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そして今日も考える。

仕事の教え方

仕事の答えに正解はない。だからこそ、仕事をするのは難しいことだし、さらに仕事を教えるというのも難しい。決して自分の答えが正解、というわけではないからである。また、後輩の考える力を養うためには仕事を教えすぎるのも良くない、という考え方もある。

 

しかし、考える力の育成を言い訳に仕事を丸投げする人も沢山社会には存在していると思う。実際、考える力がいくらあっても解けない問題はたくさんある。そういう問題(=仕事)を丸投げするような人にはなりたくないと思う。

 

例えば、私などは「シーケンス図を異常系も含めて作ってくれ」みたいな仕事を受けることががあった。例えば、これだけを新入社員に伝えてもほとんどの場合、作業に取り掛かれるはずもない。また考える力があったところでこの仕事を達成することはできない。それはなぜか。

 

作業指示自体の意味がわからないからである。上記の場合で言えば、「シーケンス図」というものが何なのか、「異常系」というのは何を指しているのかが漠然とでもわからなければ、作業のしようがない。理解の浅い相手に対して、このレベルの作業指示しか与えず、後は自分で考えろ、というのは完全な丸投げである。

 

もちろん、優秀な社員であれば、シーケンス図って聞いたことがあるなと感じて、ググッて自分なりに理解するのかもしれないが、「異常系」など、汎用的にも使われる言葉であり、社内では少し特別な意味合いで使われる言葉の意味は、説明を受けなければ誰も理解することはできない。最低限そこに対する説明は必要である。

 

そして、当然目的も外せない。何のためにやる仕事なのかを知っているのと知っていないでは成果物の作り方・詳細度・見せ方がまるで変わってくる。どういう場面で使われて、誰のために作るものなのか、も当然教えなければならない。(無論、新入社員もこのあたりは積極的に質問しないといけない。)

 

目的・やるべきことが明確になっていれば、次の壁は、どうやって作るのか、すなわちやり方が問題になる。ここを教えるべきなのか、教えないべきなのか、というのは考えどころになると思う。どうやってやるかは自分で考えろ、というスタンスの人もいるとは思うが、私は基本的に一度はやり方も教える。

 

やり方を教えないというのは、業務推進の観点で非効率であるし、考える力を育成する、という点でもやはり非効率だ。やり方を教えてしまうと、0から1を生み出す力がつかないことが危惧されるかもしれないが、そもそも0から1を生み出す方法だってもう既に方法論として定型化しつつあるのではないだろうか。

 

日本には守・破・離という思想がある。まずは型を教え込み、それを少しずつ変え、最後には完全に自由に作り出すという成長プロセスを踏むのが、日本のどこの現場でも流通している。幼い頃から慣れ親しんでいるし、そういうプロセスをたどる方が良い。

 

ただ、問題になるのは、やり方の粒度である。例えば、にんじんを八百屋で買ってくるようなお使いを人にお願いする場合、大人に教えるのであれば、「ニンジンを買ってきて」と言ってお金を渡せば済むかもしれないが、子供にお願いする場合は、どこの店で、どんなニンジンを、何本買う、という説明から、どういう道順でお店まで行くのか、あるいはどのタイミングでお金を払うのか、そして一つ一つの作業の順序まで教える必要があるはずだ。

 

この粒度の違いが何に起因しているのかというと、これも相手が保持している前提知識の違いに過ぎない。ただ、少しでも考える力を養いたいのであれば、出すべきアウトプットに対するインプット情報を教えるというのも一つのやり方だと私は思っている。(もちろん、その場合はインプットとして必要になる情報を完全に整理できている必要がある。)

 

例えば、模写というのは非常にインプット情報がわかりやすい。この場合、模写の対象となるものがインプット情報である。あと、書くために必要なリソースとして紙とペンがあれば良い。このぐらいの作業指示だと、どこから書き出すかは人によって異なるし、やり方も多岐に渡ることだろう。つまりそれが個人個人が考える力を使っているということに他ならない。

 

もし、模写を絵描き歌のようにやり方まで規定してしまった時、人の思考力は破壊されてしまい、新たな方法論は生まれない。もし、自分で考える力を持った人間であれば、既に型を覚えた後に、無駄な部分や別のやり方を試行錯誤して改善していくだろうが、考えない人間は一生その型にハマり続けることになる。もし、本当に後輩の考える力の育成に興味があるなら、ぜひインプットを意識して仕事を教えることを期待する。