∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

定例会議が主体性を奪う

実は4月から方式チームのリーダーになってしまったんですね。実務経験は約半年足らず。技術力、専門知識ともにまだまだ素人レベルにもかかわらず。まぁ厄介な先輩の下で働き続けるよりは、自分もチームも健康になったかなとは思いますし、自分がコントロールできる裁量が大きくなって、仕事は進めやすくなったとは思います。

 

ただ、当然悪いこともたくさんあって。もっとも個人的に辛いのは現場経験が詰めないことですね。そもそも方式へ転換したのだって、AP開発では設計のサル真似程度で、プログラミングもできず、技術力がつかないと判断したからなんですけど、リーダーポジションになってしまうと、サーバいじったりする機会が減ってしまう。皮肉な言い方すれば、人使ってなんぼの仕事でしかありません

 

上記にも関連しますが、打ち合わせや説明をする機会が増えましたね。進捗報告用の資料を作ったり、内部の定例会議を開いて全員の進捗や課題を刈り取ったり、ルールを策定したり、と。わかっちゃいましたが、これが割と負担です。多くの情報を得られるようになったのはメリットだと思いますが、如何せんそれを活用しきれていない気がします。会議の時間もさながら、それに向けた準備や説明の仕方を考えるのも結構稼働がかかるんです。だから自分のやりたい仕事があんまり捗らない。

 

というわけで最近は、「定例会議って本当にいるのか!?」と強く思うようになりました。定例会議ってなんとなくあった方がいいし、ないと困りそうなんだけれど、そういったなんとなーくの理由で開催されている文化がありますよね。で、新人の頃にそれが当たり前のものとして洗脳されるから、誰も疑問を持たない。なんなら、新しくプロジェクトを始めることになっても、まず定例会議をいつやるかから決めたりする。う〜ん。

 

しかも、定例会議自体にどんな価値があるのかを考えてみると、ビックリするほど価値がない。議事録には「報告資料の通り。」の羅列が並んでいるだけだし、資料の内容を深堀する程度の議論(というかただの勉強会?)の証跡がたまに残っているだけ。

 

ぶっちゃけ、定例会議をやるのって偉い人が怠慢なせいなんですよ。

 

どうせ会議用に報告資料を作っているわけだし、事前に課長なり部長が資料に目を通してくれればいいだけじゃないですか。沢山人が集まる必要もないし、知りたい情報だけを選択して確認することだってできる。絶対に会議を開くよりもかかる時間もコストも小さい。

 

「資料だけではわからない部分があるから対面の方がいい。」こんな答えが返ってくるかもしれませんね。いやいや。わからないとこがあるなら、何がわからないかを明確にした上で、質問すればいいじゃん。社会人2年目だってそのくらいできるでしょ。それを課長や部長がやらないのはなんで?コストの無駄?会議に集まる人数考えたら、年収に5〜10倍ぐらい差がないとその理屈は通らないと思います。

 

彼らの本音はこうなんです。

 

例えば、映画を見るのと小説を見るのとどっちが疲れますか?ってゆう話です。間違いなく読書の方がしんどいです。それはなぜか?能動的な行為だからです。目を動かして、思考を働かせて、ページをめくらなければ読み進めることができません。これに対し映画は受動的です。ただひたすらぼーっと時間とともに流れていく映像を見て音楽を聞くだけ。楽なんですね。他人の説明を聞くのも全く同じ。受動的でもある程度の内容は理解できるんです

 

あるいは、進捗における課題について議論するのも定例会議の目的だ、という人もいるでしょう。でも、課題は課題で議論する場を設ければいいだけの話ですよね。しかも、事前に資料を読んだ上で、議論をした方がいい意見や解決策が出るとは思いませんか。

 

先にも述べた通り、定例会議の場でなされる議論は議論になっていないことが多く、その結果特に何かが生まれるわけではありません。せいぜい、誰かが安心したいがための再確認の宿題が増えるくらい。これも大体が無駄な作業です。

 

なぜ、そうなるかって、初見で得た情報に対していきなり議論をしようとするからです。また、立場上何か発言や指摘をしないといけない、という観念的なものから、的外れな議論(本来必要ではない議論)に発展するケースが多々あります。(なのに自分は議論ができていると考えている「議論をしている自分に酔っている」人が大企業には沢山います。)実際のところ、瞬時に価値あることを考え出せる人間はごく一握りの人だけです。

 

有意義な議論をするためにもまず、事前に資料を読み込んで内容を把握した上で、課題について検討会を開いた方が良いでしょう。各々が解決策の叩き台を考えた上で議論ができれば尚良し。ただ、この「議論する場を設ける」という行為も主体性・能動性が求められる行為なんですね。だから、ほとんどの人は率先してやりたがらないんですね。

 

と、こうやって利益よりも楽を優先した結果が定例会議なんですね。そして、ここでいっている楽というのは「主体性が求められない」ことを意味しています。単純な話、定例会議があると、誰を呼ぶか、いつやるかは既に定められていて、自分が目的に照らし合わせた上で考える必要がありません。こういう組織風土が社員の主体性を奪う要因にもなっているんじゃないでしょうか。

 

ただ、もちろんここには逆のリスクもあって。主体性がない人間で構成されているのに定例会議がないと、課題の対応が遅延したり、漏れたりするんですね。主体性が必要なのに、主体性を発揮しなければ問題がおきます。だから定例会議を開催した方がいい、と結論が導かれることが多いのも事実です。(私自身そう考えていた時もあります。)が、ただ一つ言えるのは、定例会議を開催するのは主体性がないことに対する最も簡単な暫定対処でしかない、ということです。

 

定例会議を無くす方法について考えていたのに、主体性の話になってしまいましたね。ただ、こんな風にメリット・デメリットを押さえておけば、別の解決策も模索できそうな気がします。