読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

∑考=人

そして今日も考える。

賢さとは強さである

子供の頃にそういう認識を持っている人は極めて少ないし、賢い人がクラス内で大きな権力を握っていることはまれであるどころか、肩身の狭い立場に追いやられていることの方が実際は多いけれども、賢いことは強いことである。

 

それは「勉強」という言葉に表れている。勉強という単語は勉(つとめる)と強(つよい)の二つの意味から成り立っているが、「勉強する」という動詞的な使用法が一般的であることを考慮すれば、「勉める強さ」というよりは、「強くなろうと勉める」ぐらいに解釈するのが妥当だろう。

 

全国の学生諸君が勉強する理由は賢くなるためであり、勉強という言葉の意味が強くなるために勉めることであるならば、賢いことと強いことは同義だと捉えることは論理的に正しい。だから、賢いとは強いことなのだ。

 

基本的に、「強い」は「賢い」のメタな概念になっている。強さの一つとして、賢さがあるのだ。だから、子供の頃、特に幼い頃においては、賢さに起因する強さというのは見過ごされてしまう。スポーツができたり、面白かったり、喧嘩が強い子が権力を握る。

 

しかし、大人になってみると、賢さ以外の強さは霞んでいく。もちろん、大人になってからもスポーツができたり、面白かったり、喧嘩が強いことそれ自体は強さの一つなのだろう。ただ、昔ほどの影響度はない。プロ野球選手、お笑い芸人、ボクシングチャンピオンぐらいの能力があって初めて強いと認識される。一サラリーマンがちょっとスポーツができるぐらいで強いと認識されることはない。そして、高みに上るためにも、賢さがいるのだ。

 

こういう話を考えると、どうしても強さって何だ?という疑問が湧いてしまうと思うので少し補足しておく。ちなみに、「強い」というのはかなり曖昧な概念なので、とりあえず権力を持つ人、ぐらいに私は考えている。しかし、実のところ、何を権力とみなすのかについても、色んな考え方があるので、強さの説明にはなっていない。

 

例えば、赤ちゃんが最強だと考える人も少なくない。自分では何もできないからこそ周りが全ての面倒を見てくれる。結果だけを見れば、ほとんどの大人たちよりも、自分を中心に世界を回す力を持っていると言えるだろう。弱いものの代名詞でもある赤ん坊が実は1番強いみたいな二律背反的な捉え方をすれば、もはや強さを定義することはできなくなってしまうのだ。

 

こういった考え方は特殊なのかもしれないが、それでも個人個人の中には強いという言葉から連想される具体的なイメージがあると思う。その強さを手に入れるには、やはり賢さというものが何らかの形で必要になってくる。そして、強さを手に入れるために必要なのが勉強である。勉強は賢くなるためにするものではない。強くなろうと勉めることだ。