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∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

企業がグローバルリーダーを求めるわけ

今日からグローバル研修初回。これから半年間、月一で実施される。グローバルリーダーなんて微塵も興味はないのだけれど、部長命令で泣く泣く参加することになったのだ。中途半端に英語ができるとこういう悲劇を招いてしまうことがよくわかった。

 

私は基本的にグローバルで働きたいという感覚がない。また、グローバルに働きたいという人の気持ちに一切共感できないし、非論理的だと思っている。なぜなら、グローバルに働きたいならば、日本の会社に入るべきではないからだ。

 

留学経験などから「海外の人とコミュニケーションをとるのが楽しいから」とかいう人もいるけれど、はっきり言ってあきれてしまう。外国人と話をするのと、海外で仕事をするのは全く違う話だし、それが同じだったら、人と話すのが好きな人はみんな仕事大好きってことになる。そんなわけはない。

 

そう、「グローバル」という言葉を付けた分だけ、仕事の抽象度が上がってしまうのだ。だって「グローバルな仕事」がそもそも何なのかが全くわからない。営業、開発、研究、人事、これらの分類だって決して具体的なわけでもないが、これらすらわからない。グローバルな場で働けたらこれら全て何でもいいのだろうか。このあたりが不可解極まりないのだ。

 

ちなみに企業がグローバル人材を求めているのは、グローバルという言葉の抽象度とも私は密接に関係していると考えている。今世の中の流れは非常に早くなっているし、グローバリゼーションも進んでいる。当然、そこそこ大きい会社であれば、従業員を養っていくためには国外の需要に目を向けていかなければならない。かつ、経営の多角化を進めていかなければならないのだ。

 

となると、会社としてはどんな国でビジネスをするのかも予測できなければ、どんなビジネスをすることになるのかも予測はできないのだ。そして、それはいつから始めなければならないかもわからない。明日から必要、という可能性だってある。

 

となると、会社としてはどんなビジネスをすることになるかわからないが日本以外の国でも仕事ができる(仕事を引き受けてくれる)人が欲しいのである。こういったふわっっとした人物像のことをカッコよくグローバル人材と定義しているのである。煌びやかなイメージがあるが、企業にとってはただの便利屋さんなのである。

 

リーダーも同じ話だ。仕事内容を表す言葉ではなく、役割である。とどのつまり、グローバルリーダーは、「抽象」+「抽象」で本質的な何かを指しているわけではなく、ただ単に華やかな印象を与えるためだけに作られた言葉なのだ。日本人がこういう言葉に弱いことを知った上で使っているのも癪だし、こういう言葉に釣られてグローバルな仕事がしたいという人にも少し嫌悪感を抱いてしまう。

 

なのでおそらく、「アフリカの貧困問題を解決するための仕事がしたい」みたいに具体的な欲求を持っていると、グローバルで活躍するチャンスは激減する。逆にそういう仕事にチャレンジさせてもらえる企業であれば、非常に良い会社だと考えていいだろう。

 

何にせよ、グローバルな場で何がしたいか、の方がよっぽど大切だと思う。というかそれがないと、グローバルな場で働くことなんて不可能だろうし、生きた英語も学べない。TOEICで高得点を叩き出して満足していても現場でビジネスマンとして通用しない、みたいなことになるのだ。

 

自分はこういうことをやりたくて、それをするには今の日本では難しいし、海外の人とも協力する必要があるから、グローバルな場で働きたい、みたいな考えを持っていると応援したくなると思う。

 

例えば、最新の人工知能を使った新しいサービスを作りたくて、そのためには最先端の海外で情報を獲得する必要があり、そしてそれらの情報を理解するためには英語が必要だし、現地の人からの投資が必要、だからグローバルで働きたい、みたいな。

 

ただ、まぁこういうことを本気で考えている人はやっぱりもう海外の会社で働いていると思うんだよなー。