∑考=人

そして今日も考える。

定義に頼るな

私は、色んなことの定義とかを考えるのが好きだ。たぶん、数学の法則を考える問題の延長線として、何かを抽象化するゲームとしての思考が楽しいのだろう。このブログでも何かと定義のお話はよく出てきているはずだ。

 

ただ断っておくと、その定義が完全な正解だと思ったことは一度もないし、それが自分にとって正しいとも思っていない。言葉と一緒で定義なんてものは時と共に変わりゆくし、そもそも曖昧なものなのだ。何かを考える上で仮定としての定義が必要になる場面が多いだけである。

 

最近、親友の定義って何だろうみたいな話になったことがある。私もたぶん、友達とか親友とか、そういう人間関係全般の定義は何度も考えたことがあるし、会社に入ってからは尚更だ。

 

親友の定義としてよく挙げられるのは、「自分の素を出せる人」、「一緒にいて気を遣わない人」、「欠点を指摘できる人」などがある。まぁ確かにどれもそれらしいし、それが正解だと思う人もいるだろう。ただ私にはどれもイマイチピンと来ない。

 

そもそも誰にでも簡単に自己開示をするタイプの人間がいれば、私みたいに誰にも素を見せないような人間もいる。また、関西人みたいに馴れ馴れしいタイプの人間もいれば、「親しき中にも礼儀あり」をポリシーに生きる人だっているのだ。

 

そもそも他人の欠点を指摘することを生きがいいにしている人間もいるし、そもそも他人を本当に尊重しているからこそ、自分が間違っていると思っても敢えて指摘をしない人間だっている。つまり例外なんていくらでもあるのだ。

 

参考までに私の親友の定義を述べておくと、

①笑い抜きに楽しい話ができる(話していれば、自然と笑いが起こる)

②その人のことを知りたいと思い、助けたいと思えること

である。

 

本当は、「お互いが①、②を感じていること」というのが必要なのだと思っているけど、これを定義に含めてしまうと、確実に親友と呼べる人間は存在し得なくなる(他人の気持ちはわからないから)ので、ここでは外しておく。

 

上記の定義が全く検討ハズレな人もいるだろう。そんな程度じゃ親友じゃないと感じる人もいるだろうし、逆に親友でもそんなことは思わない、という人もいるかもしれない。だが、その通りかもしれない、と思った人も少なからずいるはずだ。

 

仮に、そういう人が上記の親友の定義通りに、人間関係を構築したとしよう。その場合、その相手はあなたにとって親友と呼べる人間になるだろうか。答えは十中八九Noである。なぜならその定義は正解ではないからである。

 

現実は思考学の世界とは違う。何かを考える場合には、まず前提条件を定義してやる必要はある。ただし、現実世界では定義はいつも後からついてくるものなのである。まずいくつかの結果があって、それを抽象化して定義が取り出される。それはどこまでいっても解釈でしかなく、不完全なのだ。

 

定義に頼っちゃいけない。