∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

感情を言語化することについて

会社に入って、自分のことについて文書化する機会が増えた。正直何の意味があるのかわからないし、一体誰がその意味を理解しているのか、そして、その行為に関して意味を感じている人がどのくらい存在するのかについても大きな疑問が残る。私はこういう本質を捉え違えた制度が本当に嫌いだ。

 

とは言え、みんながやっているからやらなければならないのだ。従来のやり方がこうだから、みんながやっているから。会社の業務の8割はそんな感じで構成されているのだろう。論理的に意味を説明できる人なんてわずかだろうし、論理的な意味が用意されていたとしても、それは結論ありきのこじつけに過ぎない。それがわかっていてもどうにもならないのが会社なのだ。

 

今は新人なので、ビジネス文書というよりも感想文に近いものをビジネスの体裁で書く、という趣旨のものが多い。実のところ私にとって、感想文は文章の中でもかなり苦手な部類に入る。自分が感じたことを言語化するのは難しい。

 

私の性格的に、感情よりも先に論理が先立ってしまうせい、というのはあるのかもしれない。何かを目撃した時には右脳よりも左脳が働くのが一般的だ。流れ星ぐらいに瞬間的な事象でなければ、まず分析思考が働いてしまう。

 

ただ、私とて普段から何も感じないほど感性が乏しいわけではない。ただ感じることを言葉にしようとしても、結局「すごい」「やばい」ぐらいで完結する。たぶん、同じように考えている若者はたくさんいると思う。

 

それはボキャブラリーが乏しいからではないか、と言われてしまうかもしれない。確かにその側面はある。しかし、ボキャブラリーを豊富にすれば自分の感情を自由自在に表現できるかというと、そう単純な話でもない。

 

いくらボキャブラリーを増やしたとしても、複雑な表現方法を使うことによって、自分の感情とは違ったものになってしまうのだ。例えば、「すごい」と思ったことに対して「感銘を受けました」なんて表現を使えば、もはや私にとっては”ネタ”、嘘の感想になってしまう。

 

だから感想文みたいなものを書いたところで、自分の言いたいことが表現されているとは思えない。結局のところ、言葉というのも論理的なものであるし、感情を言葉にする、というのが到底無理な話なのかもしれない。極論を言えば、全ての感情が”言葉にできない気持ち”なのだ。

 

考えるために言葉は必要だが、感じるために言葉は要らない。