∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

存在価値を意識したことありますか

私はおおむね人から頼み事をされるのが好きである。もちろん、少し語弊があって、押し付けやパシリのような誰にでもできることを任せられることは全く好きではない。でも、自分が得意とする分野や、自分だからという理由で任せられるのは結構気分がいいものだ。

 

例えば、友人に数学の問題がわからないから解いてくれと言われれば喜んで教える。友人でなくとも、たまにボランティアでYahoo知恵袋に投稿されている高校数学の質問に回答している。自己満足で誰かの役に立てるなら最高である。こういったことを通じて承認欲求を満たしているのかもしれない。

 

ただし、私が回答するのは、あくまで回答なしの質問に限る。誰かが既に正しい回答を終えているのであれば、私が答えることに価値がないからだ。逆に言うと、既に誰かに回答されてる問題の答えを投稿することはそれほど好きではない、ということになる。

 

こんな風に、私のモチベーションは必要性に左右される。自分がやりたいことでも、それが誰かに必要とされていないとわかれば、やりたくなくなる。自分のためでもなく、人のためにもならないのであれば、もうその行動に意味は無い。

 

私が集団で行動することに嫌悪感を抱くのも、自分の存在価値を発揮するのが困難だからという側面もあるように思う。私は飲み会でボケたり、突っ込んだりするのは基本的に好きだが、他に同じような人間が複数現れると、やる気を失ってしまう。自分がその役割を担う必要性がなくなるからである。

 

すると、何の発言もしないし、黙って人の話をうんうんと聞くことにになる。(酒の席で実際にそうなることは珍しいが)。そうなると結局、その場における自分の存在価値が無くなることになる。そして、そんな場にただ存在することには何のモチベーションも感じない。

 

しかし、というかだからこそ、誰かに強く誘われたりすると、少し気持ちが傾く。少なくとも、自分を誘ってくる人は自分の存在価値を認めてくれる人、と言えなくもないからだ。ただし、集団のノリで強く誘われたとしても、その集団を構成する一人一人が自分の存在価値を認めている可能性は極めて低いので注意が必要である。

 

ただ、集団の飲み会に参加するメンバーを見ていると、何の存在価値もないような人(というと失礼だが)がたくさんいるのも事実である。私は彼らを少し羨ましく思う。観客に徹することができ、かつその場を楽しめるというのは中々の強者だ。もちろん、私がつまらないことを考え過ぎなのかもしれない。少なくとも、プライベートでこういう思考を働かせる人間は少ないんじゃないだろうか。私は生きる上で、存在価値に対するプレッシャーをいつも感じてきたように思う。

 

しかし、仕事の場においてはこのようなプレッシャーを感じるのは重要なのかもしれない。私の同期に仕事量が多すぎてずっと泣き言を言っている奴がいるが、私はむしろ仕事が無い方が辛い。会社にいるのに仕事が無いという状況は、まさに自分の存在価値を否定することに直結するからだ。ただ、飲み会とは異なり、参加しないということは会社から身を退くということを意味する。

 

ならば自分の存在価値を高めていくしか道はない。