ありません。だから折り合いが付かないのです。そして、ビジネスや政治、科学における成功者の方がスポーツやアートにおける成功者よりも社会的に価値があるという偏見を少なくとも過半数の人が捨てない限り、偏差値を無くすことの意味は皆無です。多様性を考慮したゆとり教育をあろうことか学力の低下によって廃止する、という本末転倒な事件の二の舞になってしまいます。よって現状、偏差値を無くすべきではありません。

・たった一つの解決策

私が偏差値教育の問題を考えた時にごくごく自然に思いついたのは全く逆のことでした。偏差値を無くすのではなく、別の評価指標を新たに作ればよい、というものです。だって、普通そうしないですか。人気の商品を買いたいときに1つのサイトのランキングだけで購入まで決めますか。私は絶対に複数のサイトを見て比較検討します。すなわち、評価指標を複数利用するわけです。

 

評価指標は不完全なのものです。数値は客観性が高いとは言われますが、数値にする段階で主観を完全に排除することなど不可能です。評価指標ごとに何かしらの偏りが含まれているのが自然です。なので、一般的には、評価指標を複合的に組み合わせることで選択をするべきです。

 

学校教育で言えば、偏差値という評価指標に問題があるのではありません。評価指標が偏差値しか存在しないことに大きな問題があるのです。偏差値は科目ごとに計算できるとは言え、全くもって人間の多様性を考慮できていません。科目ごとの適正以上に、学問に対する適正の差が大きく反映され過ぎてしまっています。だから、何でもできない人と、何にもできない人、といった分かれ方が一般的になり、その格差に苦しむ人がたくさん生まれてしまうのです。

 

昔から疑問だったんですよ。なんで、部活とか学校行事とか委員会とか、そういった学問以外の活動は大事だと言われるにも関わらず、数値化されないのだろうかと。せいぜい推薦文ぐらいのネタぐらいにしか使われませんよね。

 

「〇〇くんは数学において非常に優秀な成績を収めました」と「〇〇くんは数学の偏差値が75でした」ではインパクトが全く異なります。偏差値のおかげで、学問のできる人は直感的な凄さを相手に伝えることができているのです。しかし、学問のできない人は偉大な功績があったとしても、直感的に凄さを相手に伝えることができないでいるのです。受験する大学側が直感的に学業以外の功績を評価できるようにするためにも、せめて学校で評価できる学業以外の実績や能力を数値化する指標ぐらいは作るべきです。

 

おそらく、学業(というかペーパーテスト)以外については正しく評価するのが難しいために指標作成は諦められているのだと思います。しかし、数値的に正しい評価を下すことは不可能ですし、偏差値とてそれは同じことです。本当に多様な人材を輩出するためには、不完全でも良いので、偏差値に対抗できる指標を作るべきです。そうすれば、学問はテンでダメ人でも、スポーツなら頑張ってみよう、とか学級委員に立候補してみようというモチベーションにもなります。評価指標があると目的意識を持ちやすいものです。

 

できれば、もっと創造的な活動について評価する指標を考えることが望ましいですが、今の学校教育の画一的な教育ではほとんど機能しないんじゃないかと思います。勉強ができないだけで埋もれてしまっている人を救うには、勉強以外の能力をちゃんと評価する仕組みが必要であり、それが偏差値教育を打破するたった一つの解決策かな、と思った次第です。長文失礼。