∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

奨学金制度のあるべき姿を考える前に

奨学金制度の現状

現代、日本国民の2人に1人は社会人になった時点で、300万円の奨学金の返済を抱えているらしいです。奨学金と言えば聞こえはいいですが、これ、ただの借金です。私も200万ぐらい奨学金借りてたので、毎月2万弱返済しています。そして、これ、あと10年以上続きます。社会人に取っての2万なんて余裕だろ、とか思ってましたが、結構辛いです。私の周りには月4万とか返済している人もいて、かなりキツそうです。

 

私の場合は第一種なので無利子ということもあり、返済こそ苦しいですが、生活が成り立たないほどではありません。ただ、社会に出てから奨学金の返済が立ち行かなく人も17万人ぐらい存在するようです。だいたい奨学金を借りている人の10%弱が返済困難状態、という感じでしょうか。結構深刻ですね。

 

そもそも、今の奨学金制度は、大学を卒業すれば、良い会社に就職でき、良い収入を得られる、そのお金で返却する、というサイクルが回ることを前提に作られています。これは年金制度にも少し似ています。

 

しかし、今やその前提は完全に破綻しています。大学を卒業しても、働き口が見つからない。ありつけたとしても、ブラック企業で心身ともに障害をきたしてしまう、ということが普通にありえるご時世です。だからこそ、奨学金制度の弊害が目立つようになってきているのです。前提条件が破綻し、問題化している点も年金制度と同じです。

■給付型奨学金にの効果と問題

この問題に対し、安倍さんは給付型奨学金制度の導入を宣言しましたが、どうでしょうね。これって本当に解決策として有効なのでしょうか。

 

確かにこのまま奨学金問題が深刻になっていくと、「大学へ行く」という選択は完全にギャンブル化します。今だって、闇カジノで400万突っ込んで、1000万になると思ったのに、そうならず、闇金の返済だけが残った、そんな状態の人が既に17万人いるわけですから。良識ある人ほど、あー大学には行かないでおこう、となってしまうわけです。つまり、勉強に対してネガティブになり、日本社会は無能になっていくわけです。

 

また、家が裕福な人だけがローリスクで大学へ行けるようになります。すると、格差の再生産(金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏に)が起こります。人間、自分が生まれる環境は選べないので、腹立たしい限りです。

 

ならば、家の経済状況に関わらず、勉強したい人は心置きなく勉強できるような国作りの一環として、給付型奨学金というのは魅力的です。少なくとも勉強する人を増やせば優秀な人の輩出数も増えることは確実でしょう。

 

ですが、そんな財源どこにあるんだっけ?って話です。端的に言えば、国民にしわ寄せが来ます。税金などの形で私たちの財布から出て行ってしまうわけですね。こうなってくると少し考えなければならない別の現実問題が浮かび上がってきます。本当に意欲的な若者が学べる環境ができる一方で、ただただ遊ぶために大学へ行く人間が増えるというリスクです。

■日本の大学生は勉強しない

そもそも、今の大学生ってどのくらい勉強しているんですかね。もちろん、学生は貧乏ですから、アルバイトなどもしなければならない、といった時間的制約もありますけど、楽に単位が取れる講義を受けて、卒業資格だけを得るために大学に行ってる人の方が多いんじゃないでしょうか。私も日本の大学生は総じて勉強していないと思っています。意欲的に学ぶ人はせいぜい1〜2割、ほんの一部でしょう。

 

私もそうでしたけど、大学に行きたい、っていう人って別に特定のことを勉強するためではない人がほとんどですからね。まず大学に行きたいっていう気持ちがあって、大学生活の中でそれを合理化していく、みたいな。そんな感じです。

 

というのを踏まえて、国民はそんな大学生ならぬ遊学生に対して税金を払うことを快く思うのでしょうか。絶対思わないですね。この奨学金問題についても、「努力が足りなかったからだ」とか「自己責任だ」みたいに否定的な言い方をする人が多いのは、ちゃんと勉強していない大学生が多い(少なくともそういうイメージを持っている)ためです。

 

なので、私も払いたくないです。自分が学生の時だったら払って欲しかったですけど笑。こんなわけで、一部の勤勉な学生が被害を被ってしまっているわけです。

■大学なんていかなくていい

私はずっと思ってますけど、そもそも今のほとんどの大学にはあんな高額な学費を払うほどの価値はありません。教育の質についてももちろんそうですが、昔であれば価値のあった「大卒」ブランドも既に無力化しています。

 

今でも高卒と大卒ではその収入(生涯年収)に大きな格差ができるわけですが、昔は大卒の方が高卒に比べて希少性があったから、価値があったのです。それが大学の数が増えて、進学のハードルが下がり、今は大学進学率は50%超えです。皆が優秀になったわけではなく、本来であれば高卒のまま働きに出ていたはずの層がFラン大学へ進学するようになっただけです。「大卒」としての価値はほとんどありません。

 

そして、Fランの大卒に価値が無い今、Fラン大学は教育の質という形で価値を提供しなければならないのですが、多くの大学ではその価値を提供できているとは思えません。そんな環境に高い金を払って大学に行くのは結構馬鹿げています。一部の難関校では教育の質が高いところもありますし、「大卒」自体の価値もまだまだ残っているので、行く意味はありますが、そこに届かないのであれば、高卒で働いた方がマシでしょう。

■問題の本質は日本社会の評価スキーム

Fラン大学に行っても損だから高卒で働く、では残念ながら何の解決策にもなりませんよね。格差の再生産を防げません。あるいは、みんな大学に行く時代だからこそ、自分だけが大学に行かないことを不安視する人も多いでしょう。日本人は人と違うことをするのをめちゃめちゃ不安に思いますから。これでは結局問題は硬直化したままです。

 

問題の本質は日本社会のスキームにあるんですよ。そのスキームとは、分かりやすい指標で人の能力を図ろうとすることです。何回も言ってますけど、日本人って評価がヘタクソなんですよね。ほんとに。

 

評価が下手だからこそ、簡単に評価できる手法として単純な指標値を作ったんですよ。これはある意味賢いやり方もあります。物事は定量化すれば簡単に評価できますから。偏差値がまさにその典型例でしょう。「偏差値」という指標があるから、どんな人間でも誰が優秀か評価できる、というわけです。

 

でも、偏差値高い奴と一緒に仕事してみたら全然優秀じゃなかった、ってこともありますよね。あるいは、最近話題になったショーンKみたいに、仕事ぶりは良かったのに実は偏差値は詐称だった(低かった)なんてこともあります。要するに、偏差値=優秀者の指標値ではないってことです。あるいは、ほとんどの物事はそんな単純に定量化できないってことです。

 

自分も評価が上手いとは言えないので、想像でしか無いですけど、何かを評価する時って多角的であるべきだと思うんですよん。例えば、8つぐらいの異なる特性をピックアップして、それぞれのポイントでレーダーチャートを表現した時にできる八角形の面積が大きい人が優秀、みたいな。

 

ただし、ここで8つの異なる特性をピックアップする段階でミスってるのが日本人です。例えば、義務教育にも色んな科目があるので、レーダーチャートで各科目の成績を表現することもできるんですけど、無意味です。概ねどの科目も、単なる答えの暗記量を競うテストですからね。偏差値=暗記力と言っても過言ではないくらいです。

■公正な評価教育からの脱却

日本教育は、客観的に、平等な評価ができることに重きを置きすぎています。その結果、時代に合った質の高い教育を提供することよりも、公正に評価できる昔ながらの教育方法を採用し続けてしまっている、これが一番の問題点です。

 

もちろん、この国で多角的な評価をしようとすると、必ず大問題になります。それは不平等感です。当たり前でしょう。国民皆平等の精神に基づく我々は、人によって評価が違うことをひどく嫌うからです。東大の推薦入試が批判される背景にも同じ理由があったはずです。

 

しかし、現実社会には完全な客観は存在しません。偏差値のように客観っぽく見せることはできますし、それが好まれる社会であることもまた事実ですが、ほとんどのことは各々の主観でしかありません。強いて言えば、様々な主観の集まりが客観になるのです。そして、それを学生のうちに教えるためにも完全な公正評価から脱却する必要があります。

■給付型奨学金より教育の質向上・フリーター許容の文化

かなり話が脱線しましたが、教育が多面的な評価を本格採用するようになれば、自ずと社会も、多面的に学生を評価するようになります。あるいは、その時は高卒や大卒などの括りもなくなっているかもしれません。幸い、グローバルな時代の流れはダイバーシティ多様性です。

 

そういう社会が実現すれば、就職を悲観視してむやみやたらと大学に行かなくなるはずです。結果的に、年間100万もの価値がある教育を提供する大学だけが生徒を獲得できるようになるので、必然的に教育の質はあがります。

 

また、今の大学生活において一つ価値がある点として、自分の裁量で自由にやりたいことができることがあげられます。といっても、これは「大学」そのものの良い点ではなく「大学生活」の良い点です。むしろ、無駄に大学に通っているばかりに、学業以外の時間しか自由に使えない、ということでもあります。

 

これも大方、社会が「大学生」であることを過度に評価している弊害といえます。もし社会が学生以外の身分としてモラトリアム期間を過ごした若者をフラットに評価できるようになれば、躊躇なくフリーターとして無駄に学費を払うこともなく、4年ぐらい自由な生活を送った後に就職するという選択も可能になります。

 

こんな社会になれば、奨学金を貸与型にするか給付型にするか、なんてのは些細な違いでしょう。こんな社会になれば、ですが。