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∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

安楽死について

余命半年の宣告を受けたアメリカの若き女性が安楽死を選択したことが話題になっていましたね。わずか29歳という年齢です。他人ごとではありますが、何とも憂鬱な気持ちになります。

 

死をテーマにしていることもあり、今日はちょっと重い記事になってるかもしれないので、せっかくの華金気分でウェイウェイしたい人はログオフしてください。

死を選択することについて 

人間と動物が大きく異なる点はなんでしょうか。それは自ら命を断つか否かです。我々は動物とは異なり、本能だけでなく理性をフル活用して、人生を選択することができます。時にはそれが自ら死を選ぶという悲しい結果になってしまうこともあるのです。

 

一般的に自ら死を選択するという行為についてはあまり良い見方をされません。もちろん、残念な出来事であることには間違いありませんが、その行動自体が異質であるとか明らかに間違っている、というような意見もあります。

 

安楽死も、日本においては有罪判決となります。つまり、医師の立場では患者の最終決定を認めることができないのです。これは自ら命を断つ行為を完全悪とみなしている証拠です。

 

今回の出来事にしても批判意見が飛び交っています。それは安楽死を許容した医師に対するもの、というよりもむしろ安楽死という選択を選んだ女性に対するものが多い気がします。闘病するべきだ、みたいな逃げることに対する批判です。皆が皆戦えるわけじゃないでしょうに。

死期を悟るということ

私の父親は、中学生の頃に白血病で亡くなりました。もともと病気が発覚した段階では、とりあえず1ヶ月くらい入院すればひとまず退院できる、ぐらいに聞いていました。もちろん完治が難しいということはわかっていたので心配ではありましたが、それでも今すぐ大事に至ることはないと、私も含め家族は考えていたと思います。

 

しかし、実際に息を引き取ったのは、入院からわずか2週間ぐらいの時でした。部活動中に先生に呼び出されて病院に向かったのを今でも覚えています。正直私たちは驚きを隠せませんでした。もう13年前の話です。

 

さて、そんな時代からしばらく時は流れ、あれは確か父の7回忌の前日のことです。母親が、当時となってはただの物置と化していた父の書斎を片付けていました。すると、出てきたんです。一通の手紙が。それは父から私たち家族に向けたものでした。ウソみたいなホントの話です。

 

日付などはどこにも書かれていませんでしたが、私たちはそれがいつ書かれたものなのかすぐに直感しました。そして同時に、入院する直前に父だけが自分の死を悟っていたのかもしれないな、そう思ったわけです。

死を自ら選択すること・それを認めること

別に私の父は、自ら死を選択したわけではありません。しかし、死ぬとわかっていて、それまでの過程が苦しいとわかっていて、なお生きるという選択をしなければならないのは、やはり残酷なものでしょう。今回安楽死を選んだ女性にとってもそうだったのかもしれません。

 

私なんかはむしろ死ぬということに本気で向き合って決断したことに大して賞賛を送りたいと思います。決して自殺という行為に賛成はできないけれど、本人が自分で下した、文字通り命懸けの決断くらいは尊重してあげたいです。

 

そして、そんな苦渋の選択をそっと後押しする、というのも医師にとってはとてつもない覚悟が必要なはずです。それは法律で許されないからとか、倫理的にいけないから、といった枠をはるかに凌駕したものです。

 

人が、「生まれて」「死ぬ」のサイクルを繰り返す限り、安楽死の是非についてはおそらく一生議論され続けるんでしょうね。