読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

∑考=人

そして今日も考える。

講義は時間の無駄

昨日から技術研修が始まっている。事前に配布されていたカリキュラムは、ビッシリ講義で詰まっていたのでどれほど大変なのだろうか、と少しワクワクしていた。関心のある分野を勉強できることは素直に嬉しいし、別の理由として、私は皆が理解に苦しんでいるところを高みから見物するのが好きなのだ笑。

 

結論から言うと、私の期待は大ハズレであり、内容はとてつもなく優しく、進行スピードも極めて遅い。まぁわからない人があちらこちらに出現するから面白さはあるのだが(失礼)。一応グループワークということになっているので、こんな私であるが、退屈しのぎに教える役に回っている。

 

給料をもらって研修をさせてもらっている身ではあるが、現時点での本音を言うと、研修のためにかかっている費用を削って、その分を給料に回してほしいと思う。高校生ぐらいの時からずっと思っているように、講義というもののほとんどは私にとっては役に立たない。

 

確かに講義が必要な人達もたくさんいる。理解力の低い人、正確には学ぶ意欲のない人たちである。そういう人たちは拘束状態を作り出してもらうことでしか勉強に取り組むことができないからだ。しかし、それ以外の人、学ぶ意欲のある人にとっては退屈なだけである。

 

別に学ぶ意欲のある人達にとっては教師や講師が要らない、とバッサリ切り捨てるつもりはない。しかし、単に教科書を平たく説明するだけだったり、演習問題の解説を丁寧にするだけなら、自主性のある人達に対しては、大した価値を提供できていないことに気づくべきだ。(一般的にはそれができるだけでも優秀な教師とされる。)

 

日本から優秀な人材が現れないのは、教育の質うんぬんもあるかもしれないが、勉強が苦手な人達に合わせた教育スタイルが標準であることも大きな問題の1つなのではないかと私は思っている。日本では優秀な人には「高いレベルの講義」を与えるだけで、スタイルごとの変革は取り入れられることが極めて少ない。なぜか、教えられることにより人は成長するという価値観が日本には根付いているのだ。あるいは、先生が自分の身分を守るためには講義スタイルがなくなってしまうと困る、という大人の事情があるのかもしれない。

 

とは言え、教師に教えてもらうことで理解が深まる、という意見は概ね正しい。わからないことがあった時、先生がいなければ理解に苦しむことは当然あるだろう。しかし、学問の真理を極めるためならまだしも、手段として学問の理解に努めているのなら、「1日で7割理解すること」と「3日で9割理解すること」のどちらがよりよいかは明確だろう。まして、現代はスピードが勝負の時代である。ちゃんとトレードオフを考慮するべきだ。

 

だからこそ、演習スタイル、実践スタイルがメインにならなければならない。講義スタイルに比べると、講師や教師の入り込む余地は極端に減ってしまうが、その中で上手く価値を出せる方法を先生たちは考えていかなければならないのだ。