読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

社会の仕組みは「仕事は面白くないもの」という前提で構成されている

チーム活動には個人の意志が不可欠といっても・・・

先日、チーム活動には個人の意志が不可欠であることを書きました。実際のところ正しいかはわかりませんが、個人個人が強い意志を持っていれば物事がうまく回る、と思います。

 

ですがこの視点に立ってしまうと、So What(だから何なの)?を考えた時、対策の立てようがないんですね。だってやりたくないことをやらされる時に、強い意志を持つなんてほぼ不可能です。人間は自分の意志を完全にコントロールすることはできません

個人の権限を明確にすることで対策可能

チーム活動を経験して、いかに縦社会構造が合理的であるかを痛感しました。作業プロセスを細分化して、一つ一つの仕事に各人をコミットさせることで、役割と権限を与えているのです。

 

漠然とした大きな仕事を大人数でやりましょう、という話になると、個人の当事者意識は薄れてしまいます。なので、仕事を細かく分割して、個人個人に対して別々の役割と権限を与える。要するに責任を与えることによりチームでの作業を効率的に進めることが可能になるのです。

責任が発生することにより生産性が上がる?

正直なところ、今までは責任がない方が生産性が上がると私は思っていました。ただその認識には誤りがあったようです。前提条件の違いによって条件分岐が発生していたのでしょう。

 

例えば、私の場合、自分がやりたいと思っていること(コーディング、ブログ、読書など)であれば、責任がない方が生産性は上がります。自分がやりたいことに責任が付きまとうとモチベーションが低下するからです。普通の人が私と同じ考えでないとしても、やりたいことであれば、責任があってもなくても生産性に大差はないはずです。

 

しかし、自分がやりたくないことに関しては、責任がなければ生産性は確実に下がります。というか、大抵の場合、やらないという結果になるでしょう。やりたくないことはやらないのが最も合理的です。

仕事は面白くないものという前提で社会は動いている

つまり、各人に対して責任を付与する縦社会構造が効果的に働く(責任を与えないと小生産性が下がる)ということは、仕事をやりたいと考えている人が少ないということです。縦社会は実に現実的な仕組みだったのです。

 

ただその前提に立っているため、仕事をやりたいと考えて働き始めた人にとっては辛いものとなってしまいます。仕事をしたくない人のための仕組みは仕事をしたい人にとっては最適な仕組みではないからです。大きな企業ほど顕著になるのも当然です。働いてみて、なるほどなーと感じた次第です。