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そして今日も考える。

キャリアよりも小さなやりたいこと

先月の話ではあるが、主任というポストがついた。ついこの間まで新入社員、今もまだ後輩は二人しかいない。そんな中の、出世である。聞いた話によると役職がつかない人も一定数はいるらしいが、年功序列のお決まりみたいなもので、実質的な価値はない。

 

そんな経緯もあり、主任向けの研修とやらを先日受講させられた。テーマはキャリアである。平たく言えば、「あなたは将来にわたって何がやりたいのかを本気で考えましょう」、というやつだ。うちはITの会社ではあるが、会社が用意しているキャリアとしては営業とかコンサルとか、技術系のスペシャリストとか様々なものがあるので、その選択肢を考えることが趣旨となる。

 

日本人の中で、自分がやりたいことを明確に意識している人はほとんどいない。実際、私のグループは皆、私よりも年次が2年も上の先輩だったが、誰一人として、自分がどういうキャリアへ向かっていきたいか、ビジョンがはっきりしていなかった。かくいう私も技術系へ進むこと以外はそれほど考えていない。

 

あなたは自分のやりたいことを考えたことはあるだろうか。あるいは、やりたいことがない自分を嫌だと思ったことはないだろうか。

 

私は今まで自分のやりたいことを考えてきたつもりである。やりたいことをやる人生、自己実現が幸せだという仮説を信じているので、当然実行するための「やりたいこと」が必要である。逆に、やりたいことがなければ人生はつまらない、ということでもある。

 

だから、やりたいことがない、やりたいことがよく分からない自分が嫌であった。しかし、本当のところ、「やりたいことがある」状態にさえなれば、悩んだり考えたり苦しんだりすることなく、幸せになれる保証を手に入れたかっただけなのかもしれない。俗に言う、青い鳥症候群とはこういうことを言うのだろう。最近はこういう若者が多いのだとか。

 

さすがにこの年次にもなると、自分が永続的にやりたいと思い続けられることなんてものはない、ということを悟ってしまいつつある。人生というのは、具体的なやりたいことを見つけて、それをやって、それに飽きて、また別の新しいやりたいことを見つけて、それをやって、の繰り返しである。悩んだり考えたりする時期があって、楽しい時期があって、それを繰り返していくだけだ。そういう過程を通して、自分の中の抽象的なやりたいこと(しかし、それは単なる憧れとかではなく経験から帰納化されたもの)を理解していくしかないのである。

 

だから、今やりたいことがなくても問題はない。というか、子供の頃はやりたいことなんてなくても楽しかったんじゃないだろうか。ちょっと昼休みにドッジボールしたい、とか気になるあの子と話したいとか、みんなで花火やりたいとか、そんな些細なことをやってるだけでも幸せだったのではないだろうか。

 

ただ一つ、子供の頃と今の違いは、未知の領域の広さである。子供は普通に生きているだけでも教育の場で新しい情報を与えられ、初めての経験をさせられるが、大人はもう自分から動いたり行動パターンを変えない限り、新しい興味や関心を得ることはできない。そのため、些細なやりたいことすら簡単には思い浮かばないこともあるだろう。

 

そのためのやりたいこと探しだ。人生全てを捧げるほどのやりたいことを見つける必要はない。ただ少しでも新しい情報に触れる、新しいことをしてみるぐらいの努力をしないと、小さなやりたいことさえ見つからない。

 

さて。長期的なキャリアという視点にたつと、今の選択がすごく重要で、それを間違えると人生全てが崩壊するような気持ちになったりもするだろう。しかし、どれを選択したところで大して変わりはしない。むしろ、一度選択したきりで思考を停止してしまうのが問題なのだ。