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そして今日も考える。

仕事に対するモチベーションの変化

就職する前に母と真面目な話をしたことがある。仕事についての話だ。話をする中で見えてきたのは、母と私の明らかな仕事に対する考え方のギャップである。

 

私にとって仕事とは、「面白くなりうる可能性を秘めたもの」であり、その可能性を開花させるために就職したと言っても良い。だからIT業界という不安定な業界に入り、35歳定年説が唱えられて久しいSEになることにしたのだ。

 

しかし、母はどうも仕事を生きるための手段と考えているようだ。公務員を推奨する価値観が垣間見えたし、そもそも仕事は面白くなくて当たり前だという考え方の持ち主だった。でも生きるために働く、というだけでは面白く無いだろう。では、昔の人は何をモチベーションに仕事をしていたのか。

 

母曰く、昔の人は仕事から得るお金に生きがいを感じていたらしい。もう少し言うと、高額ブランドの洋服を身に纏うことや高級スポーツカーを乗り回すことを仕事のモチベーションとしていたのである。おそらく、当時はそれがカッコ良さやステータスの象徴だったのだろう。

 

今の私にはそういう願望はほとんどない。優先度で言えばかなり低い。もちろん、同世代にも本気でそんなことを言っている人もいるにはいるが、昔に比べてそういうことを考える若者が減ってきているのは、有名な話だ。こういった背景から、私たちがゆとり世代ならぬ、さとり世代などとも言われていることは周知の事実だろう。

 

なんとなく時代の変化としてはカッコ良さよりも楽しさや面白さに興味関心が移ろいでいるように見えるかもしれない。しかし、私たちの世代だってカッコ良さやステータスへの関心を失ってしまったわけではない。いつも私はそう感じている。

 

実際のところ、価値観の多様化が進んだことにより、唯一のカッコ良さというものが無くなってきた、カッコ良さを定義できなくなってしまったことによる影響が大きいのではないか。ポルシェに乗ればカッコいいという時代は終わったのだ。

 

近年は「イタイ」という言葉をよく使う。今では若者でなくとも使うのではないだろうか。いい意味で使うことはない。批判的な言葉である。イタイを明確に定義するのは難しいが、差し詰め、極端を否定する言葉だ。

 

例えば、ファッションなんかでも雑誌に掲載されている人を真似しようとして、蝶ネクタイなんかをつければイタイと称されることは間違いない。同様にポルシェに若者がドヤ顔で乗っていれば、カッコイイというよりはイタイという評価がつけられるんじゃないだろうか。

 

過去のカッコ良さを否定する風潮があることにより、私たちは過去のカッコ良さについて懐疑的になっている。また若者の価値観の主流はB級である。安くてしかも良いものが良いとされているし、そういうものを選べる人がカッコイイと考えられている節もあるんじゃないかと思ったりする。高い時点で拒否反応を示してしまう人が多いのも現代的な価値観だと言える。

 

だから、たぶん多くの人が「普通」の生活を望んでいるのだろう。普通の定義自体が曖昧模糊としている、たぶんカッコイイ人生よりも普通の人生の方が、なんとなく全体の認識は共通しているはずだ。

 

しかし、そこにはジレンマもきっとある。普通を目指すと、アイデンティティが揺らぐ。そういうわけで、私たちは普通を望みながらも普通ではいたくない、という葛藤を持っていることになる。本当は普通を目指したくないのに、特異な生き方に否定的な価値観のせいで普通を目指さざるを得ないからだ。そういうわけで、豪邸に住みたいなどという願望が仕事に対するモチベーションとして機能しづらくなっている。

 

他の考え方もできる。そもそも昔の人はなぜ高いステータスを示すことにそれほどのモチベーションを持っていたのか、を考えてみると、それは自己顕示欲が大きいからだと思われる。要するに自分という存在感を世に示したいわけだ。

 

では、現代の私たちには自己顕示欲がないのかというと、やはりそれも違う。ただ、SNSなどネットの繋がりができたことにより、簡単に自己顕示ができる世の中になったのだ。狭く閉じたネットワークの中で、お互いを褒め合い、認め合うことにより、もう私たちは十分に満たされている。過剰承認状態にあるのかもしれない。

 

今の私たちが夢や目標を持つことができず、努力することにモチベーションを見いだせないのは、こんな時代背景も関係しているのではないだろうか。