∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

悪口に悪意はない

つながり疲れが蔓延している。入社日には「どんな人とでも仲良く」と意気込んでいたように見える人たちも、一ヶ月も新しい人間関係を作り続けていれば、誰だって嫌気が差してくるし、疲労も困憊する。

 

恐るべき勢いで人脈を開拓しているはずなのに、目に入る人たちは知らない人ばかり。一方で、すでに出来上がった人間関係は強固なものへとなっていく。ならば安定しつつあるグループへ身を投じた方が精神的疲労は少ない。研修も折り返しを過ぎ、私たちの意志は、狭く安定した人的ネットワークの確立へと収束している。

 

こういった内向きの思考が過剰になると、外に対して牙を向くようになる。最近は、あちらこちらで「あいつウザいよね」とか「あのグループ何なの」といった話をよく耳にする。いつか自分がそんなことを言われる対象になるのでは?と不安に怯えながら行動している人がたくさんいるんじゃないだろうか。

 

私は排他的思考の塊のような人間だったので、批判発言へと向かう気持ちは痛いほどよくわかる。他人の悪口を言ってしまうのは、アイデンティティが揺らいでいる証拠である。自分と同質な人たちと共存していると、他者を否定することでしか自分という存在を正当化するのが難しくなってしまうのだ。

 

人脈作りに疲れてしまった自分を正当化するために、まだ自分が接したことのない人は悪いヤツらだという偏見を作り出す。(例えば、関西人なら「関西人が最高」「関東人はつまらない」というような短絡的な見方をする。)手に入れることができなかったものを否定する、イソップ寓話の"すっぱい葡萄"的解釈をしている人もよく見かける。

 

一番多いのは、嫉妬である。ちょっと目立っている人や、ちょっと能力が高い人というのは、どうしても妬まれる。特に、自慢話やおれは凄いアピールをする人たちは、どこへ言っても良い見方をされない。なぜかというと、皆自分のことを自慢したいし、そのことを皆にわかってもらいたいからだ。たとえ、自分が卑小な存在であることを理解していても。

 

このように、他人の悪口には他人に対する憎しみ要素はほとんど含まれていない。ただ自分自身を守るために出てきたものに過ぎない。特に、集団での発言になると、責任の所在が曖昧になるため、だれもが安易に人を傷つける発言をしてしまう。だからそんなことを恐れる必要はない。むしろ、安易に悪口を言ってしまうような人の弱さを許してやるぐらいの気持ちでいるべきだ。