∑考=人

そして今日も考える。

鉄筋コンクリートの橋を叩きながら渡らないために

責任の所在を明らかに。私の課長の言葉である。会社に入ると、ありとあらゆる業務に責任という二文字が付きまとう。今の私にとってみれば、責任など大したことがない、というか責任の代わりに犠牲にするものがほとんど何もないので、ほとんど気にしていないが、会社間のやり取りなんてものは失敗した時のリスクヘッジとして色んな責任を担保しておかなければならないものらしい。

 

会社には、はっきり言って無駄とか思えないドキュメント類が大量に存在するが、これらのほとんどは証跡としての価値を兼ね備えていることがほとんどである。例えば、議事録という新人に任されがちな資料も、裁判で証拠として使われることもあるのだ。

 

設計書にしたって、基本設計から詳細設計にかけて色んなドキュメントが生成される。その中のほとんどは、ほんの少し記述の粒度が異なるだけでわざわざ作る価値が無さそうに思えるものも多い。ただし、順を追って詳細化していかなければ、複数の人間の間で齟齬が生まれてしまう。そして、齟齬が生まれてしまうと、何か問題が発生した時に責任が不明確になってしまうのである。

 

例えば、内輪の人間関係でお金の貸し借りなんかをすると、こういった現象は簡単に起こる。貸した側は貸したことを覚えていても、借りた側が覚えていないと言い張れば、客観的にどちらが間違っているかを判断することは不可能になる。これを避けるためには、「誓約書」というドキュメントが必要になるのと同じ理論である。

 

要するに、問題が起こったとしても自分たちが犠牲を払わないために稼働の多くを費やしているのである。簡単に言えば保険に加入しているようなものである。ただ費やしている稼働(払っている保険料)に対してのリターンが本当に保証されているのだろうか。保証されていないとしても、実際の保険と比べてどうなのだろうか。その辺りを調べられたらとか思う。そんなことはどうであれ、会社規模になるとこうも保守的にならなければならないのだが。気が遠くなる。

 

こんな風に、会社として責任を逃れる方法を大切にしているためか、やはり個人としても責任を逃れる価値観が身についている。例えば、既存のルールをそのまま活用したりするのはその典型例である。昔のモノが良い、という考え方があるのではなく、新しく何かを変えると変えたことに対する責任が生じるからである。

 

当然、先輩たちが身長ならば新入社員も慎重にならざるを得ないだろう。彼らが何かを変える時、新しく何かを始める時は、上の許可を取ってから、というのがセオリーである。ただ、私は敢えて言いたい。新入社員のうちにこそ、何かを勝手に変えたり、いっそ無責任に振る舞ったほうがいいと。少なくとも一度怒られたり、注意されるまでやってみた方がいい。

 

なぜなら、新入社員が何をやらかしたところで失うものなどほとんどないからである。もちろん、少なからず積み上げた信頼や評価を失うことはあるかもしれない。それでも、今線引したライン以上の行動は年次が上がるにつれて必ずできなくなる。石橋どころか鉄筋コンクリートでできた橋さえ叩きながら渡るオッサンになるのがオチだ。

 

私は別に無責任に生きることを推奨するわけではない。しかし、責任ばかりを気にしていく前に、どのラインを超えるとどんな処罰が下るのかをちゃんと体で理解しておいた方が、色々と自由に生きれるんじゃないかと思う。