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そして今日も考える。

競争のない世界は”夕陽的”ではない

競争。それは自然界の中では当たり前の行為であり、社会の中でも当たり前に繰り広げられているものだ。勝つものだけが生き残り、負けたものは死ぬ。世界の原理原則である。

 

しかし、この原理原則を不合理だと考えたのは人間である。例えば、究極の競争である「戦争」という行為は自然の摂理には即しているが、私たち人間からは忌み嫌われた残虐な行為だと考えられている。多くの犠牲者を生み出してしまうからだ。

 

戦争の悲惨さを理解している我々日本人にとっては、争いごとはよくないことだという考えがどこかに必ずある。そういった思想がかつてのゆとり教育の産出にも起因しているのだと思う。ゆとり教育真っ只中、運動会の徒競走をみんなで手を繋いでゴール、というのが話題になったのも、競争を避ける文化の象徴である。順位をつけることは敗者を生み出すこと、すなわち良くないこと、と考えられていた。

 

 

果たして競争することは悪いことなのだろうか。あるいは、競争しないことによるデメリットはないのか。そういった視点で、競争にまつわる様々な考察がまとめられているのがこの一冊である。あとで気づいたが、「もしドラ」の著者岩崎さんの本だ。

競争考 ―人はなぜ競争するのか―

競争考 ―人はなぜ競争するのか―

 

競争することの価値、人が勝負を避ける理由、その対策としての競争心の取り戻し方に始まり、ゆとり世代ブラック企業が生まれた理由などについてもかなり深掘りして語られた一冊である。久しぶりに滅茶苦茶面白い本であった。

 

全体を通して、一番始めのサブタイトルが「競争はプレゼンテーションである」というのが言い得て妙で、非常に印象に残っている。ということでここでは冒頭部分だけ少し紹介しよう。

近頃つくづく思うのは、世の中には「すごい」というのが見えやすいものと、見えにくいものがあるということ。そして、「すごい」というのが見えにくいものには、「すごい」と見えるような工夫が必要だということ。その工夫ープレゼンテーションこそが、何よりだいじだということ。

 

私も社会人になってから、このプレゼンテーションというものの壁にぶち当たっている。 いわゆる、聴衆の前で発表する「プレゼン」ではなく、日々の些細なアピールだと思ってもらえればいい。

 

私はアピールするのが好きではない。そういった実力以上のアピールばかりしている人間にも全く魅力を感じないし、それより、実は凄い人間の方がカッコイイと思う。あるいは、そういう人間でありたいと思う。

 

しかし、岩崎さんは20年かかって、世の中はそうはなっていないことに気づいたと述べている。これはたぶん本当のことだ。私も薄々感じているが、優秀な人間よりも優秀そうな人の方が評価される。

 

そして、このプレゼンとしての効用が非常に高い手段、それが競争だという。競争に勝つことこそが最大のプレゼンなのである。競争に勝つ、ということがシンプルに相対的な価値を示す結果だからだ。

 

私はこの当たり前の文章にひどく関心してしまった。というのも、私が大学時代になってからめっきり友達ができなくなってしまった(笑)一番の要因は、大学には競争と呼べる場が全くなかったからである。あるいはそういった場に参加することもなかった。

 

今の会社にも、明確に優劣をつけるような取り組みはない。〇〇さんはここが優秀、〇〇さんはここが優秀、結局みんな優秀、で終わる。自分の無能さを周囲から突きつけられることはない。そして、競争を望む人も少ないように思う。

 

 

ゆとり世代を中心に、優劣をつける、ではなく、それぞれの個性を大事にする風潮が高まった結果、競争心を持つ人間は少なくなった。でも最近思うのは、ナンバーワンよりオンリーワンを大切にした結果、皆が無個性になっている、ということだ。そもそも個性を知ろう、と思う人間に出会うことが非常に少ない。と同時に、私も誰かに関心を抱かれることはほとんどなくなったと思う。

 

だからこそ、アサーティブな人間ほど評価される、という事態になっているのだ。社会においては絶対的な価値(あいつは凄い)よりも相対的な価値(あいつはこいつよりも凄い)の方が圧倒的に価値が高い。ノンアサーティブな人間がアピールするには勝負の場に出て勝つしかないのだろう。逆に言えば、ノンアサーティブな人間のためには競争という場が必要なのである。岩崎さんの言葉で言えば、競争のない世界は、”夕陽的”ではないのだ。