∑考=人

そして今日も考える。

質問とは投資である

学生の頃に出題される問題とは違って、社会人の仕事には正解がない、とよく言われる。これは半分真実であって、半分は嘘だ。仕事の中には正解がないものと正解があるものがある。仕事の中にも必ず”事実”と”解釈”、”過去”と”未来”があるのだ。もちろん、最終的に完成する仕事レベルの単位ではもはや正解はないのかもしれない。しかし、仕事を形にするまでに集める情報とかそんな類のものについては常に正しい答えがある。

 

答えのない問いに答えるためには確実なもの、すなわち事実をよりどころにするのが最も良い。大抵のイノベーションとかも、不特定多数の事実をかき集め、そこから帰納的に導き出される抽象的な推論を出し、何をすればよいのかという仮説を立てるところから始まる。つまり、事実がわからなければお話しにならない。

 

というわけで、事実を知っていることはとても大切である。今の時代であれば、単なる情報収集はググれば済むと思うかもしれないが、会社内に閉じたような情報だと自分で調べるのはかなり骨が折れる作業であり、非常に非効率だ。できる限りは避けたい。

 

そうなると、最も良いのは、知っていそうな人に聞く、ということである。これが一番楽である。私は基本的にわからないことがあっても自分で何とかしたいタイプであるが、さすがに既知の答えを探すことに大量の時間をかけるのはやはり非効率なので、最近は人に聞くようにしている。

 

ただ私が他人に聞くのは、答えのある問題に対する回答のみである。つまり質問だ。やり方がわからなくてどうすればいいですか、という相談はほとんどしなくなった。数学でもそうだが、物事のやり方とかには正解がないことが多く、自分で考えた方が良いと結論づけているからである。

 

しかしながら、答えを聞いているにも関わらず、答えに至るまでの方法論を教えてくれる人が少なくない。これは相手が優秀で、ありがたい話なのだけれど、いやいやその方法は自分知ってますとか、あなたが回答してくれなければもともとそうするつもりでした、みたいに思うことが少なくない。

 

相手は当然親切で答えてくれているのかもしれないが、私からすれば、質問をした時間が無駄になっただけ、ということになる。私はすぐに答えを手に入れるために質問をしたのだから。さらに言えば、実際のところ、「あの人は質問に答えられなかった」と思われないように無理やり苦し紛れの回答をしてしまうケースの方が圧倒的に多いと思う。

 

ただまぁ私は最低限の概要を自分で調べたら、詳しい人に聞くようにしている。そして、どんな回答が来てもありがたく受け入れる。それは質問とは一種の投資、ギャンブルだと考えているからだ。

 

例えば、パチンコ台Aに1000円入れれば、それがなくなってしまうかもしれないし、10000円になるかもしれない。どうせ1000円入れても無駄でしょ、と思えば決して10000円になることはない。

 

質問も全く同じだ。ただし、質問の場合リターンはお金ではなく時間として帰ってくる。Aさんに聞けば長々と知っている情報を教えられたのち、自分で1時間調べなければならないかもしれないが、3秒で即答してくれるかもしれない。どうせ、答えは知らないんでしょ、と思えば決して3秒でわかることはない。

 

ただし、質問の良いところはギャンブルとは違って、質問をすればするほど精度を上げることができることだ。Aさんにこの質問がわかるかどうかの見極めがつくようになってくれば必要最小限だけ頼ればいい。そもそも、他人なんてほとんど当てにはならないというのが私の見解だけれども。