∑考=人

そして今日も考える。

リスクがデカすぎるとか言う前にリスクを矮小化するために何ができるか考えろ

私の会社の人間は得てして、既存のやり方に対して懐疑的にならない。何か問題が発生すればとりあえず、打ち合わせを開いて皆で対策を考えようとするし、進捗の実態がほとんどわからないような過去のフォーマットをベースに進捗報告をする。業務を改善するような指摘を受ければ新しいルールや取り組みを増やす方向でしか検討することができない。

 

かと思えば、未だに単純なルールさえ把握すれば誰でもできるような雑務を自分たちで処理しようとする。お金がないからといってアウトソーシングを躊躇し、その結果生み出す付加価値には到底割に合わない人件費がかかっているのだから本当におめでたい。問題を解決するために何をどう変える必要があるのかが全く見えていないし、アプローチレベルで新しいことをする風土が全くない。

 

彼らが大きく勘違いしているのは、新しいことを検討することにこそ意味がある、と思っていることだ。努力にこそ価値がある、的な。そこそこな優等生が抱きそうな考え方である。

 

私はちょくちょく先輩や上司に対して、こういうことはできないんですか、という質問を投げかけることがある。すると、なぜか彼らは誇らしげに、「実は昔検討したことがあるんだよ」なんてことを言う。なんでも、雑務のアウトソーシングやサーバーのクラウド化などといった抜本的な取り組みも過去に検討されたことはあるらしい。

 

「検討したことがある」というのは「やったことは一度もない」ということに等しい。やらなければ実際のところは何もわからない。そして、私の会社の人間はどうも一度検討して出された結論が半永久的に正しいと思い込んでいる節がある。

 

だからこそ、一度検討しただけで満足し、それ以上は同じ方法については検討しない。そういった経験が様々な場面で積み重なってくると、結局、今が一番良いのだという勘違いをするようになる。硬直化の始まりである。これは組織も人も全く同じだ。

 

最初にスマートフォンが発売されたぐらいの頃に、いきなりスマートフォンに変えた人は少ないと思う。一応検討はしたけど、なんか高いしやめよう、という人が大多数だったはずだ。もちろん、その時の判断としては間違っていなかったのかも知れない。

 

でも、今もし「スマホ」よりも「ガラケー」の方が良いという判断がずっと正しいと思い込んでいるとしたら随分おめでたいとは思わないだろうか。私の組織は、昔検討したことがあるからといって未だにガラケーの方が良いと信じている人となんら変わりはない。

 

もちろん、新しい取り組みはリスクが大きい、というのは理解できる。でも新しい取り組みにリスクが付きまとうは当然のことであるし、実のところ今まで通りにやっていたところでリスクは付きまとっているのである。

 

ただ異なるのは、(たまたま)今までは上手くいっていたという、非論理的な経験則が個人個人の頭の中で思い描く未来に対しても適応されてしまっているだけなのである。機械が運転するよりも人間が運転した方が絶対に安全だという思い込みも全く同じ理屈である。

 

最後はせっかくの新しい検討を白紙にしてしまう、リスクに対する考え方について。こんなこと私は当たり前だと思っていたんだけど、開始・検討段階でリスクがないなんてことはまずない。そして、組織(自分)にとってリスクの大きいことの方が価値はある傾向にある。だから価値のあることをやろうとすればリスクは必ずそれなりに大きくなる。

 

かく言う私も慎重派なので、とりあえずやってみよう、みたいな決断はあんまりできない。しかし、リスクがあってもやりたいことはやる。やりたいことを実現する上で、考えるべきはリスクをどこまで矮小化できるかであるし、それを考える人が賢い人なんじゃないだろうか。

 

例えば勉強やバスケットにしたってそうだ。難関大学に受かるためには賢くならなければならないが、考え方を変えれば、落ちるリスクを矮小化できれば合格する確率が高くなる。そして受験の場合、リスクを矮小化することと賢くなることはほぼ同義と言っても良い。

 

プロのバスケットボール選手になるには、プレーのスキルを磨かなければならない。そして、プレーのスキルを磨くとは、シュートを外すリスク、シュートを決められるリスク、パスミスのリスクなどを矮小化することと同義である。

 

最初の模試でF判定が出たらもうそこで諦めるのか。一度検討はした、といって満足するのか。そういう話である。本当に自分が賢いと思っているなら、リスクを認識した上で、どれだけリスクを減らす余地があるのか、リスクを小さくするために何ができるのか、そういう発想を持って欲しいものである。