∑考=人

そして今日も考える。

奴隷の王様を目指すのか

もうかれこれ10年ぐらいですかね。私はずっと、周りにいる人達のことを凄いと思っていたんですよ。別に能力の高さについて尊敬していたわけではありません(もちろん、中にはそういう人もいます)。ただ総じて、物事に取り組む姿勢という点では、私に勝ち目はなかったと思う。

 

私は基本的に何事も頑張らない。頑張るとしても、自分のためにしか頑張らないし、しかもモチベーションを保てるようなことしかやらないし、一度に複数の事柄に対して力を注ぐことはほとんどない。というかキャパオーバーで出来ない。でも私の周りにいるような人たちは大抵ほとんどのことに対して(少なくとも私から見れば)全力で取り組んでいたのである。

 

責任感があるということなのだろう。自分にとって全く楽しくなくとも、義務を真っ当に果たすのである。学校の先生に宿題をやるように言われればやるし、合唱コンクールをやりなさいと言われれば、勝手に練習する。大学に行けば、やり方はどうであれ、単位を取ることに注力する。それが楽しくなくとも。

 

私にはこういう思想が未だに理解できないのである。大人たちは簡単に義務という言葉を使うが、それって一体誰にとっての義務なのだろう。大人たちが言う「あなたの義務」なんて言葉はエセでしかない。子供に教育を受けさせるのが大人の義務であっても、子供にとって教育を受けるのがただの権利であるように、私たちに課される義務のほとんどは実際のところ権利に過ぎないのではないだろうか。

 

仕事をしていると、色んな義務を課せられる。明日までにこの書類を作成してくれ、忘年会の余興を考えてくれ、とか。もちろんこれらの義務は果たさないよりは果たした方が良いのだろう。別に私も全ての義務に抗う気はない。

 

しかし、これを何が何でも果たさなければならないと考えるのはどうなのだろう。一度果たさなければならない理由について精査する必要があるのではないのだろうか。

 

人間はぶっちゃけ自分以外の人の責任を負うことなんてできない。もちろん、我が国においては、自分の持つ財産を他人に与えたり、自分の持つ高い地位を手放すことで責任を取ったと見なされはするが、それは本質的に他人の責任を負うこととは全く異なる。

 

つまり自分以外の人間が他人に対して義務を与えるという発想自体がひどく傲慢であるし、もし義務が破られたとしても、それは本来自分が負うべき責任を他人に課した自分自身の責任なのである。だから義務なんてものに他人を強制する拘束力はないはずなのだ。

 

ただこの国の優秀な人達は他人が作り上げた義務を真っ当にこなす。そして、評価を得て、さらに仕事という名の義務を課せられる。そして、自分は成長していると思い込むのだ。結局このループの中で成長したところで、待っているのは奴隷の王様ポジションだろう。実にバカバカしい。

 

奴隷にならないためにも、自分の責任感について一度考えてみてはいかがだろうか。