∑考=人

そして今日も考える。

市場価値の高い人間を目指す理由は何ですか

今日、私と同じチームの先輩、私の教育担当者に発令が下った。一つ上のポストに昇格したのだ。といっても、そのポストに就くに値する人材になったから昇格した、というわけではなく、まぁ言ってみれば会社の「決まり」みたいなもんである。私も2年後の今頃にまだ今の会社に勤めていれば同じように発令が下ることだろう。

 

会社には色んな人がいる。この人凄いなーと思う若手の社員もいれば、何にもやっていないように見える課長もいるし、何が凄いのか全く分からない部長もいる。もちろん、何かしらの能力があるからこそ高いポストに就いているわけであるが、彼らの価値は所詮この会社の中だけに閉じたものだろうな、なんて思うこともよくある。

 

だから彼らは無能だ、などと言う気は毛頭ない。むしろ、この会社の中では価値があるということに凄みがあるのだ。もちろん、偉そうな態度は全く持って気に入らないが、自分なんかよりもずっと優れた人間だと思う。

 

とは言え、私が就職活動を始めた頃は、そういう「社内でしか使えない人」になるのが嫌だった。おそらく、就職活動をする随分前から、「〇〇しかできない人」みたいなレッテルを貼られるのが嫌いだったのだ。私は常にハイブリッドな人間でありたいと思っている。

 

そんな私が考えたハイブリッドな社会人とは、市場価値の高い人であった。色んな書籍を読んでいても、先行き不透明なこの時代は一つの企業にしがみつくのではなく、市場価値の高い人間を目指すべきだという主張に出会うことも多かった。

 

ベンチャー企業の面接の中でも散々市場価値の向上という側面からアピールされたこともある。もちろん、私も市場価値を高めることが重要だとは考えていた。ただ、面接官からヒシヒシと感じる、市場価値の高い人間こそが価値のある人間なんだ、という無言の主張に何とも言えない嫌悪感を感じていた。私は自分と異種の価値を素直に認められない人間が嫌いなのだ。

 

実際、私も市場価値の高い人間の方が凄いと思ったこともあるし、これからそう感じることはあるかもしれない。ただ、それに比べて大企業でしか生きられない人間が劣るとは思ったことはない。私の見解としてはそこに絶対的な優劣はないと思う。そこにあるのは好き嫌いだけである。

 

市場価値が高い人間の方が良いと主張する人の論理は、ほとんどの場合、一つの仮定を導入している。「もし会社が倒産したら」とか「もし転職しようと思ったら」などである。つまり、今その時点の価値では推し量っているわけではないのである。

 

市場価値の高い人間になった方がいいと主張する人は、今の時代に大学へ進学することを推奨していない人が多い。専門性を磨く時間が少なくなり、結果的に汎用性の高い人間になることができないからだ。

 

これは皮肉というか、結構面白い。そもそも大学に行くのってぶっちゃけ汎用性の高い人間になるためだからだ。汎用性が高いとは、色んな会社に入る選択肢が多いことを示す。

 

で、色んな会社に入る選択肢を増やしたってしょうがない、とか主張している人が、「市場価値のある人」という汎用性の高い人間を目指すことを推奨していたりするのだ。私はこう思う。で、そうやって汎用性の高い人間になってそれからどうするの?と。

 

色んな会社で採用される可能性をあげるために大学へ進学するのと、色んな会社に転職できる可能性を上げるために市場価値の高い人間になるのと、何が違うのだろうか、と。そう考えたとき、ただ闇雲にベンチャー企業に入ることはただの問題の先送りでしかないような気がする。

 

私が最終的にベンチャー企業へ行かなかったのは、直観的に上記のような考え(当時は言語化できなかったもの)に違和感を持ったことも原因の一つかもしれない。

 

一番大切なのは、自分に適した市場を見つけることなのかもね。「適した」というのも色んな意味が含まれているけど、「より価値ある人間と認められる」ぐらいにしておこう。

 

大企業の部長さんは大企業にいるからこそ価値があるし、ベンチャー企業の社長もベンチャー企業にいるからこそ価値がある。市場価値の高い人間は色んな会社を転々とするからこそ価値がある。本質はそういうことなんでしょう。