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そして今日も考える。

教育制度を変える前に変えるべきこと

大学院時代、帰国子女の先輩がいました。その人は今も私と同じ会社に務めています。(さらに言えば同じマンションに住んでいます。)その人は人生の8割ぐらいをアメリカで過ごしていたので、日本の文化をまだ理解できていないとよく言っています。

 

その先輩は日本の大学受験制度を初めて知った時に非常に驚いたと言います。なぜかというと、たった一度きりの結果で決まってしまうからです。センター試験などは1年に1回しか受験のチャンスはありません。

 

ずっと日本で生活をしていると、むしろ受験なんて1年に一度しかないのが当たり前ですよね。小、中、高もそれぞれ受験はありますが、せいぜい前期と後期に分かれているくらいで、1年に何度も何度も募集をかけているところは聞いたことがありません。

 

ただアメリカでは、SATという試験があるんですね。改めて紹介するほどのことでもないですが、これは日本で言うところのセンター試験みたいなものです。センター試験は1回しかありませんが、SATは年に7回受験することができます。そして、その7回のうち最も良い成績を大学受験に利用することができるのです。

 

日本は失敗しない人間を求めており、逆にアメリカは何度失敗してもいいから、最終的に一番良い結果を残せる人を求めている。たかが受験制度ですが、こうやってアメリカと比較してみると、そこには確実に文化的な差異があると感じます。

 

私が受験した時も、本当ならもっと優秀なのにも関わらず、たった一度きりのセンター試験で満足な結果を残すことができなかった人が沢山います。たった一度きりしかない場面で実力を発揮するトレーニングを怠った、と考えることもできますが、単純に運が悪かったという可能性もあります。

 

私は受験に関しては一度しか失敗していませんが、それもたまたま運が良かっただけかもしれません。例えば、日本もアメリカのようにセンター試験を何度も受験可能であれば、今とは違う人生を歩んでいる人もいると思います。(それが良いか悪いかは別として。)

 

10年前のアメリカを見れば日本の未来は予測できる、などとよく言われます。アメリカの影響なのかは定かではないものの、漸く日本もセンター試験制度を廃止する考え方に至りました。もう随分前の話です。実際に制度が変更されるのはまだしばらく先ですが、達成度テストの導入が検討されています。

 

この達成度テストの目的は大きく二つで、教育の質の向上多面的・総合的な評価です。詳細については・・・知りません。ただ私が思うのは、結局センター試験の時と本質的には何も変わらないだろうな、ということです。

 

日本の教育において、一番の問題点は優秀な人材とはどんな人材を指すのかをちゃんと定義できていないことです。日本人はまず仕事が何かを定義できていない、などとはよく言われますが、教育においても同じです。

 

定義が曖昧なのに、方策を変えたところで果たしてその方策が良いのか悪いのかを評価することなんてできるはずがありません。学校の勉強ができても優秀な人材とは限らない、などという皮肉たっぷりな発言に納得する人が沢山いる時点で日本の教育は間違っているのです。

 

じゃあどういう人間が優秀なのか?というと、その問いに答えられる人間もいません。私にもわかりません。ただ少なくとも、勉強の出来る人と、他人から優秀だと思われる人の間には例外はあるにせよそれなりに相関があった、ということです。

 

しかし、今の優秀な人材像と昔の優秀な人材像との間には乖離があります。例えば、今日本で求められている優秀な人材像とは、スティーブ・ジョブズであり、ビル・ゲイツなのでしょう。俗に言う、0から1を生み出すことのできる人材です。

 

そのためにはクリエイティビティが必要だ、とかコミュニケーション能力だのリーダーシップだの、と色々なことが語られます。実際文系大学やMBAなどでは、こういったテーマの講義もあるみたいですね。

 

でもスティーブ・ジョブズがこれらの教育を受けてきたのか、と言うと、そんなわけではないんですね。大学院は愚か、大学も中退しています。もちろん名門大学に入学していますし、地頭は良かったでしょう。ただここで私が言っている地頭とは、日本で言うところのテストの点数が高いという程度のことに過ぎません。

 

何が特殊だったかというと、大学を中退してモノづくりに勤しんだこと、そして圧倒的に日本と違うのは、たとえ大学を中退していても成果で評価される環境があったことでしょう。

 

例えば、日本だと高校に行かないだけで、もう就職の選択肢は驚くほど狭くなります。また、起業したとしても人からの信頼を得ることが非常に難しいです。それは結局ビジネスの成功の難しさに直結します。

 

そういうわけで、日本では信頼を得るために、信頼を得るためだけに、学歴や職歴が必要とされ、そのために貴重な時間を浪費してしまった優秀な人間が沢山います。逆に本当は優秀なのに、学歴や職歴がないために、貴重な時間を浪費し続けてしまう人も沢山います。ここがトレードオフの関係になってしまっているのです。

 

今のその人を見て評価出来る人がいない。これってなぜなんでしょう。何事も自分で判断出来ない人が多いからです。会社然り、社会然り、学校然り。日本文化そのものと言えるでしょう。その物の良し悪し、その人の良し悪しを自分で判断できない。だから平等に図れる尺度を求めるんです。

 

「東大卒」と言われれば簡単にその人を信じるし、「社長」という肩書があればペコペコするし、「大企業で10年働いていた」と言われればその人の発言が正しいと思われる。よくあることです。

 

本当のところ、日本においては優秀な人材が育たないのではなく優秀な人材を正しく評価できる人間が圧倒的に少ないだけなんですよね。問題があるのは教育制度よりむしろ社会の方ではないでしょうか。評価する技術でも述べたが、日本人は自分の頭で評価する方法を知らなさ過ぎる気がします。

 

強いて言えば、これらも現行教育の過程で「正しさ」などという偽の正義を押し付けられた弊害なのかもしれません。マネジメント力やリーダーシップを全員に教える、というのも結局のところ従来の「正しさ」を押し付ける教育とは本質的に変わらないでしょう。誰から見てもどこにおいても優秀な人などいないからです。

 

人を平等に評価するために正しさが必要になるくらいならば、もう平等に評価しなければならないという固定観念を捨てるべきでしょう。定量的ではなく定性的に、アーティスティックに評価できる人が増えていけば、むしろ世界は多様化し、格差も無くなるのではないでしょうか。