∑考=人

そして今日も考える。

ライバルの設定方法

昔は、ライバルと呼べる存在がいた。勉強でコイツには負けたくない、バスケットでこいつには負けたくない、ゲームでは、おしゃれでは、腕相撲では・・・などなど。数えればキリがない。たぶん私が勝手に思っていただけだけれど。

 

ただ、おそらく私に限らず、子供の頃は、この手の「誰かに負けたくない」という思いを抱きがちな時期なのではないかと思う。子供の頃に人間関係が悪くなったりするキッカケの一つには、常に敗北から来る嫉妬心がランクインしていたはず。

 

子供というのは思慮が浅い。例えば、自分と相手の生まれ持った才能の違いとか、育った環境の違いなどには目もくれない。ただ、今の自分と今目の前にいるライバルとの違いがあることを受け入れられず、負けたくないと強く思う。

 

この思いが良い方に転じれば自らの能力の向上につながるし、悪い方へ転じれば相手を陥れるセコいやつになってしまう。私は決して性善説を信じているわけではないが、少なくとも自分の経験では良い方に転じている人の方が多かった。というわけで、ライバルという存在は、実は自分の能力を高めるためのモチベーションとしての効力が高い。

 

ただ。会社に入って、ライバルと呼べる存在が身近にいるだろうか。

 

年齢を重ねると、人は人、自分は自分、という思考がかなり強くなる。これは幼少期とは逆で、相手の今ではなく、その人を取り巻く環境とか、その人の特性みたいな、自分ではコントロールできないところに原因を見出してしまうからである。

 

例えば、私はシステムエンジニアという仕事をしているが、このシステムエンジニアという仕事は文系の人間もかなりの割合を占めている。文系・未経験でもOKのIT企業はたくさんあるのだ。ただ、ちょっとした専門用語とか、サーバの操作とかは理系・情報系の人間の方が馴染みやすい。

 

さて、あなたが文系の人間だとして、理系の人間が例えばLinuxのサーバコマンドをバリバリ叩いたり、シェルスクリプトを作ったりできるところを見て何を感じるだろう。子供の頃なら、「なんであいつにできるのにおれにできないだ!おかしい!」と思う。しかし、大人になった今であれば、「あいつは理系でおれは文系だから能力に差があって当然だ」と考える。そういうことである。

 

もし、ライバルがいないと思うのであれば、自分が常に上記のような思考回路で他人を見ていないかを少し振り返ってみてもいいかもしれない。一番の原因が相手は相手、自分は自分と完全に切り離して考えてしまうことなのだ。

 

もう一つ原因があるとすると、社会人というのは学生の頃と違って、チームを構成するメンバの多様性が広がっているために、自分と相手との差をより明確に感じやすい、ということだ。

 

学生の頃に一緒につるむメンバは必ず、同じ学校とか同じ部活とか、生活の大部分を共有しており、かつ趣味嗜好も近いことがほとんど、そしてほぼ間違いなく同年代である。また、高校以降は能力の近いメンバが同じ学校に集まるようになる。類は友を呼ぶ、と言われるように、同類なのだ。共通点が8割ぐらいあるので、決定的な差を意識することは少ない。

 

社会人は背景も違うメンバの集まりだ。もちろん、思考パターンや行動特性など抽象的な共通点は多分にあるのだろうが、具体的な経験、興味・行動などは異なる。また、日本に強く根付いている年功序列の精神のせいで、先輩とか年上の人と対面すると、無条件に自分が下だと考えてしまうよう洗脳されている。

 

ライバルとはそもそも自分と同等相当の能力を持っている相手に対して定義される言葉なので、先輩に対してこの概念を当てはめることは難しい。ただ、それは先輩とは自分よりも経験があり自分よりも優れた存在だと勘違いしているからにすぎない。同様に、後輩が自分よりも経験が浅く自分よりも劣った存在だと勘違いしているからにすぎない。

 

確かに経験は大切である。長く経験を積んだ人へ敬意を持って接することも日本ではやはり大切だ。しかし、経験があるから自分より優秀、ということはない。ここは断言しておく。経験から何を学んだかが重要であり、経験を何に活かしているのかが重要なのだ。だから、なんかこの人に言われると腹立つな、と思う先輩をライバルとして考えてみてはどうだろう。