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∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

集団に潜む魔力

今までしつこく述べてきたように、私は集団があまり好きではない。もちろん集団での立ち振舞は心得ているし、日本人を2つに分けるならば得意な部類に入るのかもしれない。しかし、得意だからといって好きだとは限らないこともあるのだ。特に私のように中途半端に生きてきた人間にとっては。

 

私が集団を嫌う理由として、集団になると個人個人の人間が見えてこない、ノリや空気といったワケのわからないものを楽しまされるハメになるからだ。そういう楽しみ方をしたい時は確かに存在する。ただし頻度が高すぎると、ノリや空気だけでは自分自身をごまかせなくなる時がやって来るのだ。

 

と、ここまでは半ば建前上の理由である。本心としてはおそらく、本質的に「集団」が怖いからだと思う。畏怖の念とでも言えばいいのかもしれない。それは自分がとある集団を外部から観察していても感じるし、集団の内部にいたとしても同じことである。

 

集団が結束することで大きなことを成し遂げることが可能になるわけであるが、集団になると、少しの非がとんでもなく大きく膨れ上がっていく可能性も秘めている。集団の中で目立った行動を取りにくいのも少しの非が膨れ上がっていくからである。

 

今回、一ヶ月半ほど全体研修を高校のような形式で受けてきた。そして、私たちは多くの知識やスキルを身につけることができたのは事実かもしれない。しかし一方で、大学生、あるいは高校生ぐらいのマインドに戻ってしまったのではないか、という不安は拭えない。誰もが就活をしている当初、内定式当日の方が高い意識を持っていたのではないだろうか。

 

そこまで私たちのマインドを陳腐化させたのは、私たち個人個人であると言えばその通りであるし、誰のせいでもないのかもしれない。ただし、ここに絡んでくるのはやはり集団の恐怖、集団に潜む魔力なのである。

 

実際問題として、いじめに近い現象がいくつか見受けられた。もちろん、暴力的な沙汰にはならない。しかし、イジリが結果的にイジメのようになっていた事例もあるし、真面目過ぎる人が煙たがられ過ぎて、孤立してしまう事例もよくあった(私は幸い孤立はしていない)。

 

特に問題視すべきは後者である。真面目過ぎる人というのは残念ながら、批判的に見られてしまうことが多い。そして、その空気に誰かが同調するとする。すると、今度は自分たちの行動にブレーキが掛かるというわけだ。

 

私自身、人の目を気にしすぎないように心がけて入るものの、人からの評価が極めて重要であることも知っている。だからこそ、自分の行動を完全に抑圧しないにしても、小さな行動に自ら制限をかけてしまっている側面は強い。ことのほか、犠牲者を目の当たりにすれば、やはり自分はそうならないように配慮をすることが合理的な行動選択となる。

 

私には集団の空気とやらを誰が最初に作り出しているのか、この空気を変えるにはどうすればいいのかがわからない。一生わからないかもしれない。戦う対象として集団を意識すると、恐ろしいとしかいいようがないのである。