∑考=人

そして今日も考える。

次世代の理想の社会とは

理想の社会とは何だろう。

 

はるか昔に比べて現代は実に良い社会になっていると思う。いつ誰が襲ってくるかわからない状況でもなければ、食べ物が無くて飢え死にするリスクも少ない。タダで娯楽を楽しむことだってできる。

 

でも、今の社会が理想の、究極の形なのかと問われればそれは違うだろう。でなければ、毎年数多くの自殺者が出たりしないはずである。少なくとも自分自身の頭で考えた時に、今の社会こそが理想だと感じることはない。

 

では、改めて理想の社会とは何だろうか。代表的な意見で言えば、戦争のない社会、貧困のない世界、犯罪のない世界、自由な社会、格差のない社会、様々あるだろう。そして、色んな人にとって理想とする社会が異なる以上、逆説的ではあるが本当の意味での理想の社会が実現することはない。

 

しかしながら、上記の問題が共通して起因しているものがある。それはお金である。お金があれば、上記の問題のほとんどは解決する。つまり、理想の社会とは、全員がお金を持っている状態が死ぬまで続く社会のことなのである。私はそう思う。

 

しかし、ここが経済システムの難儀なところで、全員がお金を持ってしまうと、あらゆる生産活動はストップしてしまう。考えてみれば当然であるが、お金とはそれ自体が価値を持つものではなく、価値を持つものと交換が可能な媒体でしかない。

 

例えば、AさんとBさんの2人しかこの世に存在しないとして、Aさんは狩りに出かけて肉を得る、Bさんは漁に出掛けて魚を得る、としよう。Aさんは自分が肉を得ることによって、Bさんが取った魚を食べることができるし、Bさんは自分が魚を取ることによって、Aさんが狩った肉を食べることができる。

 

貨幣システムが導入されていても構造は変わらない。要するにAさんは肉を取ることでお金を得て、Bさんは魚を得ることで、お金を得ることができる。いわばこれが仕事をして稼ぐということである。

 

しかし、もしAさんもBさんもお金を持ってしまったら、肉を取りに行ったり、魚を取りに行く必要はなくなる。すると、そもそも価値を創出する活動自体が止まってしまい、単なる媒体でしかないお金は行き先を失ってしまうのである。

 

要するに価値を創出するためには、貨幣システムの導入は避けられなかったと言えよう。ただし、である。それはもう既に昔の話であり、昔は生産自体に大量の労働力が必要とされていたからだ。現代はそんな時代ではない。

 

さっきの例にもどって、もし自動で狩りをするロボットと自動で漁をするロボットがあれば、AさんもBさんも働く必要はないし、もっと言えば貨幣制度そのものが必要はない。もちろん、無秩序な世界であれば、この肉や魚をより多く取るために戦争とかに発展してしまう必要はあるが、政府機関や法が管理すれば、争いが頻発することはない。

 

むしろ問題になるのは、肉や魚を取るロボットのメンテナンスをする人(労働力)が新たに必要となってしまうことだ。もし、ロボットが最新のAIを搭載していたとしても同じである。つまり、全員が働かなくても、全ての人が人として最低限の生活が保証されるという時代は永遠にやってこない。人も物もいつかは壊れてしまうからである。

 

上記から考えてもわかるように、IT技術の進化は雇用(ハンターと漁師)を減らし、新たな雇用(ロボットの管理者)を創出する。しかし、無くなった雇用よりも創出された雇用の方が少く、そして、新たな雇用の方がより高度なものになっている。つまり限られた人間にしかできない高度な仕事ばかりが創出され、単純労働は無くなっていくということである。

 

仮にロボットの管理者になったCさんが慈悲深い人で、AさんBさんは何もせず自由に暮らしていても、肉や魚は平等に分け与えることができたならば、少なくともAさんとBさんはほぼ完全な自由を手に入れることができる。

 

ほぼ完全、というのは、差し詰め、AさんBさんはCさんに完全に依存してしまっていることである。そして、Cさんもとい人間というものは不完全なものだ。自分がCさんの気持ちになってみてほしい。自分と同量の肉や魚をAさん、Bさんに分け与えるだろうか。

 

分け与えるはずがない。きっとCさんはロボット管理者という高度な仕事に従事できるように様々な努力を長期に渡ってしてきたはずである。一方でAさんやBさんは勉強を怠ったため、そういった能力を身につけていない。本来であれば、Cさんが全ての肉や魚を手にしても良さそうなくらいである。

 

近年格差社会と言われているのは、上記の例で、Cさんが大部分の肉や魚を手に入れ、AさんやBさんはほとんど肉や魚をもらえない状況そのものである。こうなると、格差社会というのがある意味真っ当な社会の姿なのかもしれない。

 

しかし、AさんやBさんにだって事情はある。Cさんだってたまたま自分が好きなことをやっていただけかもしれない。そういう個人個人の事情を鑑み、補正を掛けるのが政府の役目である。

 

ただ、政府が現代においてやっていることは、本来それほど価値のない仕事を創り、雇用(お金を給付する理由)を生み出しているだけである。国人全体の納得感はあるかもしれないが、公務員がバッシングを受けているように、価値のない仕事が存在していることに国民全体が気づくのもそう遠くはないだろう。

 

であるならば、もう割りきって、給付金を与えるシステムを作ってしまうべきだろう。働かない人間も許容しましょう。働かざるもの食うべからずの時代に終止符を打ちましょう。だから皆無理して働かなくていいよ、と。

 

誰もが生きるためには働くしかない社会ではなく、誰も働かなくても生きていける社会。それが次に向かうべき社会の流れだと私は思っている。

 

喩えて言うのであれば、物を購入するルートが実店舗からオンラインショップに変化したように。実店舗で買うからこそ良い面は必ずある。しかし、実店舗でしか変えないというのも一部の人にとっては苦痛な側面もあるのである。そこにオンラインショップという概念が生まれたことによって、それらを使いわけることができるようになった。本質は選択可能になったところにある。もし、完全に実店舗での販売は終了、という話になれば、多くの人の反感を買うことになるだろう。

 

労働についても全く同じだ。社会から労働を完全に抹消すれば理想の社会は遠のく。労働の廃止ではなく、働く働かないを本当の意味で自由に選択できる社会こそ、現代に求められているんではないだろうか。

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

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